バーテンダーの顛末
押し切られた形で一緒に帰る羽目になった冬亜は、自宅へ戻ると早々にシャワーを浴び、ベッドで天井を睨みつけていた。
葵葉の言葉や態度は、自分の予想を尽く外してくる。それになぜ自分に構ってくるのかも分からない。
初めは光宗達から標的にされているのが理由だと思っていた。可哀想なやつだと、同情からの優しさや教師への点数稼ぎとか。
でも今日の葵葉の態度を見ると、それはどうも違うように思える……。
日本に来て以来、葵葉のようなタイプは初めてだった。
飄々として拍子抜けさせる振る舞いは、一見いい人そうに見える。だが、本当にそうだろうかと、冬亜の過去が簡単に人を信じるなと語りかけてくる。
まあいい。あんな奴ほっとけば……。
半乾きの髪をクシャりと掴むと、冬亜は放置してあったスマホに手を伸ばした。
世情を知るのは好きだ。
テレビのアナウンサーが深刻な顔で事件の記事を読んでいても、冬亜にとっては幼児向け番組のように思える。
毎日飽きもせずメディアが煽った事件が小さな島国を揺るがし、最高に馬鹿馬鹿しくて笑えてくる内容ばかりだ。
冬亜の生まれた村とは比べものにならない、生ぬるい事件ばかりで辟易する。
画面に表示されるトップ画面から、最新の情報やローカルニュースまでを流し見していると、スクロールしていた指が止まった。
かなり下の欄に書き込まれた記事の中に、覚えのある名前が飛び込んで来たからだ。
『九日夜、東京渋谷のバーで、店の従業員の男性を刃物で刺し、殺害しようとした二十七歳の男が殺人未遂罪で逮捕された。容疑者は、
簡潔に纏められた小さな傷害事件。
バーの名前は表記されてなかったが、店内の写真が一緒に掲載されていた。そこは紛れもなく、冬亜の知るBINだった。
「へー、あの人とうとうやったんだ。でも未遂かぁ、惜しかったなぁ」
記事を読みながら残念そうに呟いた。
予想の範疇まではいかなくとも、忍と言う男が何かことを起こす予感はしていた。
男同士の恋愛、痴情の絡れからのトラブル。薬物を使用しているくらいだ、理性を失って警察沙汰になるのも想像はできた。
ドラッグをやる奴を相手に、まともに話し合いなど出来っこない。けれど忍と言う男は、冬亜の誘導通りに説得しようとしたのだろう。
一度知った甘い蜜は、そう簡単にはやめられない。ちまちま酒を提供して得る利益より、クスリは簡単に金が儲かる。
快楽を伴う収入源を、いくら恋人だからと言って手放させるなど、欲に目の眩んだ人間には無理なことだ。
ベッドの上で体を折り曲げ、冬亜は肩を揺らして笑った。
これだから人間は面白い。ちょっと背中を押すだけで、こんなに楽しませてくれる。
この家の主人も、里古も、学校の連中もみんなそうだ。口では偽善を並べても、腹の中では自分と同等の人種だ。
ひとしきり笑いを堪能した冬亜は、興味を惹くネタのなくなったスマホをベッドに転がし、下腹部に手を当てて目を閉じた。
次は誰が何をしてくれるのか、考えるだけで興奮して身震いする。
久下の行動にも期待するが、冬亜には他にも気になる人間がいた。
曳原と行ったクラブで知り合った、
拝田は冬亜より二つ上で、同じ高校の卒業生だった。
拝田は高校を卒業後、進学も就職もせず渋谷のクラブでバイトをしている。
まだ曳原と行動を共にしていた頃、クラブで拝田と初めて出会い、自分はもうすぐカーレーサーになるんだと、甘ったるいことを豪語していたのを聞いた。
何の素質も努力もしていない人間が、そう簡単になれるものじゃない。その場にいた人間は誰しもが同じことを思ったはずだ。けれど拝田はやけに自信満々だった。
この世で一番、虫唾が走るタイプだと思った。
瞼を閉じたまま、屈強と掲げる拝田の夢が木端微塵になることを想像してみる。だが、その考えを叱責するよう、姉が読んでくれた絵本が頭の中でページを捲った。
赤い顔に青い体の醜い青虫が、毎日いろんな食べ物を食べ、大きくなって最後には美しい蝶になる。
シュエリンは最後のページになると、いつも同じことを言ってくれた。
——翠蓮きれい、翠蓮も蝶になる。
絵本の主人公と冬亜を重ねて──と思って言ったかどうかはわからない。そこまでの知識が姉にあるはずないのを知っている。きっと死んだ母親が言って聞かせていた言葉を丸暗記したのだろう。
いつかきっと、大人になったら幸せになれる。でもそれは虚像で、現実には幸せなど掴めない。けれどシュエリンの言葉だけは素直に聞けた。
醜い体が綺麗に羽化することを信じて、笑顔で言ってくれた彼女だけが冬亜の救いだった。
最後に見た姉の顔を思い出し、なぜかそこに葵葉の顔が重なる。
──ちっ! 何であんなやつのことを思い出すんだ。
癪に触った冬亜は、奪うようにスマホを掴むと、曳原の名前をタップした。
相変わらず機械音が応答するだけで、曳原が電話に出る気配はない。
「ほんと、あの人何してんだか。給料泥棒かよ」
独り言を言うと時計にチラリと目を向け、軽く息を吐いた。
菱谷が来る時間だった。
週一回の家庭教師の日。彼曰く、冬亜にはもう勉強を教える必要はないと言う。何度か向こうから辞退の話を切り出されたが、冬亜は受験を理由にそれを拒んでいた。その時の菱谷の顔は、なんとも言えない表情を浮かべていた。
菱谷が辞めたがっている理由を冬亜は知っていたけれど、日本に留まるためにはまだ彼が必要だから継続を言い続ける。
大学を卒業し、確固たる仕事を手に入れ、居場所を確保するまでは死守する。
そんな思いに耽っていると、階下からインターホンの音が聞こえた。
部屋のドアを開け、下の様子を覗き見ると、床を滑るように慌ただしくスリッパの音が聞こえる。玄関ドアが開く音、次に菱谷の声と里古の声が聞こえた。
会話をしながらリビングに到達しても、二人はまだ立ち話している。
部屋のドアに身を預けながら、冬亜はもうすぐ階段を上ってくる菱谷を待った。
「やあ、先生」
現れた菱谷が瞠目し、部屋の外で待つ生徒の姿に足を止めた。
「驚いた……。どうしたんだい、珍しいじゃないかお出迎えとは」
「先生の顔を早く見たかったんだよ」
「へえ、嬉しいこと言ってくれるね。冬亜君みたいに美人に言って貰ったら、今日の授業もテンションが上がるってもんだ」
相変わらずの垂れた目を眼鏡の奥で一層下げた菱谷が、気合を入れているのか、髪をゴムで縛りながら部屋に入ってきた。
以前はギリギリしか結べず、チョンマゲのようだった髪も、今は束ねてくれないと見た目が鬱陶しい長さだ。
戦闘モードになった菱谷が、ニンマリと笑いかけてくる。
「なんだよ、気持ち悪い顔して」
「気持ち悪いって──酷いな冬亜君。これでも気合入れてんだからさ。なんたって俺の生徒は優秀過ぎるから、教える方も大変なんだよ」
「楽でいいだろ?」
二人が所定の位置に肩を並べると、菱谷の体から仄かに上品なお香の香りが漂う。
覚えのある匂いに冬亜は頬を緩めた。
「そう言えば夏期講習っていつからだっけ」
「夏休み入ってすぐの一週間だったかな。でも参加するかどうか迷ってる。行っても内容は俺にとっては復習ばっかになりそうだし」
「復習ってのが一番大事なんだぞ。でもまあ正直、君には必要ないかもね。俺もお役御免でいいくらいなんだし」
「またその話か。卒業するまで面倒見てくれんだろ。じゃないと困るんだけど」
参考書をパラパラと捲りながら、菱谷がどんな顔をしているのか盗み見た。
眼鏡のレンズにデスクライトが反射し、表情は見えない。少し前のめりに顔を突き出してみると、同時に近づいた菱谷の眼鏡が鼻先に当たった。
「ごめんごめん。痛くなかったか? 美しい鼻に傷付けたら大変だ。じゃ取り敢えず今日はK大の過去問をしようか──ってどうした、冬亜君」
「いや、別に」
話しをはぐらかされたように感じた。
最近こんな風に会話の矛先を、スルリと交わされることが多々ある。こっちの思惑を知ってるのか、それとも何か別に理由があるのか。最近の菱谷は以前より本質が掴めない。
もう、面と向かって言ってやろうか。里古と不倫してるだろうと。
今でこそ家庭教師の日は週一回になったが、菱谷がまだ大学生だった頃は頻繁に檜垣家へやって来ては勉強を叩き込まれた。
勉強漬けの毎日を過ごしていたある日、冬亜が中学三年の頃だ。体調を崩して学校を早退した日のことだった。
帰宅すると、玄関には見慣れた男もののデッキシューズ。
思わず足を忍ばせ、リビングのドアをそっと開けた。
テーブルの上には二客のカップ、だが誰もいない。ふと、物音を耳にし、冬亜は里古の部屋へと向かった。
ドア越しに耳を
里古が好んでよく聞いている、ちょっと重く陰鬱さを感じさせる曲だ。
いつもはドアが開いてないと聞こえない音が、今日はピッタリ閉まっているのに聞こえていた。演奏に混ざって男女の声も。
音楽で会話を掻き消すように思える状況を、この時を含め三度程目撃していた。
これが何を意味するのか、中学生ともなれば容易に理解はできる。
横に目を向けると、淡々と問題の解説をする菱谷が変わらずいる。
涼しい顔して雇い主の妻と不倫するなど、大胆なことをよく何年も続けられるもんだ。
頭の中で呆れながら、冬亜は目の前の問題を解いていった。合間で菱谷が雑談をしてきても、おざなりな言葉を適当に返しながら。
もし檜垣がこのことを知ったら、菱谷は里古はどうするんだろう。離婚を叩きつける──いや、それはきっとない。
檜垣は養子だ。檜垣グループ会長の孫娘である里古と別れるのは、彼にとってデメリットしかない。だが、会長である里古の祖父が死ねば、不倫した妻は身ぐるみ剥がされ、檜垣家を追い出されるかもしれない。
里古の最大の問題は、彼女の両親がもうこの世にいないことだ。おまけに祖父は高齢で病に伏せ、表舞台にはもう出てこない。実質、今、会社を動かしているのは養子である檜垣なのだ。そうなると、里古あっての冬亜の立場も危うい。
凱旋将軍のような檜垣とは正反対の菱谷。彼と里古の逢瀬は今でも続いているのだろう。頼むからもう少しバレずにいてくれと、冬亜は願うしかない。
「──で、ここはセンターでもよく出るパターンだから──って冬亜君聞いてる?」
「聞いてる、聞いてる。もう覚えてるし、ばっちりだよ」
「さすがだな。ほんと、俺いらないな」
「なんだそれ」
軽口を互いに口にした後、菱谷は参考書へ、冬亜はノートへと目を落とした。
静謐な空間には、紙のめくる音とペンを走らせる音だけ。
耳心地のいい音を聞きながら、冬亜は頭の中でもう数ヶ月会ってない檜垣の顔を思い浮かべた。
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