気になる存在
「髪の毛、まだ濡れてるな」
光宗達の後を追う久下の背中を見届けると、葵葉がポケットから取り出したタオルで冬亜の髪を拭こうと手を伸ばしてきた。
「やめろ」
半袖の開襟シャツから伸びた白い腕を払い除け、冬亜は上目遣いにひと睨みする。
だがタオルを持つ手は怯むことなく、冬亜の濡れた前髪を優しく撫でてくる。
「だから、やめろって」
「だめだよ。ジュースで濡れて髪が痛む。せっかくキレイな黒髪なのに勿体ない」
また勿体ない……。
髪を拭こうとしては払い除ける。そのやり取りが数回繰り返されると流石に冬亜も諦め、葵葉のお節介を渋々受け入れた。
いつの間にか残っていた生徒も下校し、教室には葵葉と二人だけだ。
「お前、暇なのか」
ベタつくからと一旦鞄に詰め込んだ冬亜の私物を引っ張り出し、葵葉が自前のウェットティッシュで念入りに拭き始めている姿に言った。
「え、暇──じゃないけど、後々困るだろ、こんなの」
黙々と作業を続ける姿を尻目に、わざとらしく大きな溜息を吐いた。憤まんの意図に気付かないのか、図太いのか、葵葉がユルッとした微笑みを返してくる。
「お節介だな、お前」
「そうかなぁ、普通だと思うけど」
丁寧に一つずつ拭きあげていく手を止めず、葵葉が呑気に答える。
「他の連中見ただろ? みんな高みの見物だ。って言うか、お前が馬鹿なのか。下手したら今度はお前があいつらの標的になるんだぞ」
「いや、それはないな。光宗達のはやっかみ……と言うか、檜垣に憧れてんだなきっと。もっと近付きたいんだよ、アイツらはお前に」
「なんだそれ」
「きっとそうだよ。何か檜垣ってかっこいいじゃん、孤高の狼みたいな感じでさ。だからアイツらのは憧れからなんだよ、ちょっと屈折してるけどさ」
鳥肌が出そうな言葉をつらつら話す葵葉に呆れ、もうこれ以上関わりたくない気持ちを表すよう冬亜は、机の上にばら蒔かれた荷物を鞄に詰め込んだ。
静かな放課後の教室に、西日がこれでもかと力強く差し込む。
ボールを追いかける声が遠くに聞こえると、現実でもドラマでもよくある放課後をどこか心地いいと感じた。どうしてそう思ったのかわからず、自分で生み出した疑問をなかったことにしようと頭を振った。
凪いでいる自分の心にとてつもない違和感を感じ、目の前にいる葵葉をそっと盗み見た。
教科書を心配げに撫でている横顔、鼻筋の通った綺麗な輪郭を視線でなぞると、その先に待つ紅に近い桜唇に辿り着く。
顎のラインから喉元に移ると、華奢な体を思わせる鎖骨が開襟からチラリと見えた。
落ち入りそうな太陽の欠片が反射する白い頬と、いつもより茶色く見える癖毛の髪が小ぶりな耳の側で踊り、繊細な毛束が幼さを感じさせる。
痛って……。
ツキんと心臓に痛みを感じ、次にドクンっと体の中で何かが呻る音が聞こえた気がする。
全身の血管を畝る血潮が勢いを増し、鼓動が早くなっているのが自分でも分かる。
プール清掃の時に味わった疼きとはまた別の、締め付けられるような痛み。
他人に何の感情もわかない、大切なのは姉だけ。彼女の笑顔を守るためなら、人を殺すことだってできる。
地獄のような世界で、一縷の光りだったシュエリン……。
これまで他の人間に対し、何かしらの感情を芽生えさせることなど一度もなかった。
なのに、どうしてこいつに反応する……。
光に溶け入りそうな横顔を目を眇めて見つめていた。無意識に……。
この
自分にかまってくるのも優しく接するのも、この国特有の偽善だと知っている。
退屈だった心の隙間に、たまたま葵葉のお節介がハマっただけ。
冬亜は自分の心をねじ伏せ、視界から葵葉の存在を排除しようと窓の外へ視線を置いた。
暑さを和らげる風がカーテンを揺らし、そのまま冬亜の前髪に届く。サラサラとそよぐ絹のような黒髪に華奢な指先が差し伸ばされ、冬亜はピクリと体を硬直させた。
「な、なんだよ」
「あ、ごめん。前髪が揺れててきれいだなーって」
戯けたように笑う眸に、引き攣った自分の顔が映り込んでいる。
見たことのない自分の顔に驚き、触んなと、咄嗟に背を向けた。
拒絶したひと言が精一杯で他に何も浮かばない。こんな感覚も初めてだった。
「悪い、悪い。でも綺麗すぎて触れずにはいられなかった」
「キレイ、キレイって、何なんだよお前は。もう俺に構うな」
「えー、それは無理だ」
最大限に拒否って見せても、予想外の言葉を葵葉が返してくる。それも凹むわけでも、怒るわけでもなく、涼やかな笑顔で。
「無理って……お前分かってんの? 俺に構ってると面倒なことになるって言ったろ。光宗みたいなガキは何してくるかわかんねーし」
「ガキって──。同級生にそう言われちゃ、あいつらも堪ったもんじゃないな」
「何言ってる、お前もさっき似たようなこと言ってたろ」
「あー、確かに。ってか、話が逸れてる、逸れてる。俺は檜垣が拒んでもこれからも構うからな。檜垣をほっておけないから」
何を言ってるんだ? 思わず頭に浮かんだ疑問符を直接ぶつけそうになった。たかだかクラスが同じになっただけで、葵葉にとって損にはなっても特にはならない。
いったいこいつは何を考えてるんだ……。
「……もういい。帰るわ──」
「なあ!」
溜息と一緒に鞄を肩にかけ、席を立って出て行こうとすると、勢いよく葵葉に手首を掴まれた。条件反射で静止したものの、冬亜は振り返りもせず、なに、と低く返事をした。
「檜垣に聞きたい事あったんだ」
「何だよ」
「檜垣って英語話せるよな。俺この間、お前が外国人と話してるのを見たからさ、渋谷のバーの前で」
手首を拘束されたままゆっくり振り返ると、何の下心もなさそうな無垢な顔があった。
まさか葵葉みたいな真面目な人間が夜の渋谷に? ましてや繁華街を徘徊していていたと言うのか。もしかしてバーに入るところも見られたのだろうか?
眉に動揺を表したが、それを直ぐに解き、開き直りにも似た笑みを口角に作った。
「それが? 未成年なのにバーに行ってるって壽にでもチクるか。けどそれを見たってことは、お前もその場にいたってことだろう。それはそれでヤバいんじゃないのか」
半ば脅すように葵葉を見据えながら、腕を振り解いて威嚇を示した。
「ハハ、だね。俺もヤバいかも」
裏も表もない表情で葵葉が笑いで返す。無邪気な態度に脅される予感は薄れたけれど、薄まっただけで警戒心は消えてない。
「お前……何がしたい」
「え? 何がって?」
クスクスッと前髪を揺らし笑う葵葉の心が読めず、冬亜は
「……もういい。チクリたければチクれば。付き合ってられない」
「あ、そうだね。じゃ帰ろっか」
「だから何でお前と──」
「もう忘れた? 一緒に帰る約束したじゃん。それに、お前じゃなくて名前で呼んで欲しいな、葵葉ってさ」
「何で俺が親しくもないお前を名前呼びするんだ。それにもう一人で平気だ、ほっといてくれ」
「親しく? 檜垣は名前呼びイコールは仲良しって思ってるんだな。うんうん、わかる、わかる。そしたら俺も冬亜って呼ばないとだな」
「なっ──」
反論の言葉を探そうとしても、相変わらずな葵葉は和かな笑みを向けてくる。不意打ちとは言え、チラリとでもこの男の色香に惑わされたかと思うと、冬亜は反応した自分の愚かさを悔やんだ。
「さあ、冬亜。帰ろう、帰ろう」
背中をグイグイ押してくる葵葉のか細い力に逆らいながらも、冬亜は背中に触れる手の温もりに抗えずにいた。
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