自分の部屋

 運転手へ代金を支払い、冬亜はタクシーを降りると、少し先にそびえ建つマンションにつま先を向けた。

 歩きながらスマホに目を向けると、時刻はいつもと同じ二十二時過ぎ。

 未成年の塾帰りには丁度いい時間だろうと決めたルールだ。


 美しく剪定された樹木の横を過ぎ、正面玄関の自動扉を入ると、その先には美しい敷石が床一面に張り巡らせてある。

 セキュリティを認証させ、風除室を抜けると、天井の高いエントラスホールが姿を表し、静寂の中を軽やかなエレベーターの到着音が響く。


 時間的に住人の出入りは少なく、今夜もエレベーターの前まで誰にも会わなかった。

 箱に乗り込み、扉が閉まる寸前まで通ってきたホールを見ながら嘆息した。

 この場所の広さだけで、故郷の人間が何世帯住めるのだろうか。

 貧しかった幼少期の生活と比べると、日本ここは本当に同じ人間の世界なのかとさえ思えた。


 癒しを与える清潔な香りに比べ、カビて異臭を放っていた、忘れたくても忘れられない住処は今でも冬亜に悪夢を突きつけてくる。

 一気に最上階の二十七階まで到達すると、冬亜はカードキーでドアを開けた。

 玄関ホールには灯りが灯っていたが、部屋の中は静まり返っている。


 檜垣の姿は今夜もない。ここ最近は忙しいからか、家には帰らず会社近くのマンションで寝泊まりしているらしい。

 学校から帰宅した時は出迎えてくれる里古も、曳原とのレッスン日にはそれをしない。里古なりの遠慮なのか、冬亜のプライベートにもあまり口出しはしてこない。


 冬亜が檜垣家で暮らすようになった時には既に、夫婦は別々の寝室で過ごしていた。当時はその意味が分からなかったが、今では察しが付く。

 眠っているのか起きてるのか分からない里古の部屋を通り過ぎ、冷蔵庫のペットボトルを取り出して乾いた喉へ水を注ぎ込んだ。

 中身を半分ほど残して蓋をすると、内階段を静かに上った。


 タワマンの最上階にしかない、メゾネットタイプの部屋は嫌味なほど贅沢だ。冬亜は階段の中程で立ち止まると、間接照明がぼんやりと灯る空間を見下ろした。

 こうやって景色を眺めるのが癖になったのは、過去と現在を比較して自分の存在意義を確かめたいからかもしれない。

 数年前までは、太陽の明かりさえ贅沢な生活だった。

 食べるものも満足に与えて貰えず、冬亜の体は同じ年齢の子どもの標準体型をはるかに下回っていた。

 初めて里古と対面した時、彼女は貧相な冬亜の体を抱き締めながら、日本語で何か囁いていたのを覚えている。

 その時、不覚にも死んだ母を少し重ねてしまった……。


 彼女が何を言ったのかわからず、そのまま風呂場に連れて行かれた。

 清潔な浴槽に恐る恐る足先を沈めると、余りの熱さに全身が震えた。それを察した里古が、手のひらで掬った湯をゆっくり肩にかけてくれたっけ。

 痣を隠すようにしていた冬亜も、いつしか体を解き、杜若かきつばたのような色の柔肌を彼女が丁寧に洗ってくれた。


 ペットボトルを机に置くとベッドの上で大の字になった。

 フラットな天井に嵌め込まれたダウンライトをぼんやり見つめながら、初めて自分だけの空間をもらった時の嬉しさがフッと浮かんできた。

 頭の片隅にある疑懼ぎくは、自分がヘイハイツだと言う事実。

 何のために生まれてきたのかを問いたくて手を差し伸ばしても、それは躊躇なく払い除けられてきた。


 動物と違って人間は感情がある──。

 それはそうだ。現に自分の中にも憎悪と言う感情が充満している。他の感情は捨てて来たと言っても過言じゃない。

 冬亜がこの家に住み、生かされているのは、檜垣に何かメリットがあるからだろう。

 理由は想像もできないけれど、必要じゃなくなれば捨てられるのだけは分かる。

 昔も今も、戸籍のない人間だから……。

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