久下(くげ)

「おい、檜垣」

 四時間目の授業が終わると同時に、面倒臭い三人組の内の一人、久下くげが昼食の用意をする冬亜に声をかけてきた。

 上目遣いに相手の表情を伺うと、それが癇に障ったのか、吊り目で見下ろしてくる顔は、今にも舌打ちしそうだった。


 ハード系のワックスでガチガチに固めた短い髪をガシガシかく久下が、冬亜を教室の外へと誘う仕草を顎で示してくる。

 貴重な昼休みに水をさされ、面倒臭さそうに久下の背中をついて出て行こうとし、教室を振り返ると、いつも連んでいる他の二人の姿がないことに気付く。

 冬亜は久下の後をついて行くことに嫌な予感がした。

 ワックスで磨きたての廊下に、踵を踏んだ上靴のゴム底を摩擦させ、キュッキュッという耳障りな音が先へ進むと、音に連なって歩くのが気怠くなる。


 久下が向かった先は、屋上に行く途中の踊り場だった。

 薄暗い場所を訪れる生徒は少なく、やはり今日も先約はいない。

 冬亜は他の二人の顔が潜んでないかだけを警戒した。

 屋上への扉はピッタリ閉じられ、天窓しかない場所は夏特有のムッとした暑さと埃臭さが充満していた。

 体温の低い冬亜と違い、久下は暑そうに開襟シャツのボタンを外し、生地をはためかせながら、さっきからずっと視線を泳がせている。


「……お前幾ら持ってる?」

 やっと口を開いたかと思うと金か。まあ、そんな事だろうとは思っていたけど。


 普段は二人の後ろから囃し立てるだけで、自ら率先して事を起こすことはないのを知っている。臆病で根性がない男なのは以前から分かっていたし。

 久下の顔をジッと観察していると、若干いつもと違う空気を感じた。

 身構えているとでも言うか、緊張していると言うか……。


「それをお前に言う理由は?」

「う、うっせーっな。ごちゃごちゃ言わずに言えよっ」

 単細胞な脳みそでは、怒鳴って相手を黙らせる手立てしか思いつかないのか。おかしくて笑いそうになる。けれど、そんな冬亜にも予想できないほど、今日の久下は余裕がない。


「昼飯買う金がない──って話しじゃなさそうだな」

「当たり前だっ! 俺が言ってるのはそんなショボい額じゃない」

 高校生が金を必要とする理由。しかもいつものお仲間が一緒だと言いにくい内容なのを察した冬亜は、手のひらで口元を覆うと口角を上げてほくそ笑むのを隠した。


「女と遊ぶための軍資金──ホテル代ってとこか?」

 冬亜の口から出てきた言葉にカッとなった久下が、「違うっ」と声を荒げる。

「じゃ何に使うんだ、ってか、お前の言うショボくない金額はどれくらいなんだよ」

 陽の光が乏しい空間に似つかわしい、陰鬱な表情の久下の言葉を、胸の前で腕を組み、壁に寄りかかって冬亜は待っていた。

「……っ……まん」

 詰まらせながらも久下が声を漏らす。ただ、余程言い難いのか、それは小さくて聞き取れず、なんて? と腕を組み替えながら冬亜は小首を傾げた。

「……じゅう」

「ジュウ?」

「じゅ、十万だよっ。持ってるだろ、お前なら。家が金持ちなんだからそれくらいっ」

「へえ、十万ねぇ」


 敢えて声の音量を上げて言うと、コンクリートの壁に声がぶつかり、反響した大きさに慌てた久下が、階段下に人がいないかを確認するよう踊り場から下を覗き込んでいる。

「っお前、声デカいだろうが!」

 慌てふためく後ろ姿に、冬亜は笑いを噛み殺すのに必死だった。

「悪い。予想以上の金額だったからさ。で、そんな大金を何に使うんだ。どうせ親には言えないことなんだろうけど」

 カーストの頂点だと自負するお仲間の恩恵で、テッペンにふんぞり返っていても、今日は強いきな姿が見られない。流石に、普段見下している相手から金を借りるのは気が引けるのか。

 今の久下は遠慮がちな凄みを一ミリ程だけ翳す、気弱な人間に成り下がっていた。


「そう……だ、親には言えない。けど、どうしても金が必要なんだ。このままだと、あいつの──あ、いや何でも……ない」

 言いかけた言葉を咄嗟に手で封じ込めると、久下が気まずそうに目線を下に向けている。

「いいよ。用意する」

「マ、マジか!」

「けど」

「けど……?」

「理由は聞かせてもらわないとな。それが条件だ」

「り……ゆう」


 吊り目が左右に狼狽えている姿に興奮を覚えた。

 いつもは彼らの格好の餌に徹している反動からか、冬亜の鼓動は逸り、同時に体中の動脈に流れる血が熱くなるのも感じた。

 目の前の男はどんな話しを聞かせてくれる? そしてそれがどう変わっていくのだろう。考えただけで、うずうずしてくる。

 考えられるのは、借金返済、ギャンブル、ドラッグ──いや、もしかして脅されてるとか? どれでもいい、自分を面白くしてくれるなら。


 天窓から僅かな光りが溢れ落ち、冬亜はその光りを弄ぶよう、手の中に太陽の欠片を掴んでは放しを繰り返していた。すると、屋上のスピーカーから昼休みの終わりを告げる予冷が鳴り、音に反応した久下が焦りを見せている。

「五限始まるな。俺、サボったことないんだけど」

「そ、そういや委員長だった……な」

 上ずる声で誤魔化すような言葉を吐くと、覚悟を決めたのか久下が喉仏を上下させた。

「話す気になったか」

 もう一度、返答を誘うよう口調を和らげて言ってみた。


「い……」

「なに、だから聞こえないんだけど」

 冬亜の言葉にピクリと肩が震え、久下が追い込まれているのが分かる。普段は偉そうにしていても単品になると、こうもひ弱になるのが面白すぎる。

「妹が……」

「妹? お前の? で、その妹がどうした」

「に、妊娠したんだ」

「ふーん。で?」

 予想していなかった理由に、冬亜は背中を壁から離して身を乗り出した。


「……中絶を」

 ボソッと言う久下に反し、「中絶?」とわざと大きな声で復唱した。

「ばっ、お前、声デカいって言ってるだろっ」

「悪い、悪い。妹は子どもをおろしたいんだな。で、その費用がいると言うことか」

「そう……だ。保険が効かない? らしい。俺もよく分かんねーけど」

「だろうね。保険証ってのは、病気や怪我した時のためのもんだからさ。中絶は病気でも何でもない、親のエゴの人殺しだ」

「ひ、人殺しっ! そんな言い方すんなっ。けど、お前、詳しいんだな……」

「こんなの常識だろ──って、高校生は知らない方が当たり前なのか?」

「お前も高校生だろうが」

「俺は苦労人だからさ。色々知識溜め込んでるんだ」

「何言ってんだ、お前の親ってデカい会社の社長だろうが。俺でも聞いたことある名前の。なのによく苦労人なんて言えるよな。一般市民を馬鹿にしてるのか」


 冬亜の言葉に腹を立てたのか、久下がさっきまでの殊勝な態度を覆し、噛み付いてきた。

 久下の態度にくるりと背中を向け、冬亜はその場を立ち去る素振りをして見せる。

「あっ、おい! どこ行くんだ。まだ話しは終わってないっ」

 片足を一段分下へ下ろしながら、冬亜は肩越しに久下を一瞥した。

「久下こそ、立場分かってんの?」

 冬亜の言葉にたじろぐ顔がありありと見て取れ、冗談だよと、口角をあげて笑ってやった。

 冬亜の態度に安堵したのか、久下があからさまに胸を撫で下ろしている。

 緊張からの緩和を突きつけられ、久下の顔が百面相のように変わり、愉快でたまらない。


「悪い……。お前にも何か……色々あるんだな──って事か」

「俺のことはいい。で、十万だっけ。ま、費用なんて病院の言い値だろうけどさ」

「ネットで調べたら十万から十五万って……。それも時期が遅くなるともっと高くなって、おろせなくなるらしい」

「ほっとくと、どんどん腹ん中で成長するしな」

「ああ……だから早くしないと──」

「で、相手は誰なんだ」

 久下の言葉に被せるよう聞いてみた。


「は、そんなの……。そこまでお前に話す必要は──」

「分かった。じゃ、この話しはなかったこと──」

「くそっ」

 いいように手玉に取られた感を悔しがる久下を無視し、冬亜は質問を続けた。

「相手が分からないってことないよな。セックスした奴が相手だろ。それとも、レイプでもされたとでも──って、マジか……」

 冗談めかしに口にした言葉で、久下の顔色がみるみる蒼ざめていく。

 その目には、怒りなのか悲しみからなのか、種類の分からない涙を薄っすらと溜めていた。


「親には話してないのか」

「……言ってない。言えないんだ」

「言えない? 何で。母親にでも言って警察に届ければ──」

「相手は親父なんだっ」

「は? 親父って……。それってお前らのか?」

 久下の放った相手が想像以上で、冬亜の右眉がピクリと上がり、口元は緩やかに弧を描いていた。

「ああ……だから母さんには言えない」

「なる……。でも何で相手が親父って分かった? 妹がお前に助けを求めたのか。それともヤってるとこを目撃でもしたか」


「ヤっ──って。そ、そんなの見てない。綾香あやかが言ってきたんだ、助けてくれって。今三ヶ月だって泣きながら……。何とかしてやりたいんだ」

 切なそうに表情筋を緩ませる陰に、ただ妹だからと言う感情以上のものが見え隠れした気がする。

 普段は平気であけすけない言葉を口にするのに、性的なことを想像する言葉には羞恥を感じるのか。

 意外にも奥手だったんだなと、また笑いそうになった。


 久下の話しに想像以上の期待が高まり、俯いたまま、続きを話すことにまだ躊躇している姿を見て、冬亜は頭によぎったことを口にしてみた。

「お前、もしかして妹のことが好きなのか」

 冬亜の言葉で久下の耳朶が真っ赤になり、「何言ってんだ」と、露骨に慌てている。この男が、言葉より表情の方が分かりやすいことを今、知った。

 

「いや、好きだろ、その態度は。別にいいじゃん、兄妹でも」

 好きな相手が酷い目に遭っていれば怒るだろうし、内容的にもショック過ぎる。冬亜には久下の気持ちが理解できないけれど。

「ほ、本当の妹じゃない。お……れと綾香は血が繋がってないんだ。あいつは母さんの連れ子で親同士が再婚したから兄妹になった。だからあいつは俺にとって妹なん……だ」

「ふーん。ま、俺はどっちでもいいけど。金は明日持ってくるよ」

「ほ、本当か!」

「ああ。けど話の結末もちゃんと教えてくれよ。それが条件だって言ったろ」

「結末?」

「そう。け・つ・ま・つ」


 壁に持たれていた背中を離し、胸の前で両腕を組み直して久下を見据えた。

「け、結末も何も、病院言って手術したらそれで終わりだ。後はバイトでも何でもして金をお前に返せばいいんだろ」

「そんなこと言ってるんじゃないよ。真相はどうなのかってことを、教えてくれればいいだけだ」

「い、言ってる意味が分からねーよ」

 本鈴はとっくになっていて、五限目はもう始まっている。

 きっと教室では冬亜の姿がないことと、その人間を目の敵にしていた久下の不在に不穏な空気が湧いているだろう。

 日頃から品行方正を重んじる冬亜にとって、久下と二人でいることは無益な時間だった。けれども退屈な日常に、久下の話しはいい感じのスパイスになる予感がする。


 取り敢えず久下は中絶して終わらせたいのだろうけど、相手が相手なだけに、今後も同じ屋根の下でこれまでと変わらず暮らすには無理がある。

 このままで済むはずはない。そう予感し、冬亜は腕を解いて久下の肩に手を置いた。

「本当は妹もお前のことが好きなのかもって思ってさ」

 心にもないこと言った。

 言った自分もセリフも気持ち悪い。けれど、この言葉は今の久下には効果覿面な気がする。

「はあ? な、何言って──そ、そんなこと……」


「久下が気付いてないだけかもしれない。実際、誰にも相談できないことをお前に話したたんだ。親父から救って欲しいと訴えた裏で、お前の反応を確かめたかったんじゃないの?」

「で、でも本当に俺を好きなら隠しておきたいんじゃ……」

「普通はそうかも知れない。けど相手は親父だ。性的虐待なんてこの世の中、格好のネタだろ。今は友達なんて信用できない。母親にも言えない。じゃあ残ったのは誰だ?」


「お……れ」

「そう、お前だけだよ。妹はお前にしか頼れない、助けてくれるのはお前しかいないって思ったんだろう」

 一分、二分。十分、二十分……。時間が経つほど久下が自分の言葉に懐柔かいじゅうされていくのが分かる。

 目の前にいるのは、あの腐った水をぶっかけてきた人間とは別人の、悩みを抱えた普通の男子高校生だ。

 いつも人のことを蔑み、嘲笑い、くだらない虐めを繰り返してきた顔はなりを潜めている。


「確かめてみろよ」

 たたみかけるよう、冬亜が語気を強めに言い放つ。

「確か……める?」

「妹の気持ちをだ。お前と同じ気持ちかもしれないじゃん。実の父親との対峙は脅威だろうけどさ」

 妹と気持ちが同じ──か、我ながら笑えるセリフだ。

 虫唾が走りそうな言葉の裏には、もしそうなら、まあよかったなと他人事で済ませる。だが、別の結果なら、それは愉快極まりない結末を迎えることになるかも知れない。


「……あいつの味方は俺だけだもんな。俺がいてやらないと、綾香はこれからも苦しい思いをする」

「今のままじゃ、同じ家の中でキツいだろ」

 最もらしい言葉がつらつら口から紡がれ、自分の言葉に吐きそうになった。

「さんきゅ……な、檜垣。俺お前に結構ひでーことしたってのに」

「今更かよ。お前でもそんな殊勝なセリフ言えんだな」

「悪かったよ。けどあの二人に逆らったら……。俺だって平穏無事に高校を卒業したいんだ。お前には申し訳ないって思うけど……」


 そろそろ五限目が終わると冬亜が口にし、二人は踊り場から離れることにした。帳尻を合わせるよう、階段を一段一段下りながら、冬亜は何通りかの結末を描く。

 久下と妹のハピエンが王道なら、その反対もある。そっちの方が冬亜にとっては楽しめる。いつの間にか自分の中に巣くった悪癖に呆れながらも、冬亜は興奮を覚えていた。

 久下と家族の話しには全く興味がない。いや、久下だろうと、誰であろうと。


 感謝の言葉を振り返り告げてくる久下をやり過ごし、教室に戻るまでの間、最悪のシナリオが訪れるのをつい、願ってみた。

 久下のような単細胞は何とでも騙せる。それに意外と純情で、根が優しい男なのも今日知った。

 不意に曳原の言った言葉が頭をよぎる、人は言葉ひとつで何とでもなる……と。

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