翠蓮(スイレン)
中国の広東中部奥地にある農村部、その片隅にある農家の家に冬亜は生まれた。
都市部との貧困の差が激しく、冬亜の村はその中でも一段と貧しい集落だった。
家族は両親と祖父母、そして姉の六人だったが、冬亜が家族としカウントされていたのはほんの僅かな期間だけだった。
姉は母親譲りで美しく、艶やかな黒髪と大きな眸が自慢の娘だったが、生まれつきの発達障害児だった。
雪のような白い肌から、雪鈴──シュエリンと名付けられ、家族に可愛がられるも、障害者だとわかった途端、母以外の家族は姉を毛嫌いした。
女では畑仕事もままならないと無能扱いされ、会話すらまともに出来ないシュエリンは、父や祖父母から苛立ちの吐口にされていた。だが、当の本人は酷い仕打ちをされても理解できず、本能のまま生きていた。
シェリンが生まれて六年後に冬亜が生まれ、幼い目で見てきた貧しい家族のありようだった。
冬亜が生まれた時、待望の男子に家族が小躍りするも、赤ん坊を見た父や祖父母は、悪魔の子だ、不吉な子どもを産んだと母を殴った。
女児のような愛くるしい顔で産湯に浸かっていた体には、上半身の左側半分を占める醜い痣があったからだ。
器量が良くても、醜悪な子どもは家に災いを招く。そう言った祖父母の言葉を間に受け、父は冬亜を隠すように地下で育てることにした。
カビ臭く、太陽の光を欠片も浴びることのない場所は、風の通る窓もなく、湿気だらけで洞窟のような空間が冬亜は生活をさせられた。まだ幼かった冬亜の世話は、姉のシュエリンの仕事で、食事の配膳と小さな体を
父や母の顔、祖父母の存在すらまともに知らずに育った幼少期。家族が同じ屋根の下にいるのだと感じるのは、楽しげな会話や笑い声が上階から聞こえた時だけだ。
父達が起きている時間は、階段を登ることさえも禁じられ、それでも誘惑に負けた幼い冬亜は、誘われるよう一階へと上がってみた。だがそれを祖父母に見られ、父親に報告されると、幼い体に手痛い折檻が何日も続く。
痛みと恐怖で泣きじゃくると、シュエリンが唯一覚えた絵本を読み聞かせてくれる。
それは腹ペコの青虫が食べ物をたくさん食べ、最後は美しい蝶になると言う物語だった。
言葉の分からない冬亜は、捲られるページのカラフルなイラストで意味を理解した。
字の読めなかったシュエリンが、母から読んでもらった物語を覚え、読み聞かせてくれることが唯一の癒しとなった。
七歳の誕生日を直前に、冬亜は畑仕事を手伝うよう父に言われた。
自分もやっと家族と過ごせる──と、喜んだのも束の間、期待は呆気なく砕かれた。
冬亜の仕事は、家族と共に太陽の下で汗水流す労働ではなかった。
陽が登る時間は近所の目があるからと地下で過ごし、陽が落ちると同時に冬亜は一人で畑へと向かう。
闇の中で僅かな灯火だけを頼りにする畑仕事は、幼い冬亜にとって過酷以外の何者でもなかった。
墨で染め上げた夜空に恐怖を感じ、風で騒つく木々の叫びに怯える。そんな環境で働く中、唯一の楽しみは母が作ってくれた握り飯だった。
畑から戻ると、時々、父の目を盗んで起きていた母が出迎えてくれた。
汚れた手足を湯で洗ってくれながら、聞かせてくれる話しは優しい音。
母が綴る言葉は、父や祖父母とは違う音色に聞こえる。その理由を悟ったのは、父達の会話からだった。
片言しか話せない冬亜に何を話していても理解できない、そう思っていたのか、母がこの国の人間ではないこと、この家にきた経緯を愉快そうに話していた。
子どもだった冬亜でも理解できる内容で、父達が母のことを
母は旅行で中国を訪れていた日本人の学生で、旅の途中に攫われ、人身売買でこの村に買われてきた。
嫁にできる若い娘が少ない村で、子どもを生むための道具として。
中国語も辿々しかった母は、日本語を話すと暴力を振るわれ、逆らうことの許されない、主従関係を強いられていた。
これら全ては、大きくなるにつれ僅かに言葉を理解し、成長した冬亜が知った悲しい母の過去だった。
冬亜とシュエリンに話しかける時だけは、母はこっそりと日本語を使う。
それは、ささやかながらも、父達に対抗する一種の反抗のように思えた。
シュエリンが読んで聞かせてくれた絵本も日本語で書かれており、それは母の数少ない荷物の一つで、幼稚園の先生をしていた唯一の証だった。
月日が経つと苛酷な労働にも少しは慣れ、冬亜の体も次第に大きくなってきた頃、母は自分の命と引き換えに再び男児を生んだ。
母の死はそっちのけで、元気な男児の誕生に父達は歓喜の声をあげた。
健康な弟は冬亜の代わりに長男として申請し、冬亜はこの瞬間、ヘイハイツとなった。
この政策が遂行されていた頃は、二人目以降の子は出生届を出さないケースが大半だった。その結果、出来上がったのは戸籍を持たない、闇っ子と呼ばれた子ども達だ。
教育や医療を受ける権利を与えられていない不公平な扱いを受け、冬亜は一層家族から不当な扱いを受けた。
新たに生まれた弟の存在は、母の死に悲しむ冬亜を更に苦しめるものになった。
不幸は更に続き、シュエリンが隣の村へと嫁に行くことになった。
まだ十四歳になったばかりの少女が結婚。そもそも結婚のシステムも理解してないのにと、冬亜は初めて父達に反発した。
父はまともに話しすら聞いてくれず、腹いせのように冬亜は暴力で屈伏させられた。
しかしこの時父は、冬亜の中に自分への怒りを抱く、僅かな片鱗を悟ったのだろう。成長する男児がいつか自分達を殺すかもしれない、と。
妄想を抱くようになった父は、人身売買のブローカーに冬亜を売りつけた。
醜い痣があっても働くことは出来る。
体さえ隠していれば、冬亜の顔は母親譲りで美しく、変わった性癖を持つ人間なら、珍しがられるかもしれないからと。
深緑を思わせる黒い髪や眸は、シュエリンだけではなく、冬亜にも受け継がれていた。
ブローカーとの会話をこっそり耳にしていた冬亜は、この時の父の言葉を一生忘れるものかと誓った。
──売れ残ったらバラして臓器を売ってくれ。
非情な言葉を口にし、多額の金と引き換えに冬亜はブローカーへと引き渡された。
外国へ向かうのか、船に乗せられると麻袋に押し込められた。
外から見て人だとわからないようにするためか、隙間を詰めるよう果物や大豆と一緒に。
甘い匂いに群がる小さな虫達に体中を這われ、逃げ場もなく気が狂いそうだった。
叫びたくても口には猿ぐつわをされ、手足は縛られて身動き出来ず、失禁しようがお構いなし。自分の体なのに、臭くて臭くて仕方なかった。
麻袋は他にもあって、売られたのは自分だけじゃないんだと思った。
船が激しく揺れ、ガタンと大きな音がする度にどこかの港に着いたと分かる。
その音を耳にする度に、啜り泣く子どもの声は減ってゆき、残った人間へと恐怖を植え付けてきた。
ようやく袋から顔を出せた時、他の麻袋は消えていて、自分が最後なんだと知った。
外の光りに目を眇めていると、「出ろ、
翠蓮と言う名は生まれた時に、酔っ払った父が面白半分でつけた元々の名だ。
女みたいな顔をしてるからと唾を撒き散らし、笑いながら聞かされた。
人気のない漁港が漆黒に包まれた頃、船の中で息を潜めていた冬亜は、男に促され船の外に降り立った。
ジッと見据えられていたかと思うと、愉快な話を聞かせてやろーかと、男の唇が狡猾に歪む。
昔々──と、ふざけた口調で語り出す男の話は、一年前にも冬亜と同じ家から子どもを買ったと言う話しだった。
その少女は、冬亜と同じ日本の港に降ろされたんだと言う。
頭は緩いが、見た目は羽化したばかりの蝶のように美しく、意外と高値で取引出来たんだと、鼻の穴を膨らませて男が自慢した。
どこへ連れて行かれるのか、何をされるのかも分からず、無邪気に自分の名前を教えてくれたと、男は笑って冬亜に言ってきた。
シュエリン──大好きな姉の名前が男から吐き出された時、愕然とした。
姉は売られていた? 隣の村へ嫁に行ったのではなかったのか。
家を去った日、シュエリンは泣いていた。
冬亜は姉の幸せを願い、涙を堪えて見送ったと言うのに、金に変えられていたと言うのか。
行き先も命の行方も分からない、劣悪な環境に放りこまれていたと言うのか。
少女のような無垢な笑顔が壊されることを想像し、冬亜は涙を一筋流した。
女の体の使い道くらい、子どもの冬亜にも理解できる。
如何わしい輩にいいようにされた後、あの白く綺麗な柔肌を切り刻まれる想像も容易に出来た──。
生まれてずっと家族として扱われてなくても、心底から父を憎んでいなかったのかも知れない。何故なら、今、この瞬間、冬亜の中で声にも形にもならない、自分の感情を丸呑みしそうな憎悪が這い出てこようとしていたからだ。
生まれた環境が違うだけ。それなのに、どうして与えられた運命はこんなにも容赦ないのだろうか。
運命──宿命、希望、願い……。それらの言葉に唾を吐きかけたくなる。
他の子ども達の行く末がどうなったかなんて知らない。取引するような連中は、人の命をモノのように扱う客ばかりだ。
だか、そんな中でも冬亜は運が良かったと言える。
たまたま子どもを欲していた檜垣の元へ売られた。体に痣があっても、母親譲りの美しい姿が里古の目に留まったのかもしれない。
生まれた時に受けた仕打ち、貨物船の中で味わった苦痛と恐怖は一生忘れない。
我が子を畑で作った食物を売るように、金と引き換えられた。父や祖父母への憎しみは、成長するごとに深く心に根付き、姉の行方がそれらに拍車をかけた。
鋭利なナイフで何度も何度も抉られる痛みが、永遠に続きそうな苦しみ。
母の受けた屈辱、シュエリンの笑顔を奪った人間、そして人として扱われなかった冬亜の憎悪は、呑気に暮らす見知らぬ国の人間に向けられた。
これまで自分が経験した苦痛の、髪の毛一本分も、この国の人間は味わったことはない。だったらそれを自分が教えてやる。
自分さえ良ければいい、そんなことしか頭にない奴らは父親達と同類だ。
美しいと言われるこの国の言葉を使って、奈落へ突き落としてやる。
それが……母の復讐のように思えた。
大好きなシュエリンはもういない。
唯一の愛は消え、今の冬亜に怖いものなどない。
力と頭脳を鍛え、檜垣の元を出ていくために冬亜は必死で勉強した。
どいつもこいつも上っ面だけで話し、体を擦り寄せ、親身な言葉で味方のフリをして簡単に裏切る。それが人間の真の姿なんだと、曳原が教えてくれた。
言葉は心と連動して現実を作り、良くも悪くも、人の思考に始まって現実を変える力を発揮する。
言葉一つで、心は簡単に動いてしまうものなのだ……。
BINで忍に囁いた言葉は、危うい好意の隙間に侵襲する誘水となったと思える。
腫瘍となった言葉がどんな形で、どれくらい大きく育つのか見ものだった。
悪性か良性か、彼の性分が進行を早め、浸潤して他臓器へ増殖していく。
一度生まれた悪意は年を追うごとに肥大化し、播種をばら撒く。蔓延した種は腹を裂いても取り出すことは不可能で、どれだけ金を積んでも治療を願っても、手遅れなのだ。
それでも……と、肩を落としてしまう瞬間がある。
こうやって息巻いていても、時折、不意に、冬亜の心は虚しく沈む。
窓硝子に映る歪んだ輪郭を指で辿ると、姉の面影が冬亜の顔に重なる。
呼吸だけで大好きな姉の名を溢し、ガラスが白く曇った。
ブローカーの話しで、姉が横浜の港で降りたことまでは分かっている。だがその後のことは、奴らも知らされてはいない。
客との間を繋ぐ仲介屋が知っているだろうが、数多く取引きしている輩が、いちいち覚えているわけがない。
曳原とレッスンする中、冬亜は色を商売にする店に面白半分で連れて行かれたことがあった。
大学生だと偽った冬亜は、店の表に掲げてある看板を食い入るように見た。
シュエリンに似た顔を見つけては息を呑み、別人だと知りホッとしつつも、がっかりしてしまう。
シュエリンを探すことを、諦めることができない。それが唯一、彼女のために自分ができることだったから。
冬亜の生まれた国に比べて狭い日本でも、人ひとり見つけるのは困難だった。
ましてや、生きてるか死んだらかも分からない人間を……。
憎んでも憎みきれない過去をよぎらせていると、「お客さん、着きましたよ」と声が聞こえ、冬亜は我に返った。
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