バーを出ると、冬亜はタクシーに乗り自宅までの住所を運転手に伝えた。

 夜の街で過ごした後は、公共交通機関は使わない。

 少しとはいえ酒を口にしていると、知り合いやお節介な大人に会った時に面倒だからだ。全部飲み干さず、途中からチェイサーに変えるのもそのため。

 注意深く、予防できることはしておく。冬亜の中で警戒することは当たり前だった。


 世間知らずの里古が外出に何も言わないのは、曳原との校外学習だと思っているからだ。曳原本人が行方知らずだとも知らないで、講師代を振り込むくらいだし。

 レッスンが必要じゃなくなっても、冬亜は曳原と行動するのをやめなかった。


 普通の高校生活を送る中で、冬亜の知らない世界を曳原は見せてくれた。それがある日突然、ぷっつり連絡が取れなくなってしまった。

 教えられた番号に何度かかけてみても、機械音声が応答するだけ。

 曳原の自宅も事務所の場所も教えられてなかったから、連絡方法はスマホの番号だけだ。その番号も冬亜だけしか知らない。


 よくよく考えれば、素性も知らない男に子どもを預けたなと、養子に迎えたわりに自分は雑に扱われている。

 連絡が途絶えたのは気になるが、これまでと変わらず夜の街へ出かけられる理由にできるのは有難い。


 もう二度と母国へは戻りたくない、と冬亜は心の底から思う。

 そのためには身につけられるものは全て収得する。何もかも奪われる状況になっても、知識だけは手出しできないように。


 窓越しに流れる夜の景色を見ながら、冬亜はバーの二人を思い出していた。

 忍と言う男と髭の男がしていた会話。

 初めてあのバーに行き、偶然耳にした内容は中々面白かった。

 二人の会話は全て聞いていたし、髭の男が何をしているのか、忍が何を彼にやめさせたがっていたのかも理解していた。


 エクスタシー……か。


 話しに出てきた薬物の名前。

 MDMAの一種で、白い錠剤にピンクやオレンジで着色し、ラブドラッグとして髭の男は店の客や若者に売りさばいている。

 違法な利益を求める男と、それをやめさせたい男。

 彼らが同性愛者で恋人なのも加われば、冬亜の放った言葉をきっかけに、忍が何かしらの行動を起こすかもしれない。

 想像するだけで下腹部が疼いてくる。


 誰が、どんな言葉を口にしようが、今が満足なら他人のことなど気にも留めない。

 自分に火の粉が降りかからず、害が及ばないのであれば他人がどうなろうと知ったこっちゃない。それが日本に来て冬亜が学んだ、この国で生きる人間の性質だった。


 自分のことを差し置いて、我が身を差し出すお人好しなど、この世の中には存在しない。もしいたとしても、それは虚像に過ぎない。人を陥れてまでも、自分の利益を取得する本能。故意にしても無意識だったとしても、それが人間の本性だ。


 美しい言葉を語っても、腹の中では舌打ちしている人間がどれほどいるか。

 日本人は奥ゆかしいなんて嘘にも程がある。

 同じことが出来ない奴を爪弾きにし、特出した才能持つものを変わった奴だと誹謗する。


 戦争を仕向ける人間も、政治を悪用する人間も、人殺しも。そして金欲しさに子どもを売る親も全て、全て、醜い生き物の成れの果てだ。身を挺して人のために尽くしたり、守るやつなどこの世にはひとりもいな──いや、シュエリンだけは別だ……。


 冬亜が生まれた国では、もっと直接的な悪が日常だった。

 優れているものは崇め奉られ、醜く出来の悪い者は唾棄だきされる。

 金のためなら何をしてもいいと考える人種ばかりが蔓延り、隙を見せれば丸裸にされる。

 そんな環境で生まれた冬亜は、産声をあげたと同時に、残酷で苛酷な運命を突き付けられた。

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