BAR BIN

 人間は言葉で行動を起こす生き物だ。

 その中でも単純な脳みそで出来ている奴は、言葉で容易く支配できる。

 弱った人間の綻びを見つけ、忍び寄り、甘く囁いて心を揺さぶる。

 それが例え不幸の始まりでも、その瞬間、本人はそれが滅びの言葉だとは気付かない。

 慣れた渋谷の街を歩きながら、冬亜はそんな言葉を口癖にする男のことを思い出していた。


 冬亜が英語を話せるようになったのは、一年ほど前から連絡の途絶えてしまった男──曳原ひきはらのお陰だった。 

 日本語もままらない子どもに、檜垣は英会話を習得しろと命令してきた。それが義理の父から冬亜へ最初に放った言葉だった。

 英語だけで留まらず、檜垣は他にも数々の要望を冬亜に課してきた。

 指示だけ与えて、名前を呼ぶことも、触れることさえもしなかった義父。

 何のために自分はこの家に引き取られたのか、全く皆無だった。


 アスファルトを踏むスニーカーの爪先に視線を落とすと、里古に手を引かれて檜垣家にきた時のことを思い出した。

 家で待っていた男、檜垣家の君主が冷酷な目で見下ろされ、後退りした屈辱は今でも覚えている。

 都心にそびえ立つタワーマンションの上層階は、どこもかしこも鼻持ちならない富裕層臭が充満し、居心地いいものではない。

 美しい家具に囲まれ、生活感のない冷え冷えとした空間は息が詰まりそうだった。それは今も同じで、変わらない。


 檜垣家での初めての夜、冬亜は風呂に入れてもらい、里古に体を洗ってもらった。全裸の冬亜を前に里古の眉が微かに歪むのを見て、ああ、やっぱりこいつもあいつらと同じ反応なんだと苦笑したっけ。

 でもまあ、自分だけの部屋を与えられ、これまでに味わったことのない清潔な夜を迎えられた事でチャラになった気もする。

 上質な布で覆われた分厚いマットレス。押せば返ってくる、ふっくらとした布団。手足を思いっきり伸ばしても、十分余白のあるスペースは冬亜にとって極上の贅沢だった。


 それでも染みついた習慣はそう簡単に拭えず、無防備に体を晒して眠ることに慣れなずに、捨て猫のように身を丸めてベッドの端っこで眠った。

 朝日が眩しくて目覚めることも、体にぴったりな服を着るのも初めてだった。そして何より幼い冬亜の目を惹いたのは、用意された食事だった。

 初めてみる料理から、温かそうな湯気が立ち込めていた。

 香ばしい香りに腹は正直に主張し、それを聞いた里古の顔はなぜか嬉しそうだった。


 数日後、冬亜は家庭教師として一人の学生を紹介される。それが菱谷だった。

 菱谷の授業でも英語の勉強はしていたが、英会話だけは曳原が指導することになった。

 初対面で見た彼は、若々しいデザインのスーツを身に纏い、雑誌の表紙を飾るモデルのような優しげな顔だなと思った。今となっては見た目だけのハリボテ男だったが、子どもの冬亜にはカッコいい大人に見えた。

 三十代の若さで企業コンサルティングと言う、聞こえのいい事業を個人で興していたが、実際のところはよく分からない。

 英会話の個人レッスンは帰国子女の経験を活かし、趣味でやっていると言っていた。


 幼少期からアメリカで育っただけあり、人を魅了する会話が卓越していた曳原は、会話もコミュニケーションも秀逸で、代表取締役だの顧問だのと言った知り合いも多くいた。

 レッスンを受ける中で、曳原の魅力は子どもの冬亜にも十分伝わってきた。

 テンポのいい会話、話しを聞く表情やも心地良く、菱谷とはまた違った意味で、居心地の悪くない大人だった。

 良くも悪くも曳原と言う人間は、あれこれと冬亜に刺激を与えてくる男だった。


 高校入学までに英会話を習得する条件をクリアできたのも、レッスンの一貫として曳原が街へ連れ出し、生きた英会話を教えてくれたことが大きい。

 行き先は本屋やアパレルショップ、カフェでお茶したりと、今の日本の若者がこなす休日の過ごし方を実践で教わった。

 会話は全て英語を使うルールのもとで。


 ただ、いまだにわからないのは、檜垣の養子になった理由だ。

 単純に子どもが好きだから──なんて発想を一瞬してみたが、あり得ないと刹那に身震いした。


 そもそも最初から俺に興味がないのもあからさまだったし……。


 成長と共に檜垣が自分を家に向かい入れたのには、何か思惑があるんじゃないかと考えるようになった。そして不要な人間に振り分けられたら、簡単に捨てられる存在なんだということも。

 だから今はこの家にしがみ付き、知恵を蓄えるまで利用するものは利用していく。もう二度と、日のない生活に戻らないために。


 決意表明のように顔を上げると、いつの間にか目的のバーがある通りに辿り着いていた。

 店に行くのは今日で二度目、時間は前回と同じ夕食どきだった。

 同級生より少し大人っぽい相好に、落ち着いたテイストの服を纏えば、十七歳なのか二十歳なのか見た目では分からない。

 これまでに酒を提供する店へ行った時も、補導されたり入店を断られる事など一度もなかった。


 冬亜には、夜の街を彷徨う時のルールがあった。

 同じ店に行くのは二回まで。それ以上通うと煩わしい馴れ合いが生まれるからだ。

 昼夜問わず人の流れが絶えないメインストリートの入り口に、古びた街灯が黄昏を浴びて立っている。

 ランプを支えるポールには、アイドルらしき絵のフラッグがはためき、吹く風は街の雰囲気とは反対に道行く人に心地よい涼感を与えていた。

 交通整理などない自由な道なのに、人の波は訓練されたようにそれぞれの進行方向を向いて進んでいる。蟻のような行列を見る度に、滑稽な人種だなと笑いが込み上げる。


 メイン通りに面したアルコーブに足を踏む込むと、所々色褪せた黒いドアと真鍮しんちゅうのノブ。ドアには小さな小窓が忍ぶるように存在している。

 小さなゴールドのプレートには、『BAR BIN』と刻まれていた。

 小窓を覗くと、中では数人の客が陽気に談笑している様子が見える。

 冬亜は大勢の指紋で鈍く光る真鍮に手をかけ、躊躇うことなく押し入った。


 店内には言葉も肌の色も違えば、性別も身なりもバラバラの人間が、店の名前と同じように小さな箱の中でひしめきあっている。

 三席あるテーブルの一つには常連客なのか、濁った声で笑うグループが占拠していた。

 L字のハイカウンター席でも馴染みの客が、バーテンダーの顎髭に触れながらスキンシップを楽しんでいる。


 ドアベルの音と同時に冬亜を笑顔で出迎えてくれたのは、アイドル顔負けの整った顔をしたバーテンダーだった。

 冬亜はカウンターの一番奥の席を希望し、そこへ落ち着いた。

「こんばんは。ご注文は──って、あれ、お兄さん二週間くらい前にも来てくれましたよね。確か最初に飲まれていたのは……レッドアイだ、トマトジュース多めの」

「へえ、よく覚えてますね」

 水商売をしているだけあって記憶力がいい。冬亜はたわやかな動きで、カクテルの準備をする男を嘱目しょくもくした。

 少し長めの前髪が似合う愛らしい顔の彼は、いかにもなゲイの男性客からモーションかけられ、笑顔で上手に受け流している。


「お待たせ致しました、レッドアイです」

 緋色が縁まで注がれたグラスがカウンターに置かれると、ペンダントライトから煌めく灯りで表面がゆらゆらと輝いていた。

 明るさの少ない店内の照明とジャズが日常を切り離し、アルコールの入った状態で口説かれると、単純で絆されやすいタイプなら簡単に落ちそうな雰囲気になっている。


 客に声をかけられ、冬亜が軽く交わして店内を見渡していると、「お兄さん大学生?」と、グラスを磨くバーテンダーが声をかけてきた。

「何で?」と、質問に質問で返してみる。

「社会人には若いと思うし、それに俺の願望かな。もし学生さんでバイトとか探してたら、このバーで働かないかなって思ってね」

「へー、俺って見込みありそうなんだ」

「まあね。お兄さんお客さんの扱い方上手そうだし、英語も話せるでしょう」

「よく見てんね」


 そう言えば前に来た時、冬亜が見知らぬ男と飲んでいると、どこの国の生まれか知らない男が英語で話しかけて来たのを思い出した。

「で、どうかな? バイトしてみる気ある?」

 執拗に食い下がる言葉にふと、「あんた辞めるの?」と投げかけた。

 咄嗟にバーテンダーの顔が強張り、片側の眉をひくつかせている。

「凄い……どうしてわかった?」

「何か焦ってるように見えるし。前に来た時も今も溜息ばっか吐いてっから」

 冬亜の言葉にバーテンダーの顔が一瞬曇った。けれどもすぐ暗雲を払拭し、にっこりと笑顔になる。張り付けたような作り物の笑顔だった。


「溜息か……自分では気付かなかったな」

 グラスを次々と磨き上げながら、バーテンダーが睫毛を伏せる。

 ハイカウンターの奥、そこから離れた入り口付近に座る客と髭のバーテンダーが盛り上がりの声を上げる中、目の前で黙々とグラスを磨くバーテンダーと冬亜の周りだけが静かな空気を纏っている。


「金か人間関係。どっちかってとこ?」

「そう思う?」

 バーテンダーに問われると、冬亜はカウンターの端で常連客と楽しげに話す、髭のバーテンダーに視線を向けた。

 三十代後半に見える彼は、ガタイのいい、バリタチ風の男だ。

「あの髭の人って結構いい男だよな。ここのマスターだろ? あんたら二人が店の裏で話し込んでたの、この前来た時見かけたんだ、俺」

 冬亜が話すと、ああ──と言った表情を浮かべ、バーテンダーが苦笑いした。

「してた、してた。あれ見られてたんだ──て、もしかして会話も聞いた?」

 少し焦ったのか、磨いていたグラスを落としそうになっている。聞かれたくない内容だったのか、冬亜は彼の指先が同様しているのを見つけると、唇の端が自然と歪んでいた。


「いいや、聞いてないよ。全部はね」

「え? そ、それって──」

 目の前の男がグラスを磨く布巾に爪をたて、こぶしの中に巻き込むように握り締めている。彼の手に僅かな動揺が見えたのを気付かないフリをし、半分飲んだだけのレッドアイを端に避けると、一緒に用意してもらっていたチェイサーのグラスを手にした。


「俺男を好きになった事あるし」

 冬亜の放った言葉に、バーテンダーが上瞼に力を込め凝視してきた。営業用に作られていた表情は一瞬で立ち消え、救いを求めるような感情をあからさまに放出している。

「そう……か。だから俺が辞める理由もそれで──」

「まあね。けど本当は辞めたくない、『やめさせたい』だろ?」

 バーテンダーが今度は両目を瞠目させた。

「な……にを言って──」

「さあ知らない。全部聞いてないって言ったろ? ただ金がどうとか聞こえた。あんたがあの男にやめろって必死で言ってたのとかね」

 冬亜は、髭の男を顎で指した。


「あ、ああそう。そうなんだ……。けどもういいんだ。俺が店を辞めるから。あいつとの関係もそれで終わりにする」

「いいの? それで。ゲイ同士なんてそう簡単にパートナーが見つかるもんじゃないし。それにまだ好きなんでしょ、あの人のこと」

 楽しげに客と会話する髭の男に視線を送ると、バーテンダーも同じように彼を見つめている。

 もの言いたげな熱い眼差しに、冬亜は背筋をブルリと身震いさせた。

 人が人に向ける赤裸々な感情に、嘔吐反射しそうなのを咄嗟に口で覆う。


「……もういいんだ、俺にはどうすることも出来ないから」

「好きなのに?」

「好き──か。いや、もうほんといいんだよ。すいません、お客さんにこんな話を」

 目の前にあったグラス達を拭き終えると、バーテンダーは営業用の笑みを見せた。

「恐いから、不安だから離れる。見なかったことにすれば、忘れてしまえば悲しみも苦しみも今以上に突きつけて来ることはない。その方が楽で辛くないもんね」

 チェイサーの入ったグラスの縁を指先で撫でながら、冬亜はカウンターの向こうで瞳を震わせる男に言った。


「君──」

「あんたはが去った後でも、彼が幸せで過ごせるならそれでいい──なんて思っていない? でも、些細な悪意の裏にある間違いを知りながら、それを見放すのってかわいそうだよね相手も。好きな人や自分の真意を無視してさ」

 煽情するような冬亜の言葉に、バーテンダーの目が右往左往している。反論しそうな唇は微かに動いただけで、そこから音は生み出されなかった。


「まあそれもいいか、気持ちの重さは人それぞれだし。それにほら、ああやって彼は別の相手を探すことも出来る。勿論あんたも他を当たればいいだけだ。恋愛に別れはつきものだろ? 男も女も、同性愛者もね」

 畳みかけるような饒舌がバーテンダーの耳を刺激する。

 冬亜の言葉は蛇帯のようにじわじわと彼の心を締め上げ、それが如実に目の前の男に現れると、冬亜は興奮を喉の奥へと流し込んだ。


 立場を忘れたバーテンダーが、髭の男の仕草を目で追っている。男の目には嫉妬の焔が宿り、他の客と笑みを交わす姿に下唇を噛み締めていた。

 冬亜は指先でテーブルの上をコツコツと鳴らし、バーテンダーの意識を自分に向けた。

「あんた達の話しは俺にも分からない。聞こえなかったしな。けどあんたが側にいれば、彼はんじゃないのかなぁって思っただけさ」

「そば……に」

 眼球の動きが定まらないバーテンダーへ、冬亜の言葉は更に続いた。


「彼と同じものを見て、同じ立場になってみればいい。逃げずにさ。それともあんたの気持ちはそんなもの? 一度や二度、自分の言葉に耳を貸さないやつは切り捨てるんだ」

「ちがっ!」

 感情を抑えきれず、バーテンダーが声を荒げた。

 店内の客は勿論、髭の男も声に反応し、不安げな表情で側にやって来た。

「お客様、うちのスタッフが何か失礼なことを──」

 眉根を寄せて申し訳なさそうに冬亜を見た後、バーテンダーにチラッと視線を送っている。

「いえ、平気です。彼が何か悩んでる風に見えたんで、話に熱が入っただけですよ」

「悩み──しのぶ、お前──」

「す、すいません。ちょっと気分が──裏で休んできます」

 バーテンダーの男──忍が店の奥へと姿を消した。


「申し訳ありません。お客様に気にかけてもらうなんて……後で注意しておきますので」

 髭の男が深々と頭を下げる姿に、冬亜が「ねえ」と声を被せた。

「はい?」

 顔を上げた彼に冬亜が小さく手招きし、倣うよう男の顔がカウンターを挟んだまま上半身だけを近付けてきた。

「あの人、好きな人の気持ちを理解したいって悩んでたよ。それをちゃんと分かってから先のことを考えたいんだって。俺には何のことかさっぱりだけどさ」

「は、はあ、そう……ですか」

 客が何を言っている──とでも言いたそうに訝しげな視線を送ってきたが、男の視線はすぐバックヤードの方へと心配げに向けられていた。

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