葵葉
「大和にい、起きろよ。遅刻するよ」
「……う……ん」
季節に関係なく上半身を露わにした就寝スタイルの図体は、布団に収まりきれず宙に浮いた足を葵葉の声でピクリと反応させた。
大きな体がベッドの上でゴロリと半回転し、そのまま大腿部に布団を挟むと、逞しい二の腕が枕を抱えて目覚めを全身で拒否している。
「もー、またそうやって寝ようとする。遅刻しても知らないからなっ」
葵葉は容赦なく布団を引き剥がしにかかる。
「あお……ば……後、五分……」
「その五分が毎回十分や二十分になるの分かってるだろっ。いい大人なんだから、起こされなくても起きろって」
「……葵葉、厳しい……。いけず……」
枕と腕の間から恨めしそうな目で見上げられ、葵葉は肩で大きく溜息を吐いた。
「何がいけずだ、んなエセ関西弁使うなよ。大和にいが俺の手を毎朝煩わすからだろ。朝メシ冷めるから早く降りて来いよ」
毎朝恒例の会話を一方的にすると、葵葉は引き締った形のいい臀部を軽く叩いた。
「……痛……い。葵葉のエッチ」
「何がエッチだ。もう声かけないからな」
「もっと俺を労ってよ。昨夜、校了明けだったのに……」
ようやく起き上がり、寝癖の付いた髪をクシャりとさせる
部屋から出ようとした葵葉は、バリバリと働く普段の勇ましい姿と、目の前でポリポリと腹を掻く大和を、本当に同一人物かと立ち竦んで眺めていた。
社内外では自他共にモテ男と言う割に、このだらしなさにはほとほと呆れてしまう。
こんな姿を女子社員の皆様にお届けしたいよと、葵葉は首を小さく左右に振った。
「文句言うなよ、それが大和にいの仕事だろ。雑誌や本を作って給料貰ってんだからさ。あ、これ今月号の『ネクサス』だ、読んでいい?」
「……ん? ああ。持って行っていいよ……」
「俺、この雑誌好きなんだ。大和にいが担当してるんだろ? 凄いよな、よその雑誌とは違う切り口で世の中見てるって言うか──ってそうだ! バイトの件ってどうなった? 大和にいの会社でバイト欲しいって言ってたやつ」
ドアノブに手をかけたまま、葵葉は振り返って叫んだ。
「ああ、アレな……。てかさ、お前バイトなんてしなくていいんだぞ。小遣いだってあるだろ」
「……けど、大学費用くらい自分で用意したいから」
「大学って──お前はまたそんな遠慮して。そんなの母さん達が用意してるよ。それにお前の親の保険金だってあるんだ、お前の将来のために使えるように取ってある」
サイドテーブルに置いてある眼鏡を掴むと、微睡んでいた顔にフレームを突っ込み、見慣れたシルバーの縁取りの顔で優しく窘められた。
いつも感じる、守られてる感。大和から注がれる眼差しには優しさが溢れ、愛情を自覚する度に、葵葉はこの水畑家で暮らす事になった日に誓った決意を思い返してしまう。
叔父さん、叔母さん、そして大和には迷惑をかけない。甘えないで自分で出来ることは何でも自分でするのだ──と。
『自活』と言う言葉を初めて意識したのは、十三歳の時。葵葉が両親と弟を一度に失い、天涯孤独となってしまった時に自ずと生まれた。
自分の中に、見えない柱がスッと現れたような感覚だった。
「わかってる、ありがとう。叔父さんや叔母さんには凄く感謝してる。けど、負担をかけたくないんだ、これ以上……」
「バカ葵葉。何が負担だ。親父達は当たり前のことしてるだけだ」
シルバーのフレームをクイっと指の背で上げると、真剣な眼差しに変化した。
真面目な話をするときの大和の癖だ。
「……うん。でも俺の気持ちも分かって欲しいんだ。だから──せめて大和にいの視界に入る所ならって思ったんだ。それでもダメかな……」
ドアにもたれながら、嘆願するように大和をジッと見つめた。
「お前な、その顔は卑怯だぞ。色白なのにデッカい黒目を前髪の隙間から覗かせてきてさ。葵葉みたいに可愛くて細っこい体だと、いくら男でも襲われるぞ」
「っんだよ、それ。そんなこと言ってはぐらかそうとしてんだろ」
半円を描く前髪の隙間から大きな黒目を
葵葉の視線に観念したのか、溜息と共にわかったよと、大和が呟いた。
「えっ?」
「わかったって言ったんだ。俺の負けだ、編集長に話すよ。バイト欲しいのは事実だし」
前髪と一緒にフレームも上にあげ、頭頂部に乗せると根負けしたような眉が露わになる。
「本当に、やったっ」
「ただし! もう締め切ってたらこの話はなかったこと。いいな、葵葉」
「うん、わかった。ありがと、大和にい」
「っんとに、お前のその頑固さは誰に似たんだ」
その質問に葵葉の睫毛が角度を落とす。
「……母さん……かな」
「そっか……。そうだな、叔母さんは頑固だったかも……」
二人は静かに視線を合わせた。
窓硝子越しに聞こえるヒヨドリの鳴く声が、静寂した部屋に浸透すると、葵葉は伏せた目を上げ、ふわりと微笑んでみせた。
「大和にいは優しいよな。叔父さんに似てる」
「そうか? でも静かな分、怒ると恐えーぞ、あの人。ま、母さんとおばさんは似たもの姉妹だもんな」
「……だった──だろ」
「ん? 何か言ったか」
口腔内で留めた言葉の欠片を大和から問われ、早く降りて来いよと誤魔化してし、葵葉はドアをそっと閉めた。
背中をドアに預け、天井を見上げて瞼を閉じてみる。すると、何もかもなくした日の記憶が容赦なく葵葉を襲ってきた。
最悪な日を思い出し、溜息と共にドアから体を引き剥がすと、階段をゆっくり降りた。
平凡な毎日、いつもの夏休み。蝉たちの叫びが鎮まりかけた、ごく普通の日曜の夕方。幸せな日常は、その日を最後に途絶えてしまった。
あの日……部活を終えた葵葉が家に帰ると、玄関が少しの隙間を作っていた。違和感を感じ、ただいまと声をかけることに躊躇した感覚は今でも覚えている。
十二階建ての最上階は玄関を開けると、ベランダから入り込む風が逃げ場を求めるよう一気に流れ、廊下とリビングを隔てる母親手製の愛染暖簾が大きくはためく。
汗ばむ季節には欠かせない、見慣れた涼やかな我が家の風景だ。だがその日、リビングと廊下を隔てるドアはピタリと閉ざされていた。
客でも来てる? いや、玄関には家族分の靴しかなかった……。
節約家の母がエアコンのスイッチを入れる時間には早すぎる。首を傾げながら、いつもは無造作に脱ぎ捨てる靴を何故かキチンと揃え、葵葉は廊下をゆっくり進んだ。
異様な感覚が拭えず、慎重に足を進めると、いつも同じ場所で軋む廊下の音が今日は一段と響いて聞こえ、微かに漏れるテレビ番組の音に混ざった。
お笑い芸人の声は聞こえるのに、小さな足音も生活音の気配も感じられない。
違和感に心拍数は逸り、廊下の先のドアを開けるのに、ひどく緊張したのを覚えている。
開けたドアの向こうから、いつものように幼い弟が葵葉の帰りを勢いよく出迎えてくれるはず──なのに、あどけない気配が全く感じられない。
リビングのドアをゆっくり開けた葵葉が目にしたのは、変わり果てた父親と母親の姿だった。
母の胸の下からは、クマのぬいぐるみを手にした小さな腕が見え、母の上には二人を庇うように父が覆い被さっていた。
ベランダからの景色が自慢の窓からは、出口を探し求め青嵐がカーテンを翻している。
はためく布の波に呑まれながら葵葉は瞠目し、茫然とその場に立ち尽くしていた。
自分は悪い夢でも見てるのだろうか。微睡の中、目覚ましの音で目が覚めるいつもの朝を迎える直前なんだろうか。だったら早く目を覚ましたい。
目の前の事態から逃れたい。
頭の中が
眸が捉える悍ましい光景は、映画やドラマで見る作りもののように思える。
あり得ないと思考を巡らせても、葵葉の脳は現実を探ろうとしてくる。
力なくその場にへたり込み、声の出し方もわからないまま、双眸から雫が滂沱していた。
頬や髪を撫でる風が夢ではないと、無慈悲にも知らしめてくる。
体中の先端から震えが生まれ、膝や腰を通過し、上半身へと侵襲してくると、張り付いていた喉が開き、獣のような咆哮が勝手に出てきた。
異様なまでの自分の声に重なり、テレビから流れる笑い声と、忙しなく働く炊飯器の音が耳にこびり付く。
涙で視界を滲ませながら、這うように父の側へ向かおうとした。けれど、強張る体が思うように動かず、やっと辿り着いた父の背中を見て驚愕した。
背中にそびえ立つ棒のようなもの。それがナイフだと気付けなかったのは、ブレードの殆どが背中に埋もれていたからだ。
溢れ出た血液が赤黒く乾き、思わずその惨状に目を背けてしまった。
恐る恐る視線を戻すと、父の体中に無数の刺し傷を見つけた。それは母親も同じだった。
匿っていた小さな体は、母の下敷きになって様子は伺えない。けれど、幼い躯体にも、既に命がないのは分かってしまった。
母の下から伸びた、小さな指先に触れてみると、記憶にあった柔らかさはなく、冷えて……固まっていた。
その時、葵葉の後ろで米が炊けたことを知らせる炊飯器のお知らせ音が鳴り響き、聞きなれた音が葵葉を怯えさせてくる。その瞬間、口から絶叫が放たれ、喉が破けそうな音量で慟哭した。
それから後の葵葉の記憶は曖昧だった。
叫び声を聞いたマンションの住人が駆けつけ、警察を呼んだのか、暫くすると意識の遠いところでサイレンの音を聞いた。
それも朧げで覚えていないけれど……。
放心状態の自分に、あれこれ警官が話しかけてきたが、意思に反し唇は動かない。
状況を追求してくる警官の声は、水中で聞くようにくぐもって聞こえた。
制服の警官や見知らぬ大人達が、家にズカズカ入り込むのを、葵葉は液晶画面でも見るよう眺めていた。
虚な視線は、大和達家族が駆けつけるまで元に戻ることはなかった……。
強盗殺人。そう聞かされたのは、警察署内にある薄暗い部屋でだった。
父や母の体はナイフで滅多刺しにされ、損傷があまりにも酷かったらしく、葵葉が家族と対面出来たのは、検死が終わって暫く経った後のことだった。
弟の傷は背中にある一箇所、それが致命傷だった。母が殺される最後まで庇ったであろう
中学生の葵葉が一人で聞くには、到底耐えられない、壮絶な内容だった。
大和の両親で葵葉を生んだ母の姉夫婦である、水畑の叔父と叔母が全て対応してくれた。そして残された葵葉は、水畑家に引き取られることになったのだ。
父方の親戚は何かと理由をつけ、葵葉を引き取ることを拒み、殺された母は、葵葉からすれば、いわゆる継母で血の繋がりはない。当然、彼女の親戚からも面倒を見るのはごめんだと拒絶されていた。
葵葉の実母の姉である水畑の叔母、叔父と一人息子で従兄弟の大和。その三人の家族の一員として幸にも葵葉は迎えられた。
叔父も叔母も優しく良い人で、水畑家に加えて貰ったことに感謝はしている……けれど、どこか心は孤立していた。
これまでにも何度かバイトをする、しなくていいの論争させ、水畑の両親を困らせた。
初めは中学の時だった。当然、普通の大人なら反対する年齢だ。
中学生がバイトするなんてダメに決まってる。葵葉もそれはわかって口にした。それでも諦めず、二度目は高校に入学してすぐ渇望した。
高校生になったのだからバイトを許して欲しいと。叔父達に熱意あるプレゼンをしても、簡単に却下されてしまった。
水畑の両親の気持ちは、痛いほど葵葉にも伝わっている。
悍ましい過去を忘れ、楽しく高校生活を送って欲しいということ。けれど大学に進みたかった葵葉は、せめて入学金くらいは、授業料の半分くらいは用意したいと訴えた。
それでも反対されるなら、大和の目の届くとこ──と、叔父達の譲歩できる打開策を提案した。
バイトを募集していると、大和が呟くのを聞いてチャンスだと思ったからだ。
台所で朝食の準備をしながら、葵葉は小さな第一歩を踏み出せたことに少し安堵した。
水畑家と血の繋がりは僅かにあったとしても、自分を生んだ母はもうこの世にはいない。
甥っ子と言えども、食いぶちが一人分増えるのは迷惑になる。
早く大人になって自立し、自分の力だけで生きて行く。
誰にも迷惑をかけないように。
大学に進学してたくさん勉強し、大和のようにしっかり働いて、いつか水畑の両親に恩返しをする。そして笑顔を絶やさない人間になって、水畑の家で与えてもらったように誰かの救いになる。そんな人間になれるよう、葵葉は胸の中で家族に今日も誓いを立てた。
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