冬亜

「おかえりなさい、もう先生お待ちよ」

 無駄に広い玄関ホールにスリッパが揃えられ、冬亜は足をねじ込みながら「そう」とひと言だけ返した。

 腫れ物に触るような扱いは鬱陶しい。

 家族の中でのカーストが底辺のままなのに、そこで満足しているこの女はドMすぎる。


「後で、お茶持っていくわね」

「ああ」

 にべない返事をすると、母という名の女──檜垣ひがき里古のりこが翳りのある表情で後ろをついてくる。そんな顔を装っても自分は医者じゃないから、何もできないと言うのに。


 里古は軽い鬱を患っているが、症状がいつからあったかなんて冬亜は知らない。ただ、彼女が服用している薬から病名を知っただけだ。

 必要以上の会話をしない親子関係でも、冬亜は彼女に対して多少の恩義は感じていた。

 小さな自分に食事を与えてくれ、清潔な服を着せてくれた。

 成長すると同級生とは比べものにならない、破格の金額を小遣いとしてくれた。この、『冬亜』と言う日本人用の名前も、彼女がつけてくれのだ。


 里古に関心がないのは冬亜だけではなく、この家の主人である檜垣も同じだ。

 檜垣は家に殆ど帰らず、妻である里古を赤の他人のように扱っている。

 冬亜との関係もそうだが、檜垣と彼女との間にはもっと埋められない温度差を感じる。


 気怠い足取りでリビングに入ると、壁一面に広がる窓が姿を表す。

 濃紺に変化していく空が一枚の写真のように窓枠で縁取られ、家の中で存在感を醸し出している。

 眼下に広がるビル群を横目に、緩やかな階段を上りながら、ふと途中で足を止めてリビングを見下ろした。


 ステータスをひけらかすためだけのタワマン。

 外からじゃわからない、冷え切った空気に幸せな温もりなど一つもない。それはこの家に初めて来た時から肌で感じていた。


 溜息を無意識に吐き、メゾネットの突き当たりにある自室のドアを開けると、机に向かって座る見慣れた後ろ姿があった。


「おかえり、冬亜君」

「早いね、先生」

 リュックを床に投げると、冬亜は開襟シャツを肩から滑らかした。

「そうかな──っておいおい。お前、素肌に直で開襟着てんの? 乳首透けるぞ」

 程よく筋肉の付いた細身の体を、呆れ顔で見てくる菱谷ひしたにに、「濡れた」とだけ言い、冬亜はベッドの上に畳まれている洗濯物の中からシャツを掴んで身につけた。

 

 極力──いや、他人には絶対に自分の体を見せたくはない。

 君の欠点は? と聞かれたとすれば、裸になること以外はない。けれど、菱谷に不可抗力とはいえ、その欠点を見られたことが、一度だけある。それ以来、菱谷の前で体を曝け出すことに抵抗はなくなったけれど。


「濡れた? 何、暑いからって水浴びでもしたのか?」

「そんなとこだな」

「ふーん、結構ヤンチャなことしてんだ。ま、俺はお前が真面目に勉強してくれてるならいいんだけどさ」

「そんな心配、するだけ無駄だ」と、砕けた口調で返す。遠慮のない、菱谷とのやり取りは楽だ。

 観察力が優れているのか、踏み込んで欲しくないとこっちが思ってれば、一線を超えてこない。聞いて欲しくないことも、まるで顔に書いてあるのかと思うほど、余計なことは尋ねてこない。


 眼鏡を外し、シャツの裾でレンズを拭く菱谷にチラリと視線を送った。

 もう三十近いはずなのに、パーツがいいのか、垂れ目で童顔だからか、菱谷は年より幼く見える。そのせいってわけでもないが、敬語を使ったのは家庭教師に彼が来た初日だけで、その後はタメ口になっていた。


 当時は叱責もされたが、十年も付き合いが続けば、逆に敬語を使うと、今では気持ち悪がられる程の間柄だ。

 冬亜の周りにいる人間の中で、菱谷は唯一気を許せる存在になっていた。

 金持ちの雇い主に媚びるタイプじゃないし、裏表のない性格も好感は持てる。

 欲望が全くないわけではないのだろうけれど。


 十年前、日本と言う国に初めて降り立ち、訳もわからず冬亜はこの家に連れて来られた。

 周りにいる人間が何を喋っているのか理解できず、自分は殺されるのだと、怯えながらも覚悟はしていた。

 小さな子どもは、生まれた瞬間から死を突きつけられていたからだ。


 きっと日本ここでも人間として扱ってもらえない。いつか死は訪れる、そう思っていたのに、それはいい意味で裏切られた。

 檜垣家での待遇は、冬亜がこれまでに経験したことのない裕福なものだった。

 それでも染み付いた警戒心は拭えないままだったけれど。

 

 生活に慣れてくると、日本国としてのありようや、日本人の性質が徐々にわかってきた。

 ここは生ぬるい考えの人種が善人ヅラし、腹の中では自分さえ良ければと利益を企む、嘘くさい人間がうじゃうじゃいる場所なんだと言うことを。

 

 それでもこの菱谷はちょっと違っていた。 

 何処の馬の骨かわからない冬亜に、根気よく日本語や勉強を教えてくれたのだ。


 ──胡散臭いとこはまだあるけどな。


 ボンヤリ窓の外を眺めていると、

「なあ、そういや、この間のテストどうだった?」と、体を揺さぶられた。

 冬亜はスマホを取り出すと、画面を眼鏡へと突き付けた。


「ちょ、近い、近いって」

 ズレた眼鏡を所定の位置に戻しながら、菱谷が画面を覗き込んでくる。無防備な体を、冬亜の胸の前まで食い込ませてくると、短く束ねた毛先で顎をくすぐられた。


「先生、くすぐったい。ほんっと、毎回言うけど学習しろよな」

「ごめん、ごめん。でも、ほんと面白みのない成績だよな」

「は? ちゃんと上位をキープしてっだろ」

「だからだよ。俺、張り合いないじゃん」

「なんだそれ。ってかさ、あんた仕事の方はいいのかよ。この間でっかい設計の依頼受けたんだろ。俺のカテキョやってる時間あんのかよ」


 くすぐられて痒くなった顎を掻きながら、冬亜が訝しげに聞くと、クッキーを齧りながら、眼鏡の奥の眸が孤を描いている。

 ピースサインしながら、相変わらずなタレ目を更に下げ、戯けている態度はやっぱり胡散臭い。


 冬亜が初めて菱谷と出会ったのは、家庭教師として檜垣が彼を家に連れて来た時だった。

 まだ大学生だった彼に課せられたのは、冬亜に勉強を教えるのは勿論、日本語や必要最小限のマナーだった。加えて日本の生活習慣や、友人の作り方までも。


 モラトリアムだった彼だからこそ、まだ子どもだった冬亜にはうってつけの人材だったのかもしれない。

 初対面の時からニコニコした表情を向けられ、日本人は警戒心と言う言葉を知らないのかと幼いながらに思った。

 成長と共に、それはどうも違うと言うことが理解できたけれど。


 自国語すら片言しか話せなかったが、持って生まれた聡い部分が本領を発揮したのか、スルスルと日本語を覚えると、冬亜はスポンジのように勢いよく知識を吸収した。何より、檜垣や里古と一緒にいるより、菱谷といる方が上手く息が吸える気がした。


 冬亜が感じた、日本をひと言で表すとすれば、『右に倣え』の言葉が相応しい。

 人と同じことをしていれば、こいつは安全。少しでも変格を見せると、叩きのめされる。それでも、生まれた国と比べれば、日本ここは極楽だ。

 暖かい布団に、着心地の良い真新しい服。

 ちゃんと味のする食い物。中でも一番幸福を感じたのは、月あかり以外の自然光を浴びれることと、学校へ通えることだった。


 幼い頃からずっと学校に行くのが夢だった。 

 馬鹿のままだと、言いように使われるのを、幼いながらに肌で感じていたからだ。

 故郷の家族が貧しいままだったのが、それを物語っている。


 それでも汚いことはこの日本にも転がっていて、年を重ねる毎に見えてきた真実は、生まれた国が違っても、ずる賢い奴はどこにでも存在すると言うことだった。

 そしてこの世には溢れんばかりの、便利な言葉がたくさんあることも知った。


 様々な意味を成す未知の言葉を覚える度に、掘り当てた原泉のように思考が湧き出てきた。

 自分の放つ言葉を行動に利用し、それによって周りの人間が様々な感情で影響することも知った。


「──だよな?」

 参考書を手にしたままぼんやりしていた冬亜は、菱谷に肩を揺さぶられて我に返った。

「え? あ……悪い、聞いてなかった」

「何だよ、俺一人で喋ってたじゃん。もしかして寝不足なのか? 勉強しすぎなんじゃないのか、檜垣グループの跡取りだからって気負い過ぎなんじゃ──」

「はいはい、先生の評価は崩さない様にしてっから、檜垣あいつからバイト代はキチンとぶんどっとけよ。で、今日はどの大学の過去問?」


 菱谷の言葉を遮り、何食わぬ顔で冬亜は目の前に積まれた本を指差した。

 小汚い無知な子どもはもういない。


 狡猾な家族に感謝するよ、実の息子を手放してくれたことに。

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