優等生

 一年分のカビと腐敗物の混ざった水。それを頭から被ると、こんなにも鼻をつく悪臭になるのかと檜垣ひがき冬亜とあは身を持って知った。


 ポタポタと前髪を伝う雫は陽射しで反射し、匂いとは程遠いイメージの煌めきを放っている。

 濡れた上半身に目をやると、Tシャツが張り付いて肌が透けて見えそうになっているのに気付くと、冬亜は胸元を隠すように慌てて腕で胸元を覆った。

 屈んだままブラシで底を擦っていた冬亜の視界に、三人分の素足が作業の邪魔をするように現れると、「役立たず」「死ね」「臭い、消えろ」と言った、短絡的な悪態が冬亜目掛けて降ってきた。


 毎年恒例のプール清掃のくじを引くのは、クラス委員の役目だった。

 年功序列や受験生も関係ないこのイベントを、冬亜は運悪く当たりを引いてしまい、クラスメイト達は初夏の炎天下で、清掃作業と言う労働を課されることになってしまった。


 虫や落ち葉等の浮遊物を取り除き、付着した藻がようやく消えかけた頃、和やかに作業をしていた生徒達も次第に飽きてきたのか、不満な声やぼやきを所々で漏らしている。

 それらを形にしてきたのが、普段から冬亜を目の敵にする三人組だった。


「あー、あっちいわ。誰かさんのせいで汗だくだってーの」

「学年トップがいい様だな。キレイな髪からドブの匂いするぜ」

「うわっ、俺の手もくっせー。一年前の水ってヤバいわ、腐ってんのか」


 汚水をかけてきた張本人達が、わざとらしく冬亜の頭に鼻を近付け、大袈裟に顔を背けてはバカ笑いをしている。

 冬亜は下品な嗤い声を無視し、黙々と底をブラシで擦っていた。


「おい、聞いてんのか。誰のせいでこんな目に遭ってんだって言ってんだ。使えねー委員長様だなっ」

「ちょっと頭と顔がいいからって調子に乗んなよ」

 監視役の教師に見えないよう一人が盾になり、もう一人が冬亜の髪を掴んでくる。

 馬鹿なくせに、ちゃんと連携をとるところが笑える。


 濡れて悪臭を放つ前髪ごと後ろへ引っ張られ、顔全体に薄暑光はくしょこうを浴びせられた。

 二重で切れ長の目がその眩しさに目を眇め、自分の前髪を掴んでいる同級生の顔を睨み上げる。

 整った相好が露わになると、なぜか掴んでいた手が緩まった。そして目が泳ぎ出す。

 自分以外の人間がどんな感情を持とうが興味はない。痛みを感じても、されるがままの方が楽だ。

 こちらが感情的になれば、相手の思う壺になる。特にこの三馬鹿は、一度味を占めると執拗に絡んでくるからめんどくさい。


 中性的な顔に漆黒の髪と眸は冬亜の白い肌に映え、その姿は陶器製の人形を思わせる。無口で友達と呼べる相手もなく、淡々と日常を繰り返す様が孤高の王子だと、女子生徒から甘い噂をされていた。

 それらも含め、総合的に冬亜のことを気に入らない三人組は、高一の時から素行の悪さで有名だった。

 高二になってまでも羽目を外したがる意味がわからず、同じクラスになって初めて声を——いや、絡んでこられた冬亜は、返事するどころか目も合わさなかった。それが気に入らなかったのだろう、それ以来、冬亜は三人組の標的になっていた。


「こいつ、ぜってーホモだぞ。センコーにも媚びってるって噂──っ冷ってぇー。誰だよ水ぶっかけてきたのはっ」


 下劣な言葉を発した一人が、冬亜に二杯目の汚水を浴びせようとした瞬間、その行為は物理的に阻止された。

 ホースの先端が指で抑えられ、圧力が加わった水流が、揶揄する背中目掛けて勢いよく放出されている。水流を操作している顔は、にっこりと満面な笑顔を彼らに向けていた。


「もー、お前らふざけるのもいい加減にしろよ」

「っんだよ、また葵葉あおばかよ。だってこいつのせいで、このクソ暑いのに全員が労働する羽目になったんだろーが」

「檜垣のやつ、ハズレ引いたってのに謝りもしないし。俺らだけが汗かいて汚れ仕事するハメになったの、こいつのせいじゃん」

 仲間の声に便乗する、小判鮫のような三人組のうちの一人が取ってつけたようにヤジを飛ばしている。


「何言ってんの、掃除これって役得だろ。堂々と授業サボれるし、終わったらブッキーがアイス差し入れてくれるんだぜ」

 圧力を緩めたホースを手にしたまま、水久里みくり葵葉あおばがまだバケツを手放さない彼らの前で、いつでも噴射を再開できるよう仁王立ちしている。


「アイス? マジかっ」

 三人組の小判鮫担当が目を輝かせた。

「おー、マジマジ。だからさっきからブッキーいないだろ」

「あ、そう言えばっ」

 汚濁した水のバケツを地面に下ろし、もう一人が呟く。


「だろ? 後は水で流すだけで終わりそうだし、そろそろ帰って来るんじゃ──あ、ほらブッキー帰って来た」

 文句を言っていた三人が葵葉の視線を辿ると、プールサイドまでの階段を上がってくるボサボサ髪がチラチラ見える。次第にその全貌が現れると、三人組は両手でクーラーボックスを抱える担任のことぶきを見て、テンションを爆上がりにさせていた。


「あの中にアイス入ってんじゃね?」

「暑いから、マジ感激なんだけど」

 プールの底にいた生徒達が歓喜の声を上げたのを合図に、三人はバケツやデッキブラシを投げ捨てると、プールステップを上って担任のもとへ走って行った。


 何事もなかったよう前髪を整える冬亜は、足元に放置されたデッキブラシに手を伸ばした。俯いたことですっかり熱で乾燥したセンター分けの絹糸がはらりと垂れ下がり、顔を髪で隠したままプールサイドに上った。


 ジリリと焼けつくコンクリートの熱を足裏に感じると、背後からピタピタとついて来る音がする。冬亜が立ち止まると、足音は追いつこうとしたのか、小走りで近付く音をさせてきた。


「檜垣、シャワー浴びるんだろ? 俺、制服取ってこようーか?」

 かけられた言葉に振り返り、前髪の隙間からチラ見すると、子猫のような焦茶の眸を瞬かせ、冬亜からの返事を待っている葵葉がいた。


「なに、『助けてくれてありがとう』とでも言えばいいのか」

 突き放すように言い返すと、再び背中を向けて立ち去ろうとした。

「そんなわけないじゃん。それよか早く着替えたいだろ? 檜垣がシャワーしている間に俺が制服取ってくるからさ」


 顔の面積半分を占めてるんじゃないかと思うデカい目を、光の欠片が落ちた水面のようにキラキラさせて冬亜を見てくる。

 無視しても無邪気に声をかけてくる──。 今日みたいな葵葉のお節介は、これまでに何度もあった。


 友人達の輪の中にいる葵葉から手招きされても、そこに参加する理由もギリもない。冬亜にとっては、余計なお世話にしか過ぎなかった。

 こっちは好きで一人でいるのに、時折りこうやってかまってくるのがウザい。

 三人組から庇って、正義感をアピールしているのだろうけど、冬亜からすればそれは単純な思考の偽善者にしか見えない。

 眩しすぎる光は邪魔なだけだ。

 闇に慣れている冬亜に、葵葉みたいな人間は眩しすぎて目が痛い。


 足音をさせながら、冬亜の背中をまだ追いかけて来る。

 肩越しに一瞥してやると、降り注ぐ太陽の破片が、女子にも勝る柔肌の上で反射していた。

 地面の輻射熱ふくしゃねつから避難するよう、爪先だけで踊るように歩き、振動で茶褐色の癖毛が跳ねている。

 日差しは容赦なく汗を生み出し、葵葉の細い首を伝っては次々と体操服の胸元へと吸い込まれていた。


 教室で見るより自然光の下で目にする姿は、流れる汗さえも清廉に思える。

 これまで汚いものなど見たことも、触れたこともないのだろうと思うと、葵葉の全てを汚したくなり、無自覚に生唾を飲み込んでいた。


 咄嗟に自制心を働かせ、「付いてくんな」と、ジロリと凄んでやる。なのに、一ミリも動じず、

「あ、じゃあお前の分のアイス確保しとくな。何系がいい? クリーム系──は溶けるか。シャーベット系にするかって檜垣、聞いてる?」


 葵葉の言葉を無視しする冬亜の足は自然と早足になる。

 かまってくる偽善者は、ただただ鬱陶しいだけの存在だ。

 これまでも何度か三人組に絡まれていると、葵葉がそこに割って入り、いつの間にか彼らの気を削いで笑いに変えている。明るく人懐っこい性格は人畜無害でも、目すら合わせるだけで胸焼けがした。


「溶けるから早く戻れよー」

 背中で聞く涼やかな声に振り返りもせず、更衣室のドアを勢いよく閉めた。

 シャワー室に入ってコックを捻ると、勢いよく飛び出す水流で湯気が立ち込める。

 落ちてくる湯へ頭を突っ込むと、パリパリになった髪の中に指を突っ込んで激しくかき混ぜた。


 腐敗臭の残る肌にボディーソープをぬり込み、きめ細かい白い肌の上を滑らせると、胸の辺りで冬亜の指先の動きが止まる。

 首筋にある泡をかき集め、上半身を隠す素振りをつい、してしまう。


 ──くそっ、誰が見ているわけでもないのに。


 消したくても消えない過去を泡と一緒に流し、肌を伝う水の行き先を見ながら、葵葉の細くて白い首に流れる汗を思い出していた。

 汗で濡れた毛先は軽く半円を描き、耳の後ろでくるんと誘うように跳ねていたと記憶している。

 流れる汗が滑り落ちる、その先にあるものを想像し、馬鹿だろと冷嘲した。


 時折り湧いてくる欲望は、持て余す前に即席の愛情を見繕って満たすだけ。

 他人に心を預ける気などさらさらないし、女とか男の器も意識したことはない。


 ──けれど、水久里葵葉には、なぜかいつも調子を狂わせられる。


 小さな頭の輪郭が厳かな光芒こうぼうで縁取られ、無邪気な笑い顔が瞼の裏に張り付いて離れない。


 高二で同じクラスになり、時折自覚していた乱暴なこの感情の原因。

 それは葵葉だけに感じる甘い疼きだった。

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