第44話 いい人は帰ってこなかった
2023年 6月16日
「遠藤くん、辞めたらしいっすよ」
「うそっ」
バクの言葉に、ラマは言葉を失った。
彼と最後に話をしたのは、2月24日のことだった。作業を終えたバクとラマは遠藤と廊下で偶然、顔を合わせ、寒さに震えながら、長い時間、階段の踊り場に置かれたベンチで話をした。
その時に初めて遠藤の本音を、ラマは聞いたような気がする。
朝熊がラマに「近々、改革準備室、ITT、遠藤、自分(朝熊)の会議がある」と語った、1年前の6月21日。改革準備室に言われるがまま発注を決めたそのオンライン会議に、遠藤は出席していなかったのだという。
これまでのプロジェクトの経緯に対する不満を縷々と吐き出したあと、ある話の流れから遠藤は吐き捨てるように言った。
「そうなったら、もう辞めますよ」
彼らしくない感情的な言葉にラマは驚き、反射的に「こんなくだらないことでクビを掛ける必要ないって」と諭したつもりが、
「あ、いいえ、プロジェクトを辞めるっていう意味です」と返され、ずっこけたものだった。
しかし、考えてみれば、遠藤は 2月10日の時点ですでにプロジェクトをクビになっていたはず。やはり、あの時の啖呵は仕事を辞めるという意味だったのかもしれない。今となってはもはや知り得ないことではあるが、連鎖して 3月13日 の「ご相談について」というメールを思い出した。
遠藤が現状の混乱を整理するため関係者全員参加で、ざっくばらんな話し合いの場を設けることを提案したところ、参加者の一人から、その前に「直接、ラマさんと話がしたい」という条件を付けられたという。遠藤を通じた打診に対してラマは「情報センターの意思決定はすべてバクさんに委ねている」と回答をしたところ、全員参加の話は立ち消えになってしまった。
プロジェクトを退いてからも、遠藤は組織内の人間関係の正常化に尽力していたことになる。ラマはかつてポエムメールに「人間は希望がないと孤立感からメンタルを病みます」と書いた。仮に「全員参加の話し合い」が、彼の最後の希望だったとすれば、申し訳ないことをしたのかもしれないが、たとえ時間を巻き戻してみたところで、同じようにしか応えようがない。そのことが余計にやるせない。
結局、ヒデと同じように遠藤も大学を去ってしまった。
「ヒデみたいに、心を病んでないといいんだけど」
バクに言っても詮無きこととは思いながら、ラマは言葉を絞り出した。
事務部は野戦病院のようだとは聞いてはいた。心を病む人、痩せる人、休職する人、辞める人、聞けばそれぞれに個別の事情があるのだけれど、それが中堅職員に集中しているのは、長年大学に務める中でストレスを溜め続け、管理職という安全地帯への逃げ切りが、発症に間に合わなかったということだろう。
陸山会事件の頃、当時、「検察がもっとも恐れる女」といわれた女性に聞いた話をラマは思い出した。この事件では、特捜部のエリート検察官たちが、政治家を陥れるために虚偽の報告書をでっちあげるという、法治国家としてありえない所業を犯して、虚偽有印公文書作成及び行使の罪で刑事告発されている。
「なぜ彼ら(検察官)は、長年の自分の仕事に自らの手で泥を塗るようなことをしたのでしょうか」というラマの問いに、彼女はこう答えた。
「『あと、一歩で長年、目指していた地位に手が届く』という状況が、彼らの背中を押すんじゃないかな」
「ふーん、そんなものですか」
事務員の気持ちさえ理解できない技術職のラマに、エリート検察官の気持ちが理解できるはずもない。ただ、病んだ同僚の顔を思い浮かべても、「あと一歩」が用意されていれば病まずに済んだのかといえば、そうとも思えない。
この2年で細胞分裂するように部署が増え、その分、中途採用の管理職の比率が上がり、重要な意思決定を下す立場の人たちのなかに、本学の理念である「自由と意思」の伝統を肌で知る人の比率が減少した。
歴史の重みなどはすべて旧弊でしかなく、文化を有する有象無象は再開発の対象でしかない。そんな、20年ほど前から日本社会を飲み込んでいる新自由主義的なエートスが、周回遅れで前を走る美術大学をパクリと飲み込もうとしているようだ。
病んだ同僚の多くが新卒で入職し管理職手前の中堅であることにラマは気がついた。卒業したての新人でも外から来た中途採用でもない彼らは、閉鎖系のなかで長い間、呼吸し成長してきた。そのぶんだけ、学内の空気が一変したとき、環境の変化に適応できなかったのではないか。
その一方で、用意された「あと一歩」をきっかけに見事に進化を遂げ、新環境に順応したのが朝熊だったのかもしれない。
大学カラーに塗装したバイクの、行き場が無くなってしまった。
「誰も欲しがらないんじゃないすか」とバクが言う。
「えー、メルカリにだせば、10万円くらいにはなるのに?」
バクの真意がラマには理解できないが、バクの方はラマの、人の気持ちに対する想像力の欠如を経験的に理解している。
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