第38話 最後の最後の晩餐

2022年 7月 5日


 翌日、少しハイになった様子の朝熊が、また、情報センターにやってきた。

「昨日の話は、昨晩、ラマさんが帰宅したあとにバクさんには伝えたからね」と言い、1時間前までITTと会議していたという。ラウンドテーブルに座るなり、とにかくグチを並べたい様子なので「今日は録音はしないよ」とラマは宣言する。

「なんかもういろいろ、腹が立っちゃってさ…」安心したのか、いきなり朝熊はこう切り出した。「やっぱりITTありきだった。4月にはすでに発注していたんだ!」

 さすがにそれを聞いて、ラマはちょっと驚いた。

「それを遠藤くんは知っていたの!?」

 それには答えず、朝熊は一人でまくし立てる。「時代は変わった、これからはカネを使う時代だ」

 それが事実なら、4月に発注済みの案件に対して、6月にリセット会議をしたというのか。疑問は無数にあるが、録音が無い状態の朝熊の発言を、ラマがもはや真に受けることはない。「もう、何でも言うんだろうな、この男は」と思い、受け流すことにした。

 相馬メールに関しても、「前言撤回。彼は確信犯的責任回避だ」などと言い出す。昨日、白と言ったものが、今日は黒。

 こうなると何がウソで何が真実かを知る術も情報も、ラマにはない。ただ、眼の前の男は、ウソにウソを重ねているうちに自分で立てたウソの設定すら忘れてしまい、今やひたすらウソを重ねれば、それが現実になるとでも思い込んでいるように見える。

 

 朝熊が去ったあと、入れ替わりにバクが出勤してきた。

 先ほど情報センターを訪れた朝熊は、「昨日の話は、昨晩、ラマさんが帰宅したあとにバクさんには伝えた」と言っていた。

「昨晩、オレが帰ったあと、朝熊さんが来たんじゃない?」

「ええ、来ましたよ、7時頃」

「さっきも来てわけのわからないことを並べていったんだけどさ、昨日は『オレからバクに説明しても混乱するから、直接バクに説明してくれ』って言っておいたの。それで、なんて説明されたの?」

「前言撤回。調べてみたところ、ITTに理事会で決定してるわけではなかったって」

「それで?」

「だったら、契約しなけりゃいいじゃないですか」って言いました。

「そうしたら?」

「黙ってしまった」

 二人は爆笑した。

 バクの話やメールは常に過不足なくエッセンスだけで構成される。その愛想のなさが「怒っている」という誤解を生んだことも、一度や二度ではない。しかし、本件に限って言えば、朝熊が伝えたかったことの骨子は確かにそれだけで、情報センターとしての意見もバクの答えが全てになる。朝熊とラマが交わした冗長な会話の要件は、バクにかかれば3分で終わってしまう。

「でもさ、今さっきここで、あの削減堂住職がさ、『時代は変わった、これからはカネを使う時代だ』て言ったんだぜ」

「えー、マジですか」、変化に乏しいバクの表情が珍しく感情を表した。

 これほど単純な話でさえ、にわかには信じてはもらえないのだから、朝熊の歯切れの悪い前言撤回の説明をラマがバクに言伝することは、とうてい無理なことだった。


 朝熊は「これからはカネを使う時代だ」と言った。百歩譲ってそれが本心だとしても、今回のような予算執行は、経理担当として経費節減に尽力した自分の40年間の歳月をドブに捨てるようなものではないのか。少なくともラマが30年を捨てるには、それなりの思い切りが必要だった。朝熊もまた逡巡し苦悩を隠しているのだろうか。

 鷹に仕える鷹匠のような技術職と異なり、事務職とは組織に仕える仕事であり、それはすなわち、上長に従うことを意味するのだろう。

 だから、立場上、「ITTありき」を認めるわけにはいかないことはラマにも理解できる。しかし、自分の人生の大半を費やし育ててきた鷹を手放すことはできても、自分の手で殺すことができるものなのだろうか。

 

「仕事で自己実現」などと言うけれど、そのためには組織における上司の価値観を自分の中に受け入れなければならず、その上司もまた同じように上司の価値観を内面化している。組織と言うのは、レミングの行進のようなもので、先頭が建学の理念や法人の定款に向かっているのか否かは誰も問わない。これは組織を超えた日本社会一般の構造のようにも思える。

 

 太平洋戦争の時に日本人が現人神などというフィクションを、どこまで本気で信じていたのかは、ラマにとって昔からの素朴な疑問だった。「気が知れない、でも知りたい」と。

 命令に従い、我が子を供出し、飢え、殺し、殺されなくてはならなかった人たちが自分の心を防護するには、上司の命令が天皇という現人神に接続されていると、信じるよりほかなかったのかもしれない。


 朝熊は確かに「これからはカネを使う時代だ」と言った。

「どうせ主体性を奪われるのであれば、いっそ自発的に主体を捨ててしまおう。自分は主体的に主体を捨てたのだ」と信じることで「自分」の保護を図る。そんな奇妙な理屈で自分を納得させるためには、なるべく大きな権威のある存在に主体を委ねる必要がある。

「家来は、家来が王様に仕えるのは王様が王様だからだと思っているが、実は王様が王様であるのは、家来が王様として王様に仕えるからに他ならない」という見方がある。だとすれば、「宮仕えというものに徹しておりますから」という朝熊に対して、理事長はそれほど強権的にITTの採用を迫ったわけではないのかもしれない。あのITTの巨漢営業の傲慢さは、理事長の虎の威を借るというよりは、王様に仕える大学職員の習性を推量していたのかもしれない。


 近代になって「個人」が生まれたことで「神は死んだ」といわれるが、死んだのではなく、(祭り上げられることから)「神は解放された」のだ。そして、まだ解放されない神が各所に偏在しているのだろう。




  

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