第11話 思い出のJ-BOSS攻撃
眠れない夜、一年前(2021年11月17日)の理事長室での会話を、ラマは思い出していた。
バクとラマは改革準備室の烏山の案内で、理事長室へと案内された。二年前にどこからか就任してきた理事長、5ヶ月前に文部科学省から降臨してきた鵜飼理事、三ヶ月前にその鵜飼理事が連れてきた改革準備室の烏山、そして、バクとラマ。
ここに鵜飼理事が同席しているということは「改革準備室は理事長が最近連れてきた新理事が設立させた」という食堂の噂は、どうやら本当らしい。
十数年前の竣工以来、初めて足を踏み入れる理事長室にラマは緊張したが、この時点では鷲見理事長と鵜飼理事は情報センターの仕事と経験に敬意を示し、細かい話についてもよく聞いてくれた。
しかし、和やかに進んだと思える会話のなかに、一度だけ微かな緊張感が生じたことをラマは思い出した。
それは、多くの学生が、本学のWi-Fi環境に不満を持っているという調査結果を改革準備室が出してきていると告げられたときだった。
そこで、そこにある根本的な原因を理解してもらうべく、ラマは目の前に座る新参の理事と理事長に順を追って経緯を説明した。
15年ほど前、動画や音楽といったWi-Fi経由の通信がインターネット回線を圧迫したということで、教育設備としてのネットワークを学生の私的利用に供することの是非が部課長会で話し合われたことがある。
その結果、
(1)Wi-Fi導入に際して、教育用の通信を抑圧しない範囲で自由な利用を認めること
(2)設置は各学科の自由、また管理も導入した学科によること
ということが決定された。
当時、「自由と意思」を掲げる大学に相応しいこの決定をラマは歓迎した。
しかし、いずれWi-Fiの利用が増えて授業との棲み分けが曖昧になること、その頃には本決定が忘れられているであろうことを予想して、ラマは当時の上司を通じてこれを議事録に残させた。しかし、ラマに予想できなかったのは、助手の意識の変化だった。
鶴亀美大において、(2)が保証する自由は、NAC (Network Administrators Community) と名付けられたML(メーリングリスト)により実現される。MLに参加する各学科の代表は、学科内で比較的IT知識が豊富な助手が務めることとなった。情報センターは彼ら向けの研修を開き、部署内の相談窓口をお願いする。情報センターが提供するヘルプデスク機能は、彼らだけに限定して開かれる。
2つのキャンパス、20を超える建物、4000人の学生を技術職員2名で維持していくための要となる制度として、当時の学長にラマが直談判してNACは2001年から正式に大学規程に盛り込まれたのである。
それが制度疲労を起こしたのは、技術的進歩ではなく、時代に沿った助手の意識変化だった。
今では信じ難いことだが、20年前、助手とは残業代もなく、労基法も適用されない任期付きの、いわば使い捨ての労働力だった。それでも、長年それが成り立ってきたのは、美術大学特有の事情がある。助手は自身の作品制作のために施設を利用できること、教授の技を間近で見て知識を得られるといったことから、前近代的な徒弟制度のようなギブ&テイクが成立していたのだ。
だから当時の助手は、学生のためにネットワーク工事が必要なら総務に掛け合い、自ら家電量販店でWi-Fi機器を購入し、マニュアルと悪戦苦闘しながら設置をしていた。
しかし、Wi-Fi機器のコモディティ化や労基署の指導などを含む時代の変化に伴い、助手のマインドも変化した。昔の助手像を知る事務員は「いまの人たちは、もう、公務員みたいですよ」と遠い目をする。
古き良き時代が本当に良き時代だったのかは、どの時代も怪しいものだが、ことの是非とは無関係に、新しい労働観のもと、設置したWi-Fi機器の情報などは引き継がれることなく、任期付雇用は何代も代替わりした。いまでは機器の不調に際して助手には更新する動機も情報もない。情報センターの研修で、それらが自主管理であることを知っているので、不調を情報センターに相談することもない。
「情報センターはたった二人で、よくやってくれてますよ」
何人もの人から何度も聞かされたセリフではあるが、それがNACという助手の無償労働を前提にした制度に依存しているという事実から、それを聞く度にラマは居心地の悪い気持ちになるのが常だった。
しかし、時代の変遷により、このシステムにほころびが生じており、現実に、Wi-Fi環境の問題が生じていることも、それを改善しなければならないことも、受け止めるべき事実である。
この日、このNACという制度とその制度疲労について、理事と理事長に説明し終えたラマは、
「原因は複合的ですから、調査をしたうえで、設備投資をしないと無駄になります」
と提言した。
念頭にあったのは、ショップの店長からの提案だ。
ショップとは学内に小さな店舗を持ち、学生のために大判ポスター印刷などのサービスを提供する一方、学科からの注文に応じてIT機器全般の仕入れから設置までを担う販売店のことだ。学生バイトと店長だけの小規模経営ながら、学内環境に見合った設定まで頼める使い勝手の良さから、店長自身の言葉によれば、学内のWi-Fi機器の9割は彼が納めているという。
つまり責任分界点の制限から情報センターには把握できない各学科個別のWi-Fi機器の現状を、学内で最も総合的に把握しているのが、店長なのだ。
その店長から50台以上のWi-Fi機器が乱立するD棟では、「これを解決するなら、統合ソフトを入れるしかありません。ソフトが80万円、サーバーや設置導入を含めても200万程度あれば解決できます」と提案されていて、機会があればそれを起案する準備はできていた。
しかし、それを実現するためには制度変更が必要になる。「機会があれば」というのは、そのためだ。現状の情報センターの権限はネットワークの壁コンセントまでで、その先のWi-Fi機器には権限が及ばない。誤設定による周囲への影響が確認された後に切断を命じることができるだけなのだ。
提案実現のプランとしては、まず店長にWi-Fi専門のヘルプデスクの業務委託を打診し、契約が整い次第、NACを「Wi-Fi機器設置の自由」と引き換えに管理責任から開放する、といったロードマップを描いていた。各教室には授業用の情報コンセントが設備されているため、Wi-Fi機器の障害対応は緊急性が低く、店番の学生バイトに電話番をお願いする程度であれば、それほどの委託料にはならないはずだ。
Wi-Fi機器が乱立する状態を解決するために、このプランを俎上に載せない手はない。ただし、制度変更のためのトリガーが必要になる、とバクとラマの認識は一致していた。
複合的とした原因のもう一方、授業時の一斉アクセスによる速度低下に関してはインターネット出口をボトルネックとするもので、Wi-Fi機器の問題ではない。こちらについては、プロバイダーが10ギガを商品化するのは時間の問題であったし、次年度のサーバー更改で回線を二重化する計画をすでにバクが進める用意があった。
話が技術に寄り過ぎたのか、低調な空気を察したラマは、話を設備投資へと移す。
現在建築中の学生寮のネットワーク工事のコンペでは、G5など近年の急激な技術的進歩による将来の不透明さから、8年という長期縛りのプロバイダ契約と引き換えに工事費を全額負担するとまで言い出した業者さえ現れ、3社提案のなかで最有力になっている。そのことを例に、現在の技術動向としては、一気にネットワークシステムの総入れ替えのような巨額のインフラ投資はリスクが大きいと考えられていると説明した。
それにしても、なぜ突然、改革準備室が、本学のWi-Fi環境を問題視し始めたのか。
自分のデスクに戻るとラマは、大きなマグカップのコーヒーを飲みながら、
「まーた、J-BOSS攻撃だよ」と、バクに愚痴った。
「J-BOSS攻撃」とは、DDoS攻撃という技術用語に引っ掛けたもので、セキュリティ関係のIT会社が仕掛けてくる、上層部をターゲットにした営業手法をさす二人の隠語だ。
業者にとっては、技術的説明で専門職を納得させるよりも、上層部の意思決定者を籠絡する方が簡単で効率的であることは、ITでも原発でも変わりはない。多様な専門職からなる各センターを素人の事務職であるメディアセンター事務室が統括するような組織構造はこの攻撃に脆弱だ。これに対抗するには、業者に不要な危機感を煽られて不安に陥る管理職と同席して、対面する業者の説明をプロの視点で吟味し、必要なら、隣に座る上司に脅迫内容の非現実性や非合理性を理解してもらわなければならない。しかし、この作業には技術職に不足がちなコミュニケーション能力が要求される。これが彼らが使う用語、「J-BOSS攻撃」だ。
とはいえ、当時はそれで終わったので、理事長室でそんな話をしたことさえ、ラマはすっかり忘れていた。しかし、改めて色々なことが思い出され、結びつき、ひとつの嫌な物語が形成されては消え、気がつけば、空が白んでくる。
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