第3話 話、聞いてないの?

一か月前の俺は、心を躍らせていた。

中学までは友達もそこまで多くはなかった。部活のチームメイトに打ち上げいこうぜ、なんて言われても、用事なんてなんにもないのに、「ごめん、今日は…」とか言って家に帰る奴だった。サッカー部なのに。

そう、俺はいわゆる、陰キャだった。

引っ込み思案な性格を直す、運動不足を解消する、という二つの目標のもと、三年間の部活に励んだ俺は、卒業式、ついにクラスの打ち上げに行くことはできなかった。

しかし!そんな俺にも、まだチャンスが残されていたのだ!

それはもちろん、高校デビューである!中学までは根暗で物静かだった奴が、高校に入って陽キャの仲間入りを果たす!

だが俺は重要なことに気が付いていなかった。

よく考えればこれまで何もしていなかった人が突然虚勢を張っても、それは単なるただの虚勢であるので、いつまでも陽の者としてのかりそめの仮面をかぶって生きることはとてもしんどいことなのだ。

そんなことを一切知らない俺は、受験に受かるなり、自己紹介はなんて言おうとか、髪型はどうしようとか…、ああ、今考えると心が痛くなる。

まあ、そんなこんなで心躍らせながら入学式を前日に控えた夜。俺は突然大事な話があると言われ、リビングの机の前に座り、父親と相対していた。

「話って何?」

晃弘あきひろ、お前、友達いないだろ」

「は?」

突然のdis。

「高校行っても、サッカー続けるのか?」

話が変わったが、俺は気にせず答えることにした。

「サッカーはやらないかな。野球かバスケか、ってとこ」

「そうか、じゃあサッカーにしとけ」

「なんでだよ」

「お前、サッカー上手いからな。もったいないだろ」

「うまい奴はベンチあっためてねえよ」

「そうか…」

少しの沈黙が訪れる。何か言いだしづらいことでもあるのだろう。他愛もない雑談なんて普段は全くしないからこそ、より強くそう感じる。父はどこか悲しそうな、申し訳なさそうな表情をしていた。そうして、ついに沈黙が破られる。

「あとさ」

父は突然、俺の方にペラペラの紙切れ一枚を差し出しながら、こう言った。

「悪いけど、ハメられたわ」

やっぱりペラッペラのただの紙切れ一枚である。しかし、そこには恐ろしい文言が書かれていた。

借用金契約書―――

金を借りていたのは父ではなかった。安藤がい。名前も聞いたことのない人だった。

だが父の名前がたしかにそこに書かれていた。

「連帯保証人―――山口、あきら―――」

言葉が出なかった。

十秒ほど頭を真っ白にした後は、はあ~と大きなため息をつきながら、俺は椅子に座った。

「やっちまったか」

「二十年前の俺がな」

「一応聞くけど、貯金とか、親戚とかさ、そういう金のアテとかって…」

「ない」

「だよな」

「だから大海原に出てくる」

突然何を言い出すんだというツッコミは置いておいて、話を進めた。

「俺はどうしたら?」

「普通に生活しててくれ。金の方はなんとかする」

「そっか…この安藤ってやつは誰なの?」

「大学の同級生だな。こいつも一緒に船に乗る」

なかなかに重い話を持ち出されたが、いまさらそこまで驚くことではない。俺の父親はこんな感じで、トラブルを常に抱えていて、問題が解消すれば新たな問題を生み出す不幸体質である。が、それでも俺と俺の生活だけは絶対に守ってくれる。

それに、俺には父を止めることなんて当然できない。だって紙で契約しちゃってるし。金返すって。

「悪いな、ほんとに」

「まぁ仕方ないよ。どれくらい行くの?」

「三年だな」

「あ、それだけ?」

「いやいや、それだけて。三年もだぞ?」

「三十年とかかと思ってたからなーんかインパクト薄いなぁ」

父は俺を見て大丈夫そうだと感じたのだろう。少しにっこりと笑い、椅子から立ち上がった。

「それじゃ」

父は最後にそれだけ言って家を出て行った。

残していったのは、冷蔵庫と冷凍庫いっぱいに詰められた準備の簡単な食品類。ゴーゴー、と音を立てて動いている洗濯機。ハンガーにかけられ、パリッとして糊のきいている一度洗濯した新しい制服のシャツ。

あたりを見回して、父の抜け殻に残された俺の世界の様子を確認していると、ピーンポーン―――とインターホンが俺を呼んだ。

俺は父が忘れ物でもしたのだろうと思い、なんの疑いもなく鍵のかかっていない玄関のドアを開けた。

そこには、知らない女の子が立っていた。目を見張るほどの美しさだった。

女の子は、四月にしては少し寒いくらいの、水色の薄いワンピースを着ている。外は風が吹いておらず、彼女の長く黒い髪も、ひらりとした服の裾も、そして視線も、流れることはなかった。

俺も同じく、彼女から視線を逸らさなかった。というか、なぜか逸らせなかったのだ。

その間、俺たちは何も言わなかった。少し、風が吹いた。

背中に隠れていた彼女の長い髪は、風に吹かれて体の右側に流れた。玄関の光に当てられて、真っ黒な髪に白い光沢が反射した。そこで初めてハッとして、俺は口を開いた。

「どちらさまですか?」

「えっと、安藤です。安藤しい

知らない名前である。俺は頭をフルに回転させて、小、中のクラスメイトを思い出したが、やはりどこにもいない。

「えーっと、人違いって言うか…家違い?では?」

彼女は視線を右に移して、再び俺に向き直り、少し首を傾げて言った。

「山口さん、ですよね?」

「はい」

その通りなので肯定するほかない。

「君は晃弘くんですか?」

「はい」

これも同じ。

「…話、聞いてないの?」

「………聞いてないかも」

俺も彼女も、表情は全く変わらなかったが、突然敬語が外れた。何かに気づいたのだ。お互いに。

「中、入る?」

「うん」

そうして、入学式前日の夜、俺は自分以外誰もいない家に女の子を上げた。

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