第2話 耳、真っ赤だね
玄関に座り、ランニングシューズの靴ひもを結ぶ。右足、左足の順で、ゆっくりと。結び終えた後は、立ち上がってつま先でトントンと地面をつつき、靴の状態を確認する。最後に、靴のすぐ近くに置いてあったサッカーボールを抱えた。
そうして準備を終えた俺は、片開きのごく一般的なドアを開いた。
「あっ、やっときた~」
制服とも部屋着ともパジャマとも違った、運動用の服装をしていた椎は、とても新鮮で、やっぱり可愛かった。
チャックのついた薄手の上着に、長ズボン。そして長い髪をポニーテールにまとめている。普通の人にとってはただのジャージ姿であるのに、椎が着ると絵になった。
「あれ、ボール持っていくの?」
俺が片手で抱えていたボールを指さして言った。
「うん、なんか今日はそういう気分でさ」
「じゃあ今日は走んないの?」
「走らないけど公園までは行く。歩いて」
「ふ~~~ん、じゃあ行こ」
俺たちは二人で歩き始めた。家のある通りは街灯が少なく、非常に暗いのだが、歩いて少し大きな通りに出ると、俺たちは煌々とした世界を目にした。
「そういえばさ、なんで突然外行こうと思ったの?」
歩きながら、さっき家で聞きそびれた、シンプルな疑問を再び口にした。しかしその瞬間、椎の表情が突然暗くなり、視線を地面に向けてしまった。
「…最近、なんか変わったかなって…」
「…変わった?」
「そう。変わっちゃったの…」
ふむ。
さすがにわかる。少し…太ったのだろう。外見だけでは俺にはとても違いなどわからず、細く見えるのだが、きっと本人にはわかるのだろう。数字も出るし。
しかし、太ったの?なんてはっきり言うと怒られるのは目に見えているので、俺は触れなかった。
「今日、やっぱりランメニューにしようかな」
「え、そのボールどうすんの?」
「一旦公園まで行ってボール置いてから走りに行けばいいでしょ」
「…なんか気使ってない?」
たしかに、俺の体のどこかから、ぎくりと音が鳴った。
「…ま、まさか…気なんて使ってないよ…」
「嘘でしょ」
少し目つきが鋭く、恐ろしくなっていく。
「やっぱり
「いや違うって。俺はさっき椎が変わったって言ったのを聞いて、もしかしたらそうかもって思っただけで、それまでまっっっっったく気づいてなかったんだよ」
デリケートな部分に自ら突っ込んできたくせに、椎は大きくため息をついて、一丁前に落ち込んでいる。
「晃弘が気づいてなかっただけで、皆気づいてたのかも…」
「…うん、やっぱり今日はランメニューにしよう。ボールは大丈夫だからさ」
「………」
「はぁ~~~~~疲れたぁ~~~~~」
ひとっ走り終え、俺たちは公園に戻ってきた。
本当に痩せたかったのだろう。椎は俺の普段通りのメニューにも遅れながらもなんとかついてきた。顔が真っ赤だったので、自販機で水を一本買ってやり、今はそれを飲みながらベンチに座り、死んだようにだらっと首を上に向けて休憩している。
椎はまだとても動けそうな状態ではなかったので、家に帰るまでの体力を回復するまでの間、俺はボールを蹴り、ドリブルの練習をしたり、シュートの練習をしたりしていた。
明かりは入口にある一つだけ。その小さな明かりを頼りに黙々と練習を続けていると、椎が遠くから声をかけてきた。
「晃弘、上手だねぇ~~~」
いつのまにか普通に座っており、俺の練習を眺めていたようだった。
「まあ、中学で三年やってたからね」
椎は立ち上がって、こちらに向かってくる。
「ヘイ、パス!」
パスの要求。俺は弱めにボールを蹴り、コロコロとしたパスを椎に送った。
「ほっ」
椎は転がってきたボールを、片足を上げて上から踏みつけるようにして止める。
「どう?」
ドヤ顔である。椎はまだ顔が赤いままだった。
「ヘイ、パス」
「おりゃっ」
右足を少し引き、軽く振りぬいた。スピードのある結構いいボールが帰ってきた。俺は体を少し横に向け、インサイドでピタリと止めた。
「ナイスパス!」
椎が大きな声で言った。俺は思わず少し笑って、
「自分で言うのかよ」
と言った。
「晃弘、ボール蹴ってるの様になってるね」
「そうかな」
「うん、体育のバレーの時とかすごい下手くそだし、ボール抱えてるときもなんか弱そうというか違和感があるんだけど…」
「そんなに言わなくても…」
「あはは、ごめんごめん。でも、ボール蹴ってると…」
椎はそこで一拍おいた。顔を見ると、もう結構時間が経っているはずだが、運動の後だからなのか、まだ頬が赤く染まっており、少しほほえんでいた。そしてゆっくりと口を開く。
「かっこいいじゃん」
突然の『かっこいい』という言葉に、俺は言葉を詰まらせた。
「………ありがと」
俺は思わず椎から目を逸らし、ぎこちなく返事をしてしまった。
「そろそろ帰るか。もう歩けるだろうし」
そう言って足元のボールを拾い上げて、ボールに着いた土を払い、公園から出ようとすると、めちゃくちゃにニヤニヤしている椎の顔が視界の右端に映った。
「…なに?」
「耳、真っ赤だね」
俺は突然そう言われて、椎の方へ向けていた右の耳を無意識に手で覆い隠してしまった。
「恥ずかしくなると耳赤くなっちゃうんだね~!かわいいとこあるじゃ~ん!」
背中をバンバン叩きながら、ダルがらみをしてくる。
「…うるさ」
帰ってから、椎は風呂に入りなおして、すぐに寝てしまった。
俺も椎に続いて風呂に入り、すぐに布団に入った。
俺が風呂に入る前に、椎からは「ヘンな気起こさないでよね」と釘を刺された。言われずとも、もちろんそんなことはしない。
布団の中で、俺はちょうどひと月ほど前に、椎と初めて会った日のことを思い出していた。
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