第51話 祭礼(前)

「襟を直して。背筋を伸ばして。ほら、髪が立ってる。こうして――こう」

 白い礼拝衣の襟を引き寄せ、リズベットはザイナスの身なりを整えた。今回ばかりは、最後にいつもの手櫛でくしゃくしゃと前髪を掻き混ぜるのは無しだ。無精髭さえ綺麗に剃り払われている。ザイナスを眺めてひとしきり唸り――リズベットは整えたザイナスを隠すように礼拝布を深く包み被せた。

 複雑な表情の妹を、ザイナスはやれやれ、と見おろしている。これで支度は終わりだろうか。問題は、これが賑わう往来の真ん中だということだ。リズベットは気にも留めていないが、辺りに聞こえる生暖かい囁きが居心地悪かった。

 落ち着かないザイナスと目が合うや、リズベットは念を押した。

「いい? 知らない人についていっちゃ駄目だからね」

「駄目だからね」

 エステルが見上げて真似をした。御使いとはいえ、その姿で言われるのは立つ瀬がない。衆目もお構いなしに、ザイナスは二人に世話を焼かれている。

「兄さんがしっかりしていても、相手がそうとは限らないんだから」

 確かに、それが面倒なところだ。出遭う災難の殆どが、そうした理由で降り掛かる。ザイナスほどの厄憑きともなれば、どれほどの警戒も過剰ではなかった。

「アベルが念入りに施術してくれたし、王室直々の招待状もあるから」

「その二つが信用できないの」

 ザイナスの行き先は宮廷席にも近い大聖堂の祭壇裏だ。招待状は一通しかなく、護衛がてら門の際までついて来た二人も同行は此処までだ。

「ゲイラはきっと何か企んでいるし、その招待状も。どうして一通だけなの」

 相手の悪戯だ。ザイナスはそう考えている。アベルの交渉相手は恐らく第三王女その人だ。間柄は知らないが、アベルが素直に理由を明かす筈もない。ペトロネラ王女は招待枠を絞り、アベルの策を確かめようとしているのだろう。

 だが、そうした二人の真意はどうであれ、ザイナスはもとより席に着くつもりがない。裏手に隠れてやり過ごす予定だ。その間、周囲に潜んだ皆がエイラを特定し、招待状のあるアベルとクリスタがザイナスをそこに誘導する。

 最悪エイラ、もしくはレイヴを堕とせなかったとしても、礼拝の後の布告はエステルが破壊する。その騒動に紛れて脱出する算段だ。

 皆での突入が制限されるのは、大聖堂の霊的な構造にある。これほどの術式を構えた大聖堂は、御使いも迂闊に立ち入れない。矛盾のようにも思えるが、合同祭祀の教会は、柱の偏りに気を使う。神職の招きがなければ迂闊に門を潜れない。権能が制限され、鼻も利かない状態になってしまうらしい。

「無茶しないでね。兄さんは逃げるだけでもいいんだから」

 それでは行く意味もないのだが――。

「そうだね」

 できれば、危険な目には遭いたくない。

「それと、絶対にレイヴに見つからないで」

「気をつける」

 王族とは移動の経路が違う、席次は近いがザイナスも座るつもりがない。遠目であれば賞牌マユスもアベルの術で誤魔化せる。見咎められることはないだろう。イエルンシェルツの第三王女が、ザイナスと面識がある筈もない。

 何より、端から二兎を追う気はなかった。一兎だけでも手に余る。魂刈りの阻止は、あくまでエイラが優先。ただし、その正体は未だ不明だった。

「じゃあ、行ってくる」

「見てるから、心配しないで」

「しないで」

 背中に妹の視線を感じながら、ザイナスは門衛に話し掛けた。ここから先はひとりきりだ。ザイナスは無意識に被った礼拝布を目許まで引いた。


 ◇


 クリスタが人波を割って行く。白い礼拝布を目深に掛けつも、衣装は真紅で袖がない。喉からひと繋ぎで踝に裾があり、片の切れ目は腰ほどの高さもあった。礼拝の装束かと問われれば、役者であっても頷き難い。

 ただ、目を惹くにも拘わらず不思議と衆目は集めない。生来の不可侵に乗じた御使いの聖霊術が、纏わり付くそれらを片端から払い落としているせいだ。

 大聖堂に幾多ある貴賓席には、位置と位がある。宮廷周辺の人々は祭壇の奥、商会のひと続きは二階の一画を占めている。それらは共通の別棟に通廊が配され、待合いで合流が可能だ。商談は外で、と配慮されている。

 クリスタは壁際にアベルを見つけ、遠慮もなしに立談を割いて近づいた。

「そろそろ、お歌の時間じゃないの?」

 アベルはいつもより歳相応、むしろそれより幼く見える。彼が何気に着こなしているのは、黒地に銀の飾り刺繍が縁取るガウン。聖歌隊の制服だ。

「歌わないよ。ボクはそろそろ引退だ。雛鳥の引率が今日のお仕事」

「そ」

 と、クリスタは肩を竦めて、目線を辺りに走らせた。

「で、本業はどうなのよ。エイラの目星はついた?」

 今度はアベルが肩を竦めた。

「これでもボクはここの上客なんだ。通う度に調べてる。ところがね、猊下の側近は今回もシロだ。いっそ本人が使いじゃないかって、怪しむくらいだよ」

「あの親爺に受肉するなんて、いくらエイラでも辞職もんだわ」

 クリスタは思い切り顔を顰めた。

「だろうねえ。清潔至上の現神アライブの使いだから、きっと受肉先もそんなだろう。むしろ、変に潔癖症を拗らせているかもだ」

 喉で笑うアベルの余裕に焦れて、クリスタは詰め寄った。

「で、あんた何か策はないの? ザイナスくんも来ちゃったし、このまま見つからないようなら、さっさと連れて出るからね」

 この状況で長居はしたくない。少なくとも、エステルが権域を壊すまでは嫌だ。クリスタには聖堂商会の顧問には招待があるり、アベルにも聖歌隊の役回りがある。御使いとしては招かれたとの解釈だ。ただし権能は元通り、といかない。大聖堂の中では未だ力が制限されており、微妙に霊力も弱まっている。

「そのザイナスがいるからね。彼のことだから、今度こそ見つけられるさ」

 アベルは平然とクリスタに応えた。

「それならって」

 頷き掛け、クリスタは鼻根に小皺を寄せた。

「あんた、まさか――」


 ◇


 ザイナスを含む祭礼の賓客は、まず迎賓棟に招かれる。礼拝の混乱を避ける為だ。大聖堂へは正門を避け、地下の通廊を経由する。待合いで暫し持て成された後、そのま祭壇奥の貴賓席に移動する段取りだった。

 なお、宮廷の面々は別途に専用の車寄せから内庭を通って大聖堂に向かう。こちらは敢えての正門だ。儀礼とお披露目の意味があるのだろう。少なくとも、ザイナスが貴賓席までペトロネラ王女と鉢合わせる可能性はない。

 ザイナスが辺りを見渡すに、迎賓棟の広間は彼の乏しい知見を超えて豪奢な造りだった。自由に摘める饗しの皿は、数もさながら値打ちにも天井がない。

 賓客に対して司教や職員の数も多く、壁の際には帯剣、帯杖の許された祭服の聖堂守護兵が並んでいる。白に銀の聖衣の刺繍は大聖堂の直属だ。こと、おろしたての礼服を纏う新兵の姿が眩しかった。見栄えにも気を遣っている。

 ふと見遣ると、聖務員が招待客の個々に声を掛けていた。どうやら迎賓棟の待ち合いは、招待状を確認する意味もあったしい。勿論、ザイナスの招待状は完璧で、アベルの用意した身分にも瑕疵はない筈だ。

 心配するまでもなく、それは難なく切り抜けられた。

 ただ、どうにも視線を意識してならない。

 それが礼拝布に覗く容姿のせいであったとしても、厄憑きのザイナスの日常としては、嫌な予感はたいてい当たるし、都合の良い予感は必ず外れる。

「お待ちください」

 小柄な守護兵がザイナスを呼び止めた。祭服の端まで糊の効いた新兵だ。凛とした少年――ではなく、美しい少女だ。歳若く、ザイナスとそう変わらない。

「失礼ですが、招待状を」

 さっき見せた、とはザイナスも言わなかった。知っているのは明らかだ。守護兵の少女はザイナスの手から、何故か指先で摘み取るようにして招待状を受け取った。目の前で広げつつ、ザイナスの顔や胸元を窺っている。

「あの」

 言い掛けて、ザイナスは口を閉じた。胸にあるのはアベルの施術だ。恐らくそれに気づいている。あるいはそれを解こうとしているのか。ザイナスは気づいて心の中で大きく息を吐いた。アベルの狙いも、少女についても。

 なるほど、皆も見つけるのに苦労する筈だ。大司教の側近かと思えば、相手は司教でも聖務官でもない。まだ新人の聖堂守護兵だったのだ。


 エイラは男の胸許を凝視した。まったく奇妙な術式だった。聖霊術というよりも、使いの加護を描いたような。にも拘らず、男の霊格は皆無に等しい。これでは殆ど意味がない。意味もなく、ただ術符が絡み合っているだけだ。

 エイラは招待状の端から男を見上げた。反射的に目を逸らし、再び術式を凝視する。まあ、悪くはない。少なくとも清潔だ。ただ、妙な怖気に目が逃げてしまった。猛禽の爪が食い込むような、食べられてしまいそうな恐怖があった。

 ――馬鹿々々しい。呻いて逃げるように術式に意識を集中した。解こうと思えば、解ける筈だ。ほんの少し集中すれば――こんなものは単なる知恵の輪だ。


 ザイナスは途方に暮れていた。招待状を握り締めたまま、守護兵はその場を動かない。時折り意識と目線が向くも、気づけばすぐに逸らされてしまう。

 アベルの施術が原因だ。これをどうにかしようとしているに違いない。今すぐ走って逃げようか。このまま賞牌マユスと判ってしまえば、全て手詰まりだ。

 ザイナスは周囲に逃げ道を探し、たまさか動揺を嗅ぎ取った。彼女の同僚の懸念はわかる。だが、辺りの司祭の様子がおかしい。ザイナスに詰め寄る同僚の守護兵をぽかん、と見ている。まるで在り得ないものを見るかのようだった。


 男の視線も相まって、エイラは余計に向きになった。この大聖堂の中に在り、エイラは大司教に導管を偽装している。神格を顕わすことなく力を振るう為だ。だが、それだけでは追いつかない。あと少しあれば、この術式は――解けた。

 勝利に酔うのも束の間、エイラの頬から血の気が引いた。

賞牌マユス?」

 男を見上げて凍りつく。とたんに、真っ黒な瞳に喰い千切られた。穢される。思わず逃げたのは人の身の生理だ。後退ったものの、動けない。痺れにも似た怖気が脚を這い上って来る。蹲み込みそうになるのを辛うじて堪えた。

魂なきノスフェラ――」

「ハレルヤ」

 突然、男は大声を張り上げた。

「御使いの降臨である」

 朗々と叫ぶやティルダの前に跪いた。客が何事かと振り返る。聖務官の一団、少女を囲む守護兵、当のティルダ自身でさえも、その行為に虚を衝かれた。

「この神気、この方こそ紛うことなき――」

 御使い、であると。

「何を、貴様」

 だがティルダがその不意打ちに戸惑う内、辺りは総崩れになった。ティルダの霊格にどよめく司祭が、真っ先に彼女に膝を突いてしまったのだ。

 それを見た聖務官や守護兵らも慌てて跪いた。施術を解くのに夢中になって漏れ出した神気だ。修練を重ねて大聖堂に上がった身ほど、それが判る。

 居並ぶ賓客はいずれも男ほどの霊格だったが、大聖堂の聖職者が一斉に平伏するのを目の当たりにしては、これ只事に非ずと直ちに確信した。

「違う、私は」

 賓客が大挙してティルダを取り囲む。信心も疑いも一緒くただが、彼らは傲慢で蛾が強い。邪魔な椅子でも押し遣るように、男を押し除け身を乗り出した。

「何と、噂は本当か」

 口々に声がする。まるで醜い蟲の群れだ。我れ先にティルダに縋ろうとする。先とは異なる怖気が走り、ティルダは思わず後退った。

 必死になって目を遣ると、押されて下がる流れに乗って、男の姿が人の背に隠れる。それが人垣に紛れるや、身を翻して駆け出した。

「待て、賞牌マユス。おまえたち、あの男を捕まえろ」


 逃走に気づいた少女の叫び声がする。背中でそれを聞きながら、ザイナスは通路に走り込んだ。人のまばらな方向に向かって闇雲に走る。

 アベルが近くにいなくてよかった。彼ならきっと、ザイナスの芝居に腹を抱えて笑っただろう。神霊に疎いザイナスには判らなかったが、どうやら彼女はアベルの施術を何とかしようとして、御使いの霊格を醸し出しまったらしい。普段は皆のように隠していたか、あるいは聖堂ならではの隠し方があったのだろう。

 いずれ、こうなったのはアベルの所為だ。ザイナス自身をエイラを炙り出す罠にしたのだ。せめて最初に一言あっても――断ったには違いない。

 さて、これからにどうしたものか。


 ◇


「ザイナスの様子はどうだった?」

 ふと、ラーズは背中に向かって声を掛けた。辺りは装飾過多の尖塔と夕暮れの空だ。色とりどりの天窓の硝子が、空に向かってぼんやりと光っている。

 リズベットとエステルが、天窓の縁で手を揚げるラーズの傍に足を着いた。

「中には入れたわ。そろそろ下に着く頃かな。何もなければ、だけど」

 二人はザイナスを見送ったあと、待機した皆を回って屋根の上にやって来た。ラーズと三人で天窓の縁に潜み、頃合いを見定めて突入するのが段取りだ。

 大司教の説話で締める礼拝は、その後の宣告が本番だ。まだ内容は公にされていないが、告示の規模は国家級だと囁きが既に回っている。

 皆の第一義はその破綻。宣告を待って神罰を下す、天上からの全否定だ。幸い市民の流言には御使いの降臨も囁かれている。ならば、それを実現しよう。

「エイラは見つかった?」

 リズベットが訊ねる。天窓硝子の遥か下には、びっしりと人が犇めいていた。

「わからん」

 むっつり応えたラーズは、リズベットの視線を聖堂の奥に促した。

 説教や式典の舞台となる広い壇の向こうには、豪奢な祭壇、見覚えのある十二の聖像、王侯貴族や重鎮の並ぶ貴賓席がある。

「大司教はこっち側? お付きの司祭はあの辺り? エイラはきっと近くに――」

 眇めて唸るリズベットを眺めて、ラーズはふん、と口の端を曲げた。

「な?」

 全く使いの気配がない。

 祭礼の段取りはつつがなく、陽の落ちるまま進行している。人波を割って拓かれた路には聖衣の司祭が列を成し、祭壇奥の貴賓席を著名人が埋めている。

 一際、足下がどよめいた。ペトロネラ王女と宮廷の面々の入場だ。

「レイヴは、あれだな」

 ラーズが目線で指して言った。こちらの神気は明確だ。

「前の丸い二人が件の姉姫か」

 庇護しているのか、飼っているのか。二人は内心で失礼な感想を抱いている。

「ゲイラとヘルフは兄さんと合流できたかしら」

 眼下のレイヴもさることながら、ぽつんと空いた貴賓席を睨んでリズベットが呟いた。レイヴとも距離を取るよう言い含めた以上、ザイナスが居る筈はない。

「さて、ザイナスのことだ。先にエイラを見つけて堕としているかも知れん」

「そこまでは期待しないけど」

 誰より先に警護を買って出る癖に、ラーズのザイナスの評価は誰より高い。

「ザイナスの事だ」

 エステルが見上げてにっかり笑った。ラーズが笑って髪を掻き混ぜる。

 リズベットの不安は拭えない。むしろ、エイラに見つかるのも困るのだ。ザイナスといえど、正面から御使いに適う筈がない。ましてや、エイラにせよレイヴにせよ地位がある。人を使った捕縛も造作のない事だろう。

 リズベットは小さく息を吐き、天窓の底を再び食い入るように見おろした。

「ほら、大司教が動いたぞ。お説教の時間だ」

 天窓越しの騒めきで読み取って、ラーズは朱の名残りの消えた空に呟いた。


 ◇


 ザイナスは途方に暮れていた。

 まず、此処に至るまでが大変だった。大聖堂に続く通廊は迷路のように分岐が多く、易々と貴賓席には辿り着けない。職員や守護兵の出入りは多いが、追われるザイナスが道筋を訊く訳にもいかず、むしろ避けねばならなかった。

 スクルドの羽根も大聖堂の中では通じない。助けも求めようがない。

 大聖堂は全てを祀るが、信心の霊式は大司教に集約されているらしい。それがエイラに肩入れしているとなれば、現神アライブの権域も同じだ。図書館地下と同様に、外から物理で外殻を崩し、大聖堂の境界を割るしかない。その為のエステル、誘導と制御のラーズ、リズベット。議論した挙句の力業だ。

 ちなみに、祭礼に席のあるクリスタとアベルはエイラの捜索とザイナスの保護が主な役だ。恐らくエイラに気取られている以上、最初からザイナスの傍には居られない。貴賓席から待合いに続く通廊の先で合流する段取りだった。

 一方、死んだ筈のオルガや引き籠りのソフィーアはビルギットと共に逃走経路を確保している。成果がどうあれ、この後は王都を離れる予定だ。

 ザイナスが身を隠してやり過ごすうち、来賓の礼拝が始まった。だが、その往来を辿れたおかげで、ザイナスはどうにか祭壇の下に行き着いている。

 とはいえ、祭礼はもう山場だ。

 幸い、追手は減っていた。あの守護兵、恐らく御使いのエイラも、本来の職務があるだろう。勿論、目の前の賞牌マユスを秤に掛けたには違いない。

 ザイナスの当面の問題は、通廊に居残った守護兵だ。彼らは貴賓席の待合いに続く扉の前から離れようとしない。クリスタとアベルの合流場所だ。

 さて、どうしたものか。

 我流の腕は多少あっても、せいぜい屍鬼グールを追い払う程度だ。本職の兵士に敵う筈もない。何とかあの扉を強引に突破したところで、二人の待つ待合いに辿り着けるかどうか。間を要すれば捕縛は免れない。

 息を凝らして身を潜め、ザイナスは思案した。いずれエステルが突入し、大聖堂は混乱する。その機に乗じて、が最善の策だ。基本は待ちで問題はない。

 だが、懸念もある。頭上の正確な位置がわからない。エステルは恐らくい天窓を割って、開けた壇の床を踏み抜くだろう。間違えば此処も無事では済まない。

 ザイナスは通廊の天井に目を遣り、行われているであろう式典の頃合いを計ろうとした。だが、聴き取れるほど明確な響きは何もない。

 ならば、いっそ試してみようか。ふと、そう思った。地霊術ゴエティアだ。何かで扉の前の守護兵の気を引ければ、あるいは走り抜ける隙ができるやもだ。

 奇跡はあくまで御柱に依るものだが、地霊術ゴエティアがその以外に足り得ると、今では確信めいたものがある。ザイナスに足りないのは実験だ。今まで体験したものは、あまりに偶然の要素が強い。ザイナスが今まで試みなかったのは、ひとえに効果と規模のせいだ。万一があれば取り返しがつかない。

 ならばこそ、御使いの奇跡さえ抑えるこの大聖堂の権域は実験に好条件だ。ザイナスは、思い至って懐を探った。硬貨を一枚、床に置く。例えばこれを、こう、くるりと。それができれば守護兵であれ、転ばせるのではあるまいか。

 何気に楽しくなって来た。転移バティン、などはどうだろう。ものの位置を入れ替える印章だ。ザイナスは脳裏に地霊術ゴエティアを探った。

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