第52話 祭礼(後)

 講堂は見渡す限りの人の群れだ。床の一片のさえ見えなかった。大聖堂に入れたのは、それでも市民のほんの一握りに過ぎない。外はといえば、聖堂通りの外れまで人波が辺りを埋めている。陽炎が立つほどの人いきれだった。

 メルケルは壇上に立ち、講堂を見渡して笑みを満たした。礼拝、説話が滞りなく終わり、民は布告を待っている。動乱の余韻が退かぬまま、数々の怪異に震えている。これら全ての仰ぐ手が、メルケルに救いを求めていた。

 今宵、御使いが降臨する。この災いの原因が、その唯一の解決が、光と共に明らかになる。実はそうした流言を、メルケルは密かに流布させていた。

 ある意味、それは事実だからだ。だが、そうした噂の一端が迎賓棟の騒動を過熱させていたことは、当のメルケルも露ほどに知らぬ処だった。

 メルケルは舞台の中央に進み出て、祭壇と賓客に黙礼した。

 印章で示した十二の御柱と、その前に在る十二の御使いの聖像に跪く。司教冠の影を見てから、エイラの纏う白銀の鎧に感慨の目線を投げた。

「試練の時です」

 再び講堂を仰ぎ、メルケルは告げる。これほどの人波と、これほどの沈黙。全ての人の目と耳が自身に集まるのを、メルケルは実感した。

「王都のみならず、我らが国家、我ら神民に災厄が訪れようとしています」

 茶番だ。

 王室列の端の席から、ペトロネラは冷めた目を投げ遣った。

「災いの芽は人に潜む。それは芽吹いて神民に、やがては御柱に仇なすでしょう。それらは皆の信仰が、その担い手である我ら自身が摘まねばなりません」

 それは只の人の欲だ。大司教の宣告は、ありもしない罪を案山子に擦り付け、それを殴って気を晴らす代物だ。架空の神敵、形だけの聖騎士――否、権限だけは本物だ。それは、案山子ではなく人を向いている。即ち、教会に仇為すものは自らの手で排除し得る、そうした聖王家の権限保証だ。

 二人の姉とその血統の保護を引き換えに、ペトロネラは教会にそれを売り渡した。スルーズの遺産も僅かな延命だ。この先、世界は鉄と血の匂いに満ちる。

 聖王家の血が太ければ。あるいは、この身に子が成せたなら。ペトロネラはそっと息を吐いた。隣に並んだ二脚の椅子が、肥えた尻に悲鳴を上げていた。

「グランフェルト聖王家の名の下、我らに神敵討伐の任を賜りますよう」

 そっと顔を顰めながら、ペトロネラは席を立って鷹揚に頷いた。

 裾を払う仕草の間際、こっそり後ろを覗き見る。ゲイラに請われて用意した席は空のままだ。どうやら段取りが崩れたらしい。大司教が何か気づいたのだろうか。ゲイラはいったいどんな道化を用意したのか、それだけが心残りだ。

 大司教の笑み、良いように誘われる市民の響めきを振り払い、ペトロネラは壇上に進み出た。礼装の近衛が捧げ持つのは聖王家の儀仗だ。

 講堂の中央に開かれた路を振り仰ぐ。内門が開き、白銀の列が現れた。行進する聖堂守護兵の精鋭、先に立つ少年が壇上で叙任を受ける段取りだ。

 手元に儀仗の剣が差し出された。目で促す大司教の笑顔が気色悪い。

 ふと、ペトロネラの首筋に妙な感覚が這った。大聖堂の権域に霞んでいるが、使いの気配だ。階上の聖歌隊に目を遣るが、そこにゲイラの姿はない。

 では、誰だ。

「殿下、御柱の信頼篤き聖女、ティルダ・フリーデンを聖騎士に」

 道を譲った大司教の向こうに、ペトロネラは息を呑んだ。少年めいた凛とした少女が、微かな笑みを浮かべてペトロネラの前に跪いた。


「エイラだ」

 祭壇前を見おろしてラーズが舌打ちした。みな見当違いを探していたらしい。

「司祭じゃない、守護兵だ」

 傍から聞くに聖騎士は大司教麾下の執行官だ。特務司教や守護神官といった役職と異なり、どうやら軍務に相当する位置らしい。よりにもよって眼下のエイラは、同じ御使いであるレイヴの儀仗で任じられようとしている。

 魂なきものノスフェラトゥのみならず、疑わしきは直接に手を下せる立場だ。それだけの権限があれば、賞牌マユスの捜索も優位だろう。地位を得てしまえば雌伏の必要もない。姿を現したのは、登場の演出を狙ったものだ。

「兄さんは?」

 リズベットが焦りの滲んだ声で問う。

「二人からの合図はまだだ」

 いずれザイナスは庇護下にある。易々とはエイラことティルダ・フリーデンの手に渡る筈もない。だが、こうした手段は予想外だ。今回のエステルの突入は、神敵の疑いを御使い自ら否定することにある。対抗してティルダが正体を明かしでもすれば、その効果は帳消しだ。事後の情報操作では勝ち目がない。

 リズベット、ラーズも悟って躊躇した。合図はまだか、とエステルが振り返る。

「スクルド、一旦――」

「いいえ、兄さんを逃がすには陽動が要る」

 ラーズを制してリズベットが言った。

「シンモラ行きましょう。屋根を落として――」

 リズベットのその手を、エステルが自身が押し留めた。飾り窓に額を押し当て、エステルは眼下を食い入るように見つめている。

「何か、来るの」


 前触れはなかった。

 突如として祭壇の底が抜けた。

 人も祭壇も聖像も、すべて等しく地の底に吸い込まれた。ぽつんと儀式壇を残したまま、大聖堂の奥端が最初からなかったかのように眼下に沈んでいた。

 まるで、床上と階下の空隙がくるり、とひっくり返ってしまったかのように。

 取り残された壇上には、ペトロネラとティルダ、大司教と幾人かの聖務官だけが残されていた。儀仗をティルダの肩に置いた矢先だ。剣に刃があれば危うく首が落ちていただろう。それは、ほんの一拍さえもない間だが、人も御使いも境なく、講堂を埋めた観客さえもが奇跡のような舞台転換に凍りついた。

 地階が潰れて底が抜けた。皆がその理屈に思い至る前に、宙に切れ立つ柱の残滓が一斉に沈んだ。破壊音と塵埃が遥か天窓まで噴き上がった。

 視界に外れた奈落の底から貴賓席の悲鳴が溢れ出る。

「姉上」

 我に返って振り返り、ペトロネラは宮廷列席の行方を追った。手にした儀仗にも意識が行かない。頬を掠める切っ先に、ティルダは思わず仰け反った。

 思い切り駆けたペトロネラは、断崖の如きの床の縁に蹈鞴を踏んだ。飛び込み掛けて後退り、半歩下がって覗き込む。

 姉の二人は諸共に底におり、豚のように藻掻いていた。瓦礫と塵埃に塗れているが、貴賓席はそのままだ。落ちた、というより初めから在ったかのように。

「いったい――」

「まいったな」

 傍らで声がした。途方に暮れた呟きに、ペトロネラはゆっくり顔を上げた。

 同じ奈落の縁に立つ、長身の人影がひとつあった。辺りは瓦礫の破片と塵埃が雪のように舞っている。破れんばかりの喧騒が、蝉の声のように掻き消えた。その束の間の静寂の間、ペトロネラの鼓動は止まっていた。


「使えない、加減も何もあったものじゃない」

 埃を被った礼拝布を払うと、ザイナスは辺りを見渡した。靴の先には何もない。慌てて半歩ほど後退るや、どよめきが波のように押し寄せた。振り返り、呆気に取られて立ち尽くす。板間と絨毯の向こう側、犇めくように人がいる。

 この状況はいった何だ。底の抜けた向こうには、傾いだ聖像が半身を突き出し、白塵と呻きを噴き上げている。方や眼前を埋め尽くすのは無数の観衆。

 辺りを見渡し、なおのこと混乱する。立ち尽くす美姫、跪く騎士、転げ落ちた司祭冠。右往左往する司教と衛兵。自分は何の舞台に迷い込んだのか。

 しかも騎士にも、隣の美姫にさえ、どうやらザイナスは見覚えがある。

 騎士は現神アライブの御使い、エイラだ。衣装こそ白銀の飾り鎧に替えているが、アベルの施術を解いて暴いたザイナスの賞牌マユスを追っている。

 華美な剣を手にした美姫は、衣装こそ純白の礼拝衣だが、確か脱線した汽車に閉じ込められていた書類整理の寝不足の女性だ。

 勿論、ザイナスは名を知らない。


 ペトロネラも、名を知らなかった。

 だがザイナスを見た瞬間、そうと気づいてしまった。


 ティルダは大いに困惑した。いったい、何が起きたのか。まるで理解が追いつかない。メルケルを踏み台に支配した大聖堂は、全てティルダの権域だ。なのに要の祭壇が崩落するなど、他の御使いを以てしても不可能な事だ。

 聖王の血族にしか関心のないレイヴは真っ先に駆けだした。危うく首を飛ばされ掛けたが、ティルダもこの状況を見定めようとするくらいには落ち着きを取り戻した。だがそれも、この場に賞牌マユスを見つけるまでだ。

 あれこそ魂なきものノスフェラトゥ、聖堂騎士団発足の理屈となった奉神不在のザイナス・コレットだ。何が起きた。何故、ザイナスががそこにいる。

 叙任を優先し、敢えて賞牌マユスを放置したのは、先の通りの支配下にある我が大聖堂に封じたからだ。十余年を掛けた計画だ。晴れの舞台は味わいたい。手ずから叙任せざるを得ないレイヴの顔が見逃せなかった。

 地位を得た今、地上のあらゆる汚物を洗浄してから御柱に捧ぐ心積もりだった。否、未だ大聖堂にある限り、ザイナスを捕らえるのは容易い筈だった。


 ペトロネラは理解した。全てが一瞬で腑に落ちた。

 実在した。夢ではなかった。この手が触れたのも道理、彼は賞牌マユスだ。我が身に科された不可侵を破り――彼なら使いに子を成せる。主上の使命も本末転倒、この人の身の柵と使いの束縛から奪い去る我が王がそこにいる。

運命ディスティニーですわ」

 この人は何を言っているのだ。ザイナスは、ぽかんとペトロネラに対峙した。じわじわと状況が呑み込めて、あまりの災厄に気が遠くなる。

魂なきものノスフェラトゥ

 ティルダが叫んでザイナスを正面に捉えた。こっちもあった、どうしよう。

 純白の礼拝衣を翻し、ペトロネラが間に割り込んだ。ティルダに向けて儀仗の切っ先を突き付ける。刃のない華燭の棒切れにティルダが舌打ちした刹那、儀仗のそれは白銀の剣に姿を変えた。聖像にもあるレイヴの神器だ。

 ティルダは思わず仰け反った。この権域で神器を顕すなど、ペトロネラの昂りは尋常ではない。だが、賞牌マユスと知ればさもあらんか、と思い直した。

 ザイナスは思わず嘆息した。思った通り、血族神ブラッドのレイヴだ。であれば、彼女は紛う方なきこの国の第三王女、ペトロネラ・グランフェルト殿下だ。

「横から攫う気か、卑怯者」

「お黙りエイラ、この方は私の運命ディスティニー。私の王です」

 ペトロネラが高々と宣言する。

 こいつは何を言っているのだ。ティルダは思わず後ろのザイナスに目で問うた。知らない。見当もつかない。ザイナスが必死に首を振る。

 ペトロネラは、つと剣先を流すや、ティルダなど眼中になくザイナスのもとに駆け寄った。上なく優美なカーテシーを見せる。

「我が君、御名前を賜りたく」

「ザイナス、ですが、その――」

 爪先立って迫る王女の瞳に気圧され思わず素直に答えたものの、ザイナスは訳がわからない。その切っ先で、胸を突くならまだしもだ。

「ザイナス――ザイナスさま」

 ペトロネラは胸に手を当て、溶け馴染ませるように幾度も名を呟いた。

 不意にその身を翻すや、ペトロネラは欠け落ちた床の縁に身を乗り出した。すわ、身投げかと驚いたザイナスが咄嗟に腰を抱えて掴まえる。

 王女は構わず、床の底で踠く二人の姉姫に向かって大声で告げた。

「姉上様、美しく醜い姉上様、お別れです。せいぜい自由を堪能なさい」

 ザイナスに身を摺り寄せ、高らかに笑う。

「私はこの方と子を成します。私の子が古き聖なる血を繋ぐのですわ」

 王女が何を言っているのか、ザイナスには全く理解ができない。困惑するうち、ペトロネラは有り余る御使いの腕力で以てザイナス共々に講堂を振り返った。

「地上の真の王は此処に、ザイナス・グランフェルトを讃えなさい」

 大聖堂を埋める民衆も、壇上の誰もが呆気に取られてぽかん、としていた。

 遅れて寄せた民衆のどよめきが、大波のように聖堂を揺るがし始める。感極まった吐息を漏らし、ペトロネラはザイナスに唇を押し当てた。

 大聖堂に満ちた歓声が物理的な衝撃となって天窓を砕いた。星もかくや、煌めく色取り取りの硝子片が天蓋に散る。いや、天窓を粉砕したのは巨大な手だ。枠を砕き、引き剥がし、みるみる空の領域を拡げて行く。

 聖堂の守護に辛うじて緩く舞うものの、砕片は講堂一杯に降り注いだ。逃げ惑う者もいるにはいたが、民衆の多くは跪いて熱唱した。ハレルヤ、ハレルヤ。御使いの降臨である。悲鳴にも似た声が聖堂を埋め尽くしている。

 星空を埋める巨大な御姿は巨神ギガンタのシンモラ。白銀の翼を拡げて講堂を舞うのは白神ブランのスクルド。噂に聞くルクスルーナの聖伐だった。

 ならば、逃げる者などいる筈がない。御使いのその手に導かれたならば、魂の行き先は素晴らしき次の生、あるいは約束の地カナンに違いない。

「兄さんから離れなさい、この変態王女」

 ただ、頭上を舞う御使いは俗な怒声を上げていた。

 僅かな隙間に身を屈めてまで跪こうする民衆に、リズベットの言葉が聞き取れたかどうか。壇上の大司教さえ身を投げ出さんばかりに平伏している。

「スクルド?」

 ティルダが見上げて我に返った。事態の全てに呆然としていたが、スクルドに見える希薄な神気、目の前のレイヴのその変化に気づいて髪を逆立てた。

 項の怖気にザイナスを睨む。

「貴様――穢したな」

 そうだが、そうではない。この期に及んでザイナスは弁解しようとした。刈られる者の身からすれば、これは不可抗力であり、決して何かの計略ではない。

「全て貴様の計略か」

「あー」

「そうですとも、これこそ御柱の謀。私をこの檻から救い出す為のものです」

 ペトロネラが話をややこしくする。

「はい、はい、はい、はい」

 手を打つ音が会話を遮った。ティルダもきょとんと振り返り、人影を見て目を剥いた。まったくもって出来の悪い芝居だ、とでも言いたげにアベルが壇に飛び乗った。その後ろにはクリスタが、跪く民衆を鬱陶し気に踏み越えて来る。

「ゲイラ」

 ペトロネラに一瞥を投げて、アベルは途方に暮れるザイナスに肩を竦めた。

「ここまで大ごとにするなんて、流石だよザイナス」

「君が仕組んだせいだぞ、アベル」

「ゲイラ、いつの間にこんな大仕掛けを仕込んだの」

 リズベットが舞い降り、アベルを責める。

「兄さんが巻き込まれたどうするつもり」

「だから、ボクは少しだけ――」

「何、この残念王女。あたしのザイナスを放しなさいな」

 クリスタが壇上に辿り着き、顰めるアベルを押し退ける。

「ゲイラ、ヘルフまで」

 ティルダの頬から血の気が引いた。大聖堂を支配しているとはいえ、壇上に使いが四人。しかも頭上にはもう一人、否もう二人いる。それも、どうやら全員がこのザイナスに穢されていた。方便のつもりの神敵が、よもや誠に成ろうとは。

魂なきものノスフェラトゥ

 いや、僕のせい? ザイナスが呻く。

「そうともエイラ。何しろボクらは、魂なきものノスフェラトゥザイナスにむりやり純潔を奪われ貶められ虜にされた天使同盟、だからね」

 長い。いや、問題はそこではない。

「アベル、いい加減にしろ」

「何という奴だ」

 ティルダはザイナスを毛虫のように睨んで後退った。

 ザイナスを囲む皆を見渡し、当人にひときわ憎悪の目向けるや、身を翻して壇を飛び出した。もはや大聖堂の権域は破れ、ティルダの支配は弱体化している。策なしにこの数の使いを相手にするのは愚策に過ぎた。

 何より、賞牌マユス――否、ザイナスだ。あれに触れたら穢される。

「待ちなさい、エイラ――」

 リズベットが声を上げた。聖堂を埋める民衆に紛れ込むティルダを目で追う。

 大聖堂が揺れた。建物自体が積み木のように跳ね上がり、天蓋そのものが砕けて落ちた。これには護りも堪え切れず、巨大な瓦礫が降り注ぐ。

 痺れを切らした巨大な顔が欠けた天蓋から覗き込む。頬の横にいる狩人も、この眼下での様相には流石に呆れて物が言えない様子だ。

「あれはシンモラ? ヒルダまで従えていらっしゃるのね」

 身を寄せたままのペトロネラが、見上げてザイナスの腕を抓った。

「豪儀な我が君、ですが世継ぎだけは私にお任せくださいましね」

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