第35話 アルビオン
金属片と蒸気を散らし、汽車は巨体を引き起こす。ずんぐりとした鉄の半身は星の散る群青の空を大きく切り欠いた。汽車ではない。凡そで歪な人の形だ。
立ち上がる鉄の壁の下、ラーズとクリスタは、ぽかんと見上げて仰け反った。全容が見えたのは上空のリズベットだけだったが、その表情も困惑している。
「スクルドもシンモラも、洪水だってお役御免だ。次の畑打ちはこれで行こう」
アベルはひとしきり笑ったあと、ザイナスを昇降口に引き込んで扉を閉じた。四方に管の這う通路にも、先導するように赤い警告灯が灯っている。
「見たかい? 蒸気仕掛けのシンモラだ」
通路の奥を探りながらアベルが囁く。
「エステルが聞いたら怒るぞ」
呟き返しながら、ザイナスはアベルを追って通路に這い込んだ。手を拡げたほどの幅の通路は、汽車の変形で横倒しになっていた。しかも、外の御使いを追い回すせいで、大波に傾く船室のような揺れが引っ切りなしに続いている。
「ビルギットとエステルはわかる?」
「うーん、この奥。少し上の方かな」
アベルが言って先導する。ビルギットの呼ぶ
「多分、シンモラは寝てる。眠らされているのかな」
分岐を見渡し、アベルが進む。梯子に手を掛け、ザイナスを振り返った。
「ああ、わかった。フリストのやつ、シンモラをこれの動力に使っているんだ」
「そんなことが?」
こんなもの動かすのに一体どれほどの汽缶が必要だろう、とはザイナスも思っていた。よもや聖霊術の類ではなく、御使いそのものを動力にしているとは。
「フリストの得意技だ。普通そんなまどろっこしいことは考えないけどね」
わざわざ機械を使うなど、非効率も甚だしい。アベルの意見はその旨だ。だが、それは霊力の汎用化であり、一歩間違えば信仰を蔑ろにする。ビルギットの権能に留まる内はまだしも、技術の頒布は間違いなく禁忌だ。
二人は幾筋もの通路を行きつ戻りつ、アベルが不意に立ち止まった。
「この先だ」
ザイナスを振り返る。
「でも、これ以上は術でもごまかせない。たぶん、二人一緒だと気づかれる」
ザイナスは先を覗き込み、分かれた通路を指して言った。
「じゃあ、二手に分かれよう。君が囮だ」
アベルは片方の眉を顰めて見せた。
「容赦のないキミが好きだよ」
「どういたしまして」
笑って応える。
「シンモラであれフリストであれ、手に入れたら僕らの勝ちだ。さあ、行こう」
二手の通路を互いに指して、二人は別の方向に駆け出した。アベルの飛び込んだ先に笛の音が鳴る。蒸気が噴いて通路を埋めるや、破裂音がした。
『ゲイラ。外にいないと思ったら、いつの間に』
ビルギットの割れた声が通路に響いた。早速、アベルに気づいたらしい。
ザイナスも通路を駆ける。
やはり、アベルのようには動けない。不格好ながら、鉄管を掴んで這い進む。
思わぬ横揺れに身体が踊り、撥ね飛ばされないよう、しがみついた。額を打ちかけ、辛うじて堪える。目線が間隙の間近に合って、ザイナスは奥を覗き込む。
どうやら機関の連結だ。入り組んだ巨大な歯車の群れがある。多彩な形、大きさ、動き。各々が役目を持ち、力を伝え合っている。空回りする歯車にも気づいた。あれは予備か、それとも何かの不具合か。思わず見入り、見渡していた。
空回りする歯車に、軸が押し込まれて噛み合った。不意に目覚めた歯車たちが、周囲を巻き込んで動き出す。全てが順に重なり合い、一体化した。
暫し鋼のうねりに魅入られていたが、鉄箸を突ついて回るような音に気づいた。操車場で見た鉄の蜘蛛だ。泳ぐような動作で目の前を横切る。
ザイナスはいっそう息を詰め、通路を這う鉄管を目で追った。分岐の元や太さを辿る。中心方向を見て取ると、ひときわ厚い扉があった。
走り寄り、把手を捩じると相応に重い。隙間を開けて身体を滑り込ませる。
天井の高い、丸い部屋だ。床といわず壁といわずに管が這い、中央の台座に繋がっている。エステルがいた。管の繋がった厚手の帯に包まれている。
呼吸に胸が上下している。眠っているようだ。
『え? なに? 誰?』
大音量の割れた音が、遠く近くに重なって響いた。驚いて辺りを見渡すと、部屋の奥、目線よりも上方に大きな硝子の窓がある。運転台――と呼ぶには操縦桿が林立し、計器や外のあちらこちらを映した小窓に囲まれた小さな部屋だ。後ろを向いた椅子の背から、ビルギットが首を捩じって呆然としていた。
『
ザイナスを見て声を上げる。
ビルギットは背板を乗り越えるように椅子から飛び出し、硝子に張りついた。胸元に落ちた保護眼鏡が音を立て、硝子に潰れた胸が大きく競り上がる。
その一瞬が、外にいる御使いの好機になった。
ザイナスに唖然としたせいで、
ザイナスは身体を転がるに任せ、伸びた管に絡んで身体を手繰り寄せた。伝って中央の台座に辿り着き、エステルの拘束具に手を掛ける。
『だめ、止まる』
ビルギットが硝子を叩く。ザイナスは無視した。構っている余裕はなかった。
『だめだったら』
焦ったビルギットは思わず腕を振り翳した。
ザイナスは硝子の割れる音を聞き、散った破片が雹の音を立てるのを聞いた。硝子は思いのほか厚く重く鋭く尖っており、その幾つかはザイナスを擦って容易に肌を引き裂いた。何より、ビルギットの投じた白銀の一塊がザイナスの胸を圧し砕いていた。
視界がぐるりと上を向く。その隅に真っ蒼になった少女が通り過ぎる。頭の後ろで鈍い音がした。丸い天蓋を見上げると、ザイナスに痛みがやって来た。
まいったな、
後から押し寄せる痛みに意識を失い掛ける。
痛みは警報だ。警報は行動を促している。血はまだ残っている。腱もまだ繋がっている。苦痛を切り分け、ザイナスは台座に縋って身体を起こした。
割れた硝子の向こうでビルギットは慄いた。傷も血も怖くはない。人の身の脆弱さはよく知っている。だが、あの目だ。
ザイナスはエステルを繋ぐ帯に手を伸ばした。このまま外して支障はないか。訊ねようと顔を上げると、ビルギットは悲鳴を上げて後退った。
頭を抱え、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返している。
ビルギットの恐怖は知覚のせいだ。
御使いの幻視は物理の外を覗き込んだ。
あれは人も御使いも容赦なく、齧って千切って喰い尽くす。なのに自身は逃げもせず、自ら望んで身を捧げている。そんな幻にビルギットは膝から崩れた。
その背に大きな音がして、アベルが運転台に飛び込んだ。目の前を埋める操作盤とビルギットを結んだ制御管を切り払い、少女に白銀の刃を突きつけた。
ビルギットは悪夢から覚めたような顔をして、アベルにぼんやり焦点を結んだ。
「
アベルは怪訝に眉根を寄せ、ふと目を遣った掘り込みの向こうにザイナスを見つけた。息を呑む。血に塗れたまま、エステルに手を伸ばしている。何か呟く口許に目を遣るも、アベルは刺されるような痛みに目を逸らした。
アベルの声が遠くに聞こえた。留め具に血が落ち、指が滑る。意識のあるうちにエステルを解放しなければ。御柱に縋りたいのは山々だが、あいにくザイナスは奉神不在だ。気休めはせいぜい
ラーズとクリスタは手を突いて傾く
ビルギットの悲鳴は外にも鳴った。酷く割れて聞き取り難いが、潜入したザイナスたちと関係するに違いない。二人がビルギットに迫ったのは確かだ。
不意に大きく仰け反ったかと思うと、身体を割って巨大な腕が突き出した。
生身の片腕が横に裂き、宙に拳を振り上げる。拍子に素足が腹を蹴り割った。
ラーズとクリスタ、そしてリズベットが安堵したのも束の間、戸板よりも大きな鉄片が辺り一面に降り注ぐ。三人は一目散に逃げ出した。
大きな指、隙間に覗く星空。痛みを感じている限りは、まだ生きているのだろう。ザイナスはエステルの掌の中で意識を取り戻した。
血を失って冷えた身体がぼんやりと温かい。まだ血でごろごろと鳴る喉も、ゆっくりとなら息ができた。残っているのは、顔を顰める程度の痛みだ。
なるほど、エステルは治癒術にも長けている。ガンドもそうやって助けられた。
指に縋ってザイナスが起き上がると、エステルが気づいて手を開いた。間近に見おろす心配そうな大きな目に頷いて、ザイナスはありがとうと言った。
「ねえ、まだ死んだりしてないよね」
指の隙間に見おろすと、鉄塊の天辺にアベルがいた。その足許に白い作業着の少女が蹲っている。ザイナスはエステルに言って手を近づけさせた。
ザイナスを見上げてビルギットは真っ蒼になった。身を縮めて半泣きになる。アベルは平然と、そして容赦なくビルギットの髪を掴んでぶら下げていた。
「ザイナス、これは天に還そう」
「アベル」
ザイナスはアベルに首を振るとビルギットを渡すよう手を差し出した。
一瞬だけ拗ねたような顔をして、アベルはビルギットを放り出した。エステルの大きな掌には少し距離が足りず、落ちそうになって悲鳴を上げる。
ザイナスは慌ててビルギットを抱えた。
叱るように目を遣ると、アベルはそっぽを向いている。意外と子供っぽい。いや、外見は歳相応だろうか。ザイナスは息を吐いてビルギットを覗き込んだ。
「
竦んで慌てる。目線が盛大に泳いだ。無理やり拾い上げた子兎のようだ。
「ザイナスだ」
ビルギットに恨みはないのだが――いや、彼女はエステルを拐ったし、自分は怪我もした。これくらいの仕返しは構わないだろう、と勝手に思い直した。ビルギットの身体を抱えて起こし、真っ白な喉を星空に晒す。
喰い殺される。ビルギットは幻視の続きに身を竦めた。否応なく間近にザイナスの目を覗き込み、その黒い瞳に恐慌を吸われた。ようやく思考を取り戻す。
「あ、わかった、わかったかも」
ビルギットは思わず声を上げた。こうして触れる相手なら、人と同じ行為ができる。この身を穢して魂刈りの資格を奪う気だ。喰い齧られる幻はその予兆に違いない。ビルギットはようやく気がついた。気づいた途端、また恐慌を来した。
「だめ、だめ、ちょっと待って」
頬が真っ赤に茹で上がる。逃れようにも震えるだけで、身体が竦んで動かない。思えばこうして抱える腕も、頬に触れる指先も経験したことがなかった。
「お願い、待――」
聳え立つエステルの肩に舞い降りたリズベットは、エステルの興味深げな目線の先のを見て呻いた。どちらを殴って引き剥がそうか。それとも、こうなる前にビルギットを天に還さなかったアベルを先に殴るべきだろうか。
「兄さん、長い」
リズベットは堪らず真っ赤になって、噛みつくようにザイナスに叫んだ。
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