第26話 作戦
シムリス中央の夜は明暗が際立っていた。街の中心は灯が落ちるものの、荷受け荷出しの倉庫の通りは、昼間と何ら変わりがない。ただし特区の倉庫街となれば、歩いているのは衛兵だけだ。許可がなければ拘束される。
そも、特区は縁で封されている。明けても誰何の検問がある。外への行き来は少ないものの、燈の煌々と漏れ出た倉庫は幾つもあった。
クリスタの居城もそうした不夜城のひとつだ。
「ご覧よ、仕事の好きな輩ばかりだ」
楽しそうにアベルが囁く。リズベットに手を引かれたエステルは眠そうだ。
夜空に突き立つ灰色の壁際で、ザイナスは小さく息を吐いた。倉庫街の警戒ぶりが、思いの外に大仰だった。問われたら面倒なことになっていただろう。
「今更だよ、ザイナス。心配しなくたって、見つからない」
アベルの隠蔽術は万全だ。此処がクリスタの権域であれ、
「信用してる」
ザイナスの憂鬱は地上の法だが、御使いの無頓着は仕方もない。彼と彼女らには不法侵入など些細な問題だ。だが、ザイナスには色々と後がない。
犯罪には贖罪が伴う。裁くのは市政と教会だ。ザイナスは人民の法と神の名の下に裁かれる。とはいえ御柱と御使いは居らず、あくまで人の範疇だ。
その中で、法と教理は検察と弁護に近い関係にある。勿論、立場は状況で変わるが、教会の審判がより重きを持つのは、人より御柱の立場が強いからだ。
「安心しなよ、使いのボクが保証する」
とはいえ身近の御使いも、決してザイナスの弁護には立てない。
犯人は己が御柱への奉仕で徳を積み、罪を償う。重刑は危険を伴うし、極刑は審判を御柱に委ねる。だが、無信心の例はない。奉仕房にもザイナスの行き場はない。
「なら、さっさと行こうじゃないか」
アベルはそう言ってザイナスを促した。会話は終始、ずれたままだ。
クリスタの倉庫は、ほぼ開口のない垂直の壁で囲われていた。周囲の建屋に比べても、ひときわ高い。しかも大きい。耳を澄ませば、思いの外に騒々しかった。炉や加工場もあるらしく、倉庫の上だけ星空が蒸気に撓んでいる。
監視鏡などの有無を確かめ、皆は壁に身を潜めて待機位置を再確認した。
「この街にいるのはヘルフだけか?」
不意にラーズがアベルに囁いた。隠れ家を出て街を横切るその途中から、彼女は妙に辺りを気にしていた。ガンドなら耳を欹てていたことだろう。アベルは器用に片方の眉を顰め、意見を求めてリズベットに目を遣った。
スクルドとシグルーンは統率の権能を有している。御使いの内でも他の神気に敏感だ。それを思えば、ザイナスを他の御使いから遠ざけるのに向いている。
「そうね、他に一人か二人。誰かまでは、わからないけれど」
気が進まない様子でリズベットは答えた。
「そんなに?」
地上に顕現した御使いの半数がシムリスに集結している事になる。
「心配ないわ。遠いから」
ザイナスに目を遣り、リズベットは頷いた。
「向こう、か。やはり駅の方だな」
顎先を振ってラーズが確かめる。リズベットのそれとは別に、彼女の感覚は狩人の権域に属するものだ。獲物や敵に対して敏くなるらしい。
「この街も出入りは多いからね。こればかりは、人を使って調べてもわからない」
仕方がないね、とアベルは吐息を漏らした。
「日を改める?」
リズベットの提案にアベルが唸る。
「先延ばしにする方が拙いかな」
ラーズが手を挙げた。
「なら、オレが行ってこよう」
アベルは戦力差を勘案し、まだ優位は揺るがないと判断した。
「事が済むまで近づけないで貰えるかな」
ラーズに向かって頷いた。
「何なら――」
「確認と警戒だけだ」
遣り取りを遮り、ザイナスはラーズに釘を刺した。取り返しのつかない判断は後にしたい。ラーズは渋々といった表情だが、ザイナスに逆らう気もないらしい。
「これは皆でする狩りだ。勝手に獲物に手を出さないように」
ザイナスの言い回しに苦笑しつつ、ラーズは不意に頬を摺り寄せた。
「了解した」
にやりと笑って言い残すと、ラーズは音もなく夜陰に紛れた。まるでザイナスの従者を気取っている。気配の消えた暗がりを眺めてザイナスは微笑んだ。ふと、背中を走る怖気に振り向けば、リズベットが半眼で睨んでいる。
「兄さん、どうやってあれを手懐けたの」
訊かれるのは何度目か。ザイナスも唇以外に浅ましいことをした覚えはない。
「生物的に有利だと思って調子に乗っているんだよ、あれは」
アベルが口を挟んだ。遠回しの口調には、そこはかとない棘も感じられる。
此処には妹と子供と男しかおらず、ザイナスに対する妙齢の競合相手が不在だ。いわばラーズの寡占状態にある。アベルはそう言いたいのだろう。
「まあ、今のうちだけどね」
エステルがザイナスの袖を引いた。
「大きくなる?」
わかっているのか、いないのか。きょとん、と無邪気な表情はザイナスにも良く読み解けない。案外、異界に隠れた大きな彼女の差し金かも知れないが。
「エステルは、そのままでいて」
ザイナスは縋るようにそう答えた。
◇
クリスタの居城への潜入は、何気に通用口から大手を振って入った。隠蔽施術の賜物だ。まるで周囲を意にも介さず、アベルとザイナスは連れ立って歩く。
リズベットとエステルは屋外に待機だ。魂刈りの資格がないせいで、他の御使いには感知され難い。とはいえ、隠蔽なしに近づくのはそれが限界だ。
中は倉庫というより、工場のようだ。縦にも横にも呆れるほど広く、要所で煌々と燈が点っている。絶えず、何がしかの作業が行われている様子だ。
幾つも大きな釜が焚かれており、発動機の音がわんわんと満ちている。頻繁の蒸気抜きが笛の音を立て、おかげで高い天井が白く霞んでいた。結露を樋に吹き落としていなければ、雨でも降って来そうな勢いだ。
ただ、工場風だというだけで、あるのは製造機ではならしい。見目に奇怪な代物が試験や実演を繰り広げている。それらの駆動や調整の動力だ。
見るも厳つい多脚の戦車、見たこともない工作機械、火を吹く猿の彫像や表情豊かな竜の頭。愚にもつかない、という言葉をザイナスは飲み込んだ。
「こんなものが商売になるなんて、目の付け所が違うな」
辛うじて前向きなザイナスの意見に、呆れたアベルが振り返る。
「売れ残りじゃないかな」
そうした品々を整備する職員は、思いの外に多かった。アベルはその中を平然と歩いて行く。不安ながらも、ザイナスもついて歩いた。念のため、ザイナスは職員の作業衣を身につけている。予めアベルが手に入れたものだ。
とはいえ、面と向かって誰何されれば、ザイナスも誤魔化しようがない。
アベルの施術は姿を消さない。特定外の相手の意識を逸らす作用だ。よほどガンドに追い回されたのが痛かったのだろう。これは獣にも通じる方法らしい。単に気配を消すだけならば、ラーズの方が上手との事だ。
二人は異様な博物館、あるいは下手物を集めた遊園地を潜り抜けた。暫く歩いて端に突き当たったかと思いきや、どうやら倉庫を隔てる壁のようだった。
中ほどに扉があり、在室中と書き殴られた札が掛かっていた。
ふん、とアベルは鼻を鳴らした。
「これは良かった、営業時間のようだ」
いよいよだ、との思いが顔に出たのか、ザイナスを見てアベルが笑う。
「心配しなくていい。例え最悪の事態になったって、ヘルフはキミの魂を砕きはしないだろう。そんなの、スヴァールにやるよりもったいないからね」
確か、それは前にも聞いた。
「魂を砕くって、どういう意味だ」
教会の教えるところ、魂は
今さらそれを訊くのか、とアベルは肩を竦めて見せた。
「だって、すべての魂が天に還る訳じゃないよ。不要なら遺棄される。ボクらにはその権限があるからね。スヴァールの
ザイナスは呆然と見返した。
流石にアベルも気不味くなって、まあ人に言う話ではないね、と言葉を濁した。
確かに人の知るべき話ではない。人にはその真偽も確かめられない。あるいは知って教会は、それを黙っているのだろうか。来世の約束は信仰の要だ。それが確実でないのなら、詐欺以外のなにものでもない。
「聞かなかったことにする」
思い直してザイナスは呟いた。それが無信心者の僻みだと気づいたからだ。
来世を信じて死ねるなら、人はそれだけ儲けものだ。きっと、それが信仰の特典なのだろう。死んだ後の事実など、気に病む事さえ意味がない。
「さて、キミはここで待っていて貰おうかな」
アベルが扉を眺めて言った。
「人がいるけど、術は大丈夫かな」
ザイナスが訊ねると、アベルはうーん、と唸った。扉の周りを見渡し、指を差す。
「念のためだ。あれの中にでも隠れていて」
ザイナスは扉の手前の大きな真鍮の像に目を遣った。大仰な台座に立つそれは、胴体に扉がついており、ザイナスひとりなら中に隠れられそうだ。
「故事に曰く、木馬の中に身を潜めて敵地に潜入し、城門を解放したそうだよ」
アベルのいい加減な蘊蓄にザイナスは口許を顰めた。
「馬じゃなくて牛だろ、これ」
だいたい、御使いの故事っていつの話だ。
「大丈夫、大丈夫。ささ、言う通りにしてよ」
そう言ってアベルはザイナスを像の影に押し遣った。術は今のところ効果を維持しているが、交渉が長引く可能性もある。身を隠すなら今のうちだ。
見れば倉庫の職員が彫像の周囲で作業を始めようとしている。扉の近くで身を隠せそうな場所は他になさそうだ。ザイナスは背中を押すアベルを振り返った。
「楽しんでないか? アベル」
きょとん、とザイナスを見つめ返し、アベルはぱっと破顔した。
「楽しいとも、こんなの生まれて初めてさ」
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