第23話 義妹の戦争
ザイナスは混乱した。エステルが
目の前にいるのは、拙く御湿も替えた妹だ。それが、埃を払った聖像の御使いとは。今まで幾多の災厄に遭ったが、これほど表情に困るのは初めてだ。
「逃げて兄さん、その子は危険よ」
リズベットが叫んだ。
「逃げろザイナス、あれは悪い奴だ」
エステルが咄嗟にザイナスの腕を掴んで無造作に花壇に放り投げた。頭から植え込みに突っ込んだザイナスは、空が青いな、などと現実から逃避した。
「兄さん」
慌てて駆け寄るリズベットの目の前にエステルが飛び出した。両手を広げる。
「帰れ、来るな」
エステルが植え込みの低木を掴んでリズベットに投げ付けた。根が縁石を弾き出し、ひと抱えもある土の塊ごと飛んで行く。
笛の音のように風を切る土色の軌跡を、リズベットは軽々と跳んで躱した。地に足先が着く前に、指先から白銀の光条を放つ。エステルが一振りで払い落すと、それは弾けて霧散した。垣間見えたのは白銀の羽根だ。
教会通りの参拝者や通行人らが、何事かと聖堂の前庭を覗き込む。リズベットは遅れて降り掛かる土塊に顔を顰めた。エステルに向かって駆ける。
我に返ったザイナスが、慌てて植え込みから顔を出した。前庭を駆け跳ぶ二人を目で追い、声を掛けようとして立ち竦む。鋭角の突風が頬を掠めた。
ザイナスの背にある樹の大枝が、石塀の鉄柵まで切り飛んだ。
アベルとクリスタの攻防を思い出した。人の身には命が幾つあっても足りない。
リズベットは風を足場に走り、盾にしている。常人を越えた身のこなし、無詠唱の奇跡。そも、我が妹はこれほども人間離れしていただろうか。
していたかも。
「あー」
そんな小さな子と殴り合うなんて大人げない。リズベットに言い掛けようとして、そも御使いが相争うことが大人げないのでは、と思い直した。
もちろん、そんな場合ではない。
「シンモラ、兄さんに近づくな」
「兄さん違う、あれはザイナス」
エステルは自分より大きな飾り柱を殴り壊し、転げた塊を枕のように軽々と抱えて投げつけた。だが、リズベットの腕のひと振りで石塊は大きく横に逸れ、聖堂の壁に破裂する。砕けた石片が辺りに跳ね飛び、植え込みを簾に引き裂いた。
「――やめなさい、二人とも」
ザイナスの静止は知らず小声になった。あまりの面倒に腰が引けている。
「ザイナスは私の兄さんだ」
「オマエのと違う、渡さない」
ザイナスは頭を抱えた。
ふと、破砕と暴風に混じる悲鳴に気づいて振り返る。通りから野次馬が覗き込み、跳ねる石に追われて逃げ散った。聖堂の扉に覗いた顔が、身に迫る危険に慌てて閉じる。とたんに石柱が飛び込んで、木っ端微塵に吹き飛んだ。
争う当人は可憐だが、辺りの有様がそれ処ではない。既に人がどうこうできる状況ではなかった。見渡せば、守護兵までもが逃げて行く。聖堂の守護を越えた怪異だ。ただ、中心にいるのがその御使いだとは、思ってもいないだろう。
そろりと後退るザイナス頭上を、石塊が飛び越えた。正門の柱が欠け落ちる。
リズベットが掌を掲げ、風を自在に踊らせる。まるで指先と繋がっているようだ。地面が爆ぜ上がり、石畳が巨大な歯のようにエステルを咥え込んだ。
犬が雨水を払うようにエステルがぶるると身震いするや、石塊が四方に弾け飛んだ。壁に地面に植栽に、破裂した石の破片が大穴を開ける。辺りは土と鉄と裂いた生木の匂いが立ち込め、白い塵埃が霧のように舞った。
遂に天井も崩れたのか、聖堂に逃げ込んだ人々が脇の扉からわらわらと逃げ出して行く。信心も建屋も守ってはくれない。確かに、逃げる他にないだろう。
この状況を目の当たりにしても、ザイナスには信じ難い。だが、リズベットがスクルドならば、
とはいえ、エステルも災害と呼べるほどの怪力だ。身体も強靭な護りに覆われている。むしろ、物理的な破壊力はエステルの方が遥かに高い。
ザイナスの足許が不意に翳った。
降り注ぐ石片に手を翳しつつ、振り返れば足が――巨大な足の指がある。見上げて目が届かない。恐らくエステルの身の丈は、聖堂の屋根を越えていた。
不意の突風はエステルが僅かに身を屈めたせいか。辺りを土埃で真っ白にしながら、飛ばされたザイナスの身体を巨大な掌が鷲掴みにした。そのまま空高く持ち上げたかと思うとエステルは街に向かって歩き出した。
「兄さんを返せ」
耳鳴りの向こうに声がする。ザイナスは口から腸が飛び出さないよう堪えるので精一杯だった。遠退く意識を切り替えつつも、辺りがまるで窺えない。
ザイナスの遥か眼下では、通りの建屋がひと蹴りで崩れ、一歩で路面が割れて抉れた。街の街灯は雑草ほどに呆気なく脆く、根元から簡単に折れ曲がる。
エステルが腕を振り回すたび、ザイナスの身体はあらぬ方向に圧し潰れた。どの建物よりも高い位置で、ぐるぐると目を回している。
白銀の一閃がエステルを掠め飛んだ。リズベットだ。背には大きな翼がある。追い払おうと腕を振るエステルを巧みに躱し、礫を飛ばして追い立てる。
教会通りの一画は、前代未聞の天災によって瞬く間にも瓦礫と化した。
幸い人々の大半は逃げ散ったが、巨人の歩く通りに沿って建屋は悉く倒壊した。地上に雷雲が降りて来たように、屋根を越える土埃が街をまるごと濛々と覆っている。渦巻く黒い土煙の中には、倒壊の雷鳴が響いていた。
巨人のエステルのみならず、輪を掛けた被害は周囲を舞うリズベットによるものだ。エステルが腕を振り、足を踏み下ろしてリズベットを追うたび、建屋が破裂し、石片、木片、逃げ遅れた人や馬まで跳ね散らしている。
ザイナスには、まだ辛うじて意識があった。とはいえ、身体は動かない。二人に呼び掛け収拾を図ろうにも、声を出すどころか呼吸さえ儘ならない。
説得の手段がない以上、ザイナスには祈る神も頼る奇跡も存在しない。手遊びの呪いが効くのであれば、
巨大な身体がつんのめり、石敷きの馬車道どころか埋設の導管すら掘り起こした。巨木もかくやと建屋に伏して、突風と土埃が辺りを埋める。翼の凍ったリズベットは思うように避け切れず、エステルの腕を掠めた。
「あ」
エステルの指先からザイナスが放り出された。
刹那、建屋の屋根から人影が横跳びに宙を駆け、ザイナスの身体を掠め取った。向かいの壁を蹴って勢いを殺すが、そのまま、ひと塊になって落ちる。地面に潰れる寸前に、走り寄ったもうひと影が危ういところを受け止めた。
「オレのザイナスをむざむざスヴァールに贈る気か」
「まだキミのものでもないだろ」
我に返ったリズベットが真っ青になって舞い降りる。翼を消して駆け寄りながら、ザイナスを支える二人を見遣って目を剥いた。
「ヒルド? ゲイラ?」
呆れたような半目になって、アベルはリズベットに目線を投げた。
「スクルド、キミ何だってザイナスを兄さんなんて呼んでるの?」
動揺の重なるリズベットが返答に詰まるうち、小さくなったエステルが素っ裸で塵埃から駆け出した。真っ直ぐザイナスに駆けて来る。
「ザイナス、死んだ」
思わず身構える二人を意にも介さず、エステルはザイナスに飛びついた。
「まだ死んでない。それよりシンモラ、服はどうした」
流石のラーズも眉を顰める。
「ええと、まずは落ち着いて。喧嘩も話し合いも後にしよう」
間合いを外した呑気なザイナスの声がした。まだ少し朦朧とした様子で息を吐く。こめかみを押さえた手を伸ばし、脚にしがみつくエステルの髪を撫でた。
もう、とリズベットが口を尖らせ、上着を脱いでエステルに掛けた。
「頭が冷えたな、何よりだ」
ザイナスを抱えたまま、ラーズは器用に肩を竦めた。
「よく見なよスクルド、ボクらは穢れた。もう魂刈りの資格はない」
アベルが大仰な溜息を吐く。何を馬鹿な、とリズベットは睨んで噛みついた。
「冗談は――」
言葉に詰まる。アベルの、ラーズの、そして改めてエステルを見渡して、リズベットは呆然とした。確かに御使いの徴が弱い。思えば先の教会でも、間近に確かめるまでシンモラを認識できなかった。そも、
「でもさ、キミもシンモラも同じだよね」
アベルが訝し気に目を細める。ひい、とリズベットは息を呑んだ。
「あなたたちこそ、どうやって。人に触れもしないのに?」
言葉の端を食い気味に、リズベットは焦って問い返す。アベルはきょとんとリズベットを見つめ、ザイナス越しにラーズと意味ありげな目線を交わした。
未だ調子は覚束ないが、ザイナスにも不穏な流れは感じて取れた。先を見越した思索の一部がザイナスに警告を送って寄越す。額に嫌な汗か出た。
「こいつに奪われた」
ラーズは笑ってそう言うと、ザイナスに意地の悪い目線を投げる。
「無理やりな」
笛の音のような音を立て、リズベットが息を吸い込んだ。
「いい加減なことを言わないで」
血の気の失せたリズベットを眺め、はにかむようにアベルが囁く。
「彼、見掛けによらず強引だったな」
「何を言ってるの、ゲイラあなた、どう見ても男――」
アベルは不意に耳元まで口が裂けたような笑みを浮かべ、リズベットに身を乗り出した。これ見よがしにザイナスの肩に腕を回して引き寄せた。
「まさか、ザイナス」
責める目線はザイナスに、言葉はリズベットに投げ掛ける。
「ねえ、ザイナス。キミは男のボクだけじゃなく、子供や妹にも手を出したのか」
考えろ、ザイナス。
卒倒しそうなリズベットを前に、ザイナスは自身を鼓舞した。返答を間違えてはならない。事実と真実の順を取り違えてはならない。正解は少ない。あるいは、無い。それでもリズベットの思考を辿り、最善を探さなければ。
御使いから魂刈りの資格を奪えるのはザイナスだけだ。今となっては、リズベットもそう気づいているに違いない。ならば、ザイナス自身が身を守る方法はひとつだけだ。落ち着いて、冷静に考えればわかる筈だ。
リズベットは悶々とした思案の中で蒼褪めている。ヒルドは、わかる。わかりたくはないが。無理やりに、ならヒルドからだ。それならわかる。いや、わかりたくない。しかし、残りの二人は駄目だ。倫理的に、妹より駄目だ。
艶やかに嗤うアベルと、きょとんとあどけない顔のエステルを見比べる。リズベットの身体中から嫌な汗が噴いている。ザイナスに限って、そんな筈は。
「リズベット、そもそも口づけは挨拶みたいなもので――」
ようやく思いついた言い分も聞かず、リズベットはザイナスを張り飛ばした。
「兄さんの変態ッ」
ラーズもアベルもエステルも、しれっとザイナスから手を離し、その身体がもんどりを打って瓦礫に転がり込むのを黙って見送った。
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