6章 義妹大戦

第21話 義妹の逃走

 目覚めると、茜色をした空の上だった。此処が件の魂の選別場ニヴルヘイムだろうか。教会の説話では、白い霧に覆われた世界という話なのだが。

 ザイナスは空をぼんやり眺め、ひらひらと舞う羽根を目で追った。夕暮れに翳って風に乗るそれらは、どうやら乱暴に引き毟られたせいで縮れている。

 身体を起こして見渡せば、辺りは狭く平らな岩場の上だ。四方の縁は、すとんとそのまま空に抜け、遥か遠くの稜線の向こうに陽が落ちそうになっている。槍先のように削ぎ落とされた、恐ろしく狭い頂の上だ。

 羽根が鼻先を横切った。エステルが鳶の羽根を毟っている。素っ裸だ。

 なるほど、魂の選別場ニヴルヘイムよりも奇異な状況だった。頭痛にも似た困惑に、ザイナスは顔を顰めた。気づいて、エステルが顔を上げる。

「食べる」

 にかっと笑って丸裸にした鳶を突き出した。

「生はだめ。お腹を壊すから」

 答えたものの、そんな場合ではない。

「ここは何処?」

「んー」

 よくわからないらしい。

「服は?」

「大きくなると、なくなる」

 こう、ばーんって、とエステルは手を振って見せる。状況を整理するというより、馬鹿げた仮説に逃げ道がないと確認するのに一拍を要した。

「エステルはシンモラ?」

「ん」

 素直に頷いた。

 巨神ギガンタの御使いの名だ。アベルとラーズもそう呼んでいた。エステルの事だったのだ。心の中で留保していたものの、ザイナスも考えなかった訳ではない。勿論、巨人になるなど想像もしていなかった。

 アベルとラーズはどうなったのだろう。

「あれは駄目。ザイナスを連れて行くから」

 エステルに問うと、そう返された。

 あー、うん。確かに、シンモラにとってはそうだろう。御使いは互いに賞牌マユスを巡って競い合っている。だが、エステルの立ち位置がよくわからない。

 ザイナスの賞牌マユスには気づいている筈だ。だが、いつから? エステルに魂を刈る素振りはなく、何より鳶色の瞳には螺鈿の黄金色もない。

 いや、微かに見た記憶もある。すぐに消えてしまったが。

 さっぱり訳がわからない。アベルはそれを見立てと言ったが、資格がが御使いの認識に左右されるものなら、その線引きが想像できない。

 言いたいこと、聞きたいことは幾つもあった。とはいえ、優先順位は別だ。

 ザイナスは上着を脱いでエステルに着せた。袖を通すため丸裸の鳶を取り上げる。もちろん、空腹を放置することもできないが、此処では調理も難しそうだ。

 ザイナスが狭い頂の上を歩いて回る。エステルも何かと後ろをついて回った。

 辺り一帯は深い森だ。此処と同様、突き出た裸の岩山が幾つか周囲に突き出している。遠くに森の境界が窺えるものの、じきに夕闇に覆われるだろう。

 何より――。

 ザイナスは岩場の縁から下を覗き込んだ。下りる足場がない。削ぎ落したように真っ直ぐ突き立っている。空でも飛べない限り、誰も行き来できないだろう。

 あの巨人の他には。

 エステルが横から覗き込み、遥か樹々の先端を見おろした。

「おりる?」

「そうだな、とりあえず風邪を引く前に何とかしないと」

「わかった」

 エステルが飛び降りた。止める間もなかった。

 ザイナスは声より先に手を伸ばしたが、身を乗り出しても届かない。転落の寸前で辛うじて堪えて、落ちて行くエステルを目で追った。

 遠近がおかしい。風に煽られた黄金色の髪が空の只中で止まって見える。

 いや、みるみる近づいて来た。距離の問題ではない。エステルが大きくなっている。ザイナスの上着が膨れて張り裂け、小さな布切れになって風に散った。

 巨大化したエステルが遥か眼下に大木を踏み折る。目線は崖の縁にしがみつくザイナスにまで届いた。いつの間にやら身体には、風を形にしたような白いドレープが掛かっている。袖のない修道衣だ。空と同じ茜色に染まっていた。

「大きくなりました、ザイナス」

 轟々と風が鳴る。身の丈よりも大きな顔がザイナスを覗き込んだ。自身が映る翠の瞳は、頭よりも大きい。遅れて遥か眼下の樹々が圧し折れる音がした。

「下に降りますか?」

 呆気に取られているうちに、言葉の理解が遅れてしまった。

「エステル、何というか――」

 流暢だ。

「私、大きすぎるから。色々と向こうに置いて来てしまっているのです」

 ザイナスの表情を察し、はにかむように微笑んだ。

 なるほど、せめて子供服くらいは持ってくるべきだったな。などと、余計な感想を脇に寄せる。仕組みも愚痴も後回にして、ザイナスはエステルに訊ねた。

「どれくらい、そのままでいられる?」

「少しだけ」

 答えを聞いて読み解くに、恐らく三分ほどらしい。案外、不便なものだ。

「お腹も空いてしまいます」

 エステルは悲し気に呟いた。言葉遣いもそうだが、普段の見掛けよりは大人びて見える。頭身も大人ほどあるようだ。だが、エステルはエステルだ。

「一旦、下に。陽が落ちたら、また大きくなって森の外に出よう」

 ザイナスが言うと、エステルは頷いた。

「たぶん、街はあっち――」

 エステルが傍に手を寄せただけで、ザイナスは吹き飛ばされそうになった。

 掌に乗れというのだろう。おそるおそる指を踏み掛け、置き去りにされた丸裸の鳶を拾って乗った。食事の支度も此処よりは、下の方が融通も利く。

 落とさないようにと指で囲われ、勢いザイナスは窪んだ掌にひっくり返った。不意に身体の血の気が登る。移動に便利と思いきや、乗り心地には要注意だ。

 揺れながら、ザイナスは束の間に思案する。

 アベルもラーズも踏み潰されるほど鈍重ではない。むしろ、すぐにでも追いつくだろう。決して二人も無害ではないが、放置しても当面の危険はない。

 後でエステルにも言い聞かせねば。

 人と御使いの両方がザイナスを追っている。その状況は変わらない。このまま逃げるにせよ、対策を講じるにせよ、知識と手勢はいくらあっても足りない。

 ともかく、身支度と食事を考えてから、エステルとゆっくり話をしよう。手の中で揺れる丸裸の鳶を眺めながら、ザイナスは毟られた羽根に思いを馳せた。

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