第7話 就業
掲げた書類が濡れないように、身体を捻って扉を潜った。そそくさと部屋を横切って、並ぶ紙置きに書簡を配る。手元を空にしたザイナスは、そこでようやくひと息吐いた。ざばざばと濡れた髪を掻き揚げ、指に付いた花弁を眺める。
書類を繰る手を止めて、オルガは自意識過剰の配膳係のようなザイナスを呆然と眺めていた。その前髪から落ちる雫に顔を顰める。
また何かあったのか。オルガの目線がザイナスに問うていた。
「花瓶が、たまたま」
棚の花瓶の座りが悪く、ザイナスの頭に降って来たのだ。どうにか避けはしたものの、抱えた書簡を優先して守った。幸い、花瓶も頭も割れてはいない。
「たまたま、か」
例えスルーズが傍にいようと、ザイナスはやたらと災難に遭う。ザイナスだけが災難に遭うのだ。彼の自認する厄憑きには、御使いの加護も関係なかった。
「何なのだろうな、それは」
オルガは呆れて席を立ち、ザイナスの傍に寄った。とはいえ最大の災難は、オルガにその魂を刈られる現状なのだろう。何気に濡れた前髪を梳き上げる。
「執政官?」
額に手を翳したままオルガが動かない。ザイナスが怪訝な目を遣った。
「――いや、何でもない」
オルガはくしゃくしゃとザイナスの髪を掻き回し、何か言おうとして口籠った。その手を見つめて立ち尽くし、かと思えば逃げ出すように執務机に歩いて行く。
ザイナスはきょとんと背中を見送った。窓に映った表情もよくわからない。
ザイナスが拘束されてから、もう数日が経っていた。
オルガに槍を突き立てられたこの部屋は、みるみる書簡と書類に埋もれた。
此処でのオルガの一日は、ほとんどが会議と決済に追われていた。
処刑待ちの受刑者に等しいザイナスだが、つい手伝うと口走った手前、書類整理や各部屋の連絡など、良いように使われている。むしろ、所構わずの災難さえなければ、ザイナスはオルガを始め執政職員に重宝されていた。
オルガにしてみれば、ザイナスを目の届くところに置く意味もあった。一方、ザイナスは彼女の傍で魂刈りを回避する足掛かりを探っている。
生来の人の好さも多少はあったが、ザイナスは早々に逃走を諦めた。逃げたところで、逃げ切れない。どうやら、根本的な解決が立ち行かない。
何より、オルガとは絶望的に立ち位置が違う。御柱に召されるのは光栄な事だ。その感覚がある限り、ザイナスの延命は彼女に届かない。
ホーカソン司祭に宣告された奉神不在を打ち明けたが、ならば
ふと、執務机の向こうからザイナスを窺う視線に気がついた。オルガのそうした仕草は頓に多い。ザイナスに仕事を振りたいか、あるいは仕事に飽きたかだ。
ザイナスの席は傍の小卓だ。オルガの執務机まで、遠慮なく椅子を引いた。
「お困りですか?」
机上の小箱は未整理の書簡で一杯だった。
「困ってなどいない」
オルガはぶすりと応えるが、机上を見渡すザイナスを咎めようともしなかった。
撒かれた書類の紙面はいずれも諍いの火種だ。市政と王党派の衝突に尽きる。オルガに言わせれば、調子に乗った貴族連中の嫌がらせだ。
厄介なのは、市民が王党派を支持していることにある。王都の貧富を埋めるオルガの政策は、あらぬ流言を交えて不平等の誹りを受けているらしい。
問題は、それが武力抗争にまで至っていることだ。
オルガが国軍を率いていたのは、どうやらザイナス捕獲のためだけでなく、同行した職員の警護も兼ねているらしい。それほど、状況は危ういという。
書簡を眺めるザイナスを盗み見し、オルガは自身に手に目を遣った。
「何だって、御使いがわざわざ世俗の争いに?」
ザイナスの問いにびくり、と振り返る。
「我が御柱は人の護り手だ。今は私も人の身だが、神格は守らねばならん」
答えるも、
「君、また私を面倒な使いだと思っただろう」
見抜かれている。
「人が人が治めるのは道理だが、道筋は必要だ。民の世話は大変なんだ」
傍目に威圧的で隙のないオルガも、二人きりだと饒舌だった。彼女を御使いの現身と知っているのは、どうやらここではザイナスだけらしい。
彼女にしてみれば、
「まあ、御使いがやることではないですね」
「君は不敬だな」
オルガにしても、この場で秘密を共有しているのはザイナスだけだ。遠慮なく振る舞う機会とばかりに、溜め込んだものが漏れ出している。
「だが、確かに割には合わん」
単なる愚痴だ。
「当たり前です。視座が違う」
どうせ何を言っても魂を刈られるのだから、とザイナスも口に遠慮がなかった。
「視点が違えば見え方は違いますが、視座が違えば在り方が違う。御使いの視座で人の為政者をやっても不興を買うだけですよ。人の支配は人の仕事だ」
むう、とオルガが口籠る。
「不敬なうえに賢しいぞ。その歳で悟った風な口を利くな」
ザイナスは肩を竦めて見せた。
「これでも教会育ちです、信心はありませんが説教は得意でした」
「
オルガが拗ねて口を尖らせた。
「君はその、もう少し優しいかと思っていたぞ」
それはよくある誤解のひとつだ。
「僕は身の程を知っているので、目の前で困っていたら手を貸しますが、わざわざ街の向こうまで行って助けたりはしません」
「私は目の前で困っているが?」
「困ってないって、言ったじゃないですか」
ああ言えばこう言う、とオルガは気泡が弾けるようにぷちぷちとこぼした。
「そう言えば――」
無邪気に微笑んでザイナスが告げる。
「執政官って『鋼の女』だったんですね、そう言ってくれたら思い出せたのに」
執政職員と話をするうち、そうした名前を耳にしたと告げる。遠い都会のことだから、と最初は繋がらなかったが、王国の政務尚書、オルガ・リンデロートのその二つ名はザイナスも時事報の掲示板で見たことがあった。
「そらみろ、君のいた田舎でもちゃんと名が売れている」
オルガが重ねて口を尖らせる。
「だが、二度と私をそう呼ぶな。その名は嫌いだ」
齢はザイナスより十ほども上だが、ときにオルガは子供のような顔をした。螺鈿のように色を変える黄金の瞳は少女のように愛らしくもある。
ただ、その色を何処かで見た気がする。
「それと、私を懐柔しようなどとは考えるなよ」
不意にオルガが目を逸らした。目尻を染めてザイナスを睨む。瞳の色を思案して、じっと覗き込んだのが気に障ったのだろう。ザイナスは素直に謝罪した。
「まったく、君は」
そんなのだから、兄さんは。
何故か脳裏のリズベットまでが、ザイナスをそう非難した。
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