第6話 先生の家③

 大人の女性だからという訳でもない。大人の女性は周りにいくらでもいた。

 美人の国語の先生もいたし、音楽の艶やかな女教師もいた。けれど私はそんな先生たちに興味は向かなかった。

 誰よりも堅物、真面目、冷たい石のような横顔、そして、色気がないなどと様々な陰口を叩かれる森園先生が好きだった。先生の英語の綺麗な発音が好きだった。眼鏡の奥の透き通るような瞳が誰よりも好きだった。

 容姿だけではなく、先生の真っ直ぐな感じが好きだった。

どの先生よりも教師としての気品を感じた。 

 あの頃の私にとって、森園先生は私の青春の憧れそのものだったのだ。

 

 先生に対する激しい感情が込み上げた瞬間、内に秘めた想いが暴発した。現実が見えなくなった。

あるのは「先生が好きだ」という単一的な感情だった。私の思いを先生に知って欲しい。私の勝手かつ一方的な感情だった。そんな心が相手に受け入られるはずもない。

 あの時、唯一憶えているのは「先生!」と叫んだ自分の声だ。

 気がつくと、

 先生の切れるような声が狭い部屋に響いていた。

「北原くん、やめなさいっ」

 それは教師が生徒を戒める激しい口調だった。

 あろうことか、私は先生に覆い被さろうとしていたのだ。

 先生は私を強く押し退けると、すぐに脚を閉じ、乱れた服を整え、スカートの裾を引き下げた。用意したお茶が足元に零れていた。

 部屋の中で、息を荒くした先生と私の心臓の鼓動が重なっていた。


「北原くん、一体どうしたのよ」

 先生の哀しそうな顔と声に私は正気に返った。

 ああっ、何てことをしてしまったんだ!

 私は叫びそうだった。

 私は感情の赴くままに先生を押し倒して、それ以上の行為に及ぼうとしていたのだ。言葉よりも行為が先に立つ不器用な年齢だったが、私のしたことは許される事ではなかった。

「先生、ごめんなさい!」

 そう言ったはずの私の声は声にならなかった。あまりの感情の乱高下に心の整理がつかなかった。

 畳にこぼれたお茶の上に巻きかけの包帯が広がっていた。


 我に返った私は勢いよく先生の家を飛び出した。お礼を言う間も何もない。自分の恥部を見られたようで恥ずかしく、とにかくその場から逃げたかった。

 私の人生に於いて後にも先にもあれほどの衝動に駆られたことはない。

 森園先生とは、それっきりだ。

 教室では、先生は何事もなかったように英語のリーダーを読み、生徒に当てたりしていた。何度か廊下ですれ違ったが、会釈を交わすだけだった。

 お互いの目が合うこともなく、卒業を迎えた。 

 あの時、私の青春の情熱は燃え尽きたような気がした。

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