第7話 骨

不動産屋が自分を罠にかける理由がわからない。だが、わからないことがかえって恐ろしく思えた。

畳の上を歩くスピードが上がる。一瞬、今の自分と、認知症が発症したばかりの頃の父親が重なってしまった。


 家の前で園児に30分近く怒鳴る直前、通報を受けた警察の話によると父親は家の周りをぐるぐると歩き回っていたという。

涼介が「現場」にたどり着いた頃、警察と取り押さえられた父親の二人だけが昼下がりの曇り空の下、外に出ており住宅街は父親の存在を排除したかのように閑散としていた。


この時警察に言われた一言が脳みその目立つ部分にこびりついている。


「あなたもいい歳なんだから、自分の父親の面倒くらいちゃんと見てなさいよ」


その言葉の後には明らかに、警察だって暇じゃないんですから。という言葉が含まれていた。そのいい歳の男が、今や自分の制御ですらおぼつかないのだ。




 自分は、ちゃんとした社会人ではあるはずだった。アルコールとニコチンが好きな工場勤務の独身男性。前科なし。

非常にありふれた肩書きだ。それがたとえ坂本龍馬ほど立派ではないにしろ。


しかし今の自分はお世辞にも、「まともな社会人」からはかけ離れていると感じた。涼介は立ち止まった。


何ができる。今何ができる。このまま見えない罠に殺されるのを待つだけか。鳥に捕食されることも知らずに、悠々と湖を泳いでるだけの魚か。


『あなたもいい大人なんだから』


涼介は無性に腹が立ってきた。同時に不安になってきた。

一人なのは慣れっこだが巨大な敵に対して味方がいないと想像すると心細くなった。

何か思い出さなければならない事がある、と思って涼介はスマートフォンを見た。そして今日が親父の所に行く日であることに機械的に気づいた。







「もう35か。お前も。 坂本龍馬はな、お前の年齢になるまでに成すべきことを成して、もう死んでるんだぞ」


 父親がまだしっかりしてる頃、涼介は父親の事を「怖い人」と認識していた。

それが何週間も施設に通ううち、「怖い人」ではなく自分は自動音声か何かと喋っているのではないかと思うようになった。

最近ではもはや、ここに来ている事さへ幻想で、今頃自分は悪い夢の中なのではないかと思うようになった。


父親の文言は的外れな割に、台本でも読んでるのかと思うくらい不気味なほど正確だった。どうせそろそろ次の質問がくる。


「お前の息子は、小学生にはなったんだっけ?」


「……息子と妻はね。死んじゃったよ」

「え?」

「悪い奴に殺されてね。死んじゃった」


自然と言葉が出た。元々存在しない人物だ。生かすも殺すも自分次第だろう。


「そうだったかい」


 すると父親の声に、かつての「しっかりとしたバリトンボイス」が宿っているのを感じた。

なぜかはわからない。しかしいい兆候なのではないかと確かに感じる。

もしかしたらコロンブスの卵になり得るかもしれない。涼介は父親の次の一言を待った。




「じゃあさっさと次を作るんだ。お前もいい歳なんだから時期を逃すぞ」





・・・父親然とした言葉だと思うが、自分は一瞬でも他人に何を期待していたというのか。

全く他人という奴は、別の他人のことになるとここまで無神経になれるものか。


怒りが外から鼻腔に流れ込んでくるのと同時に顎二腹筋の当たりが強張るのを感じ、口の中で微かに血の味がした。


涼介が感じたのは失望ではなく絶望だった。


涼介も、涼介の妻も息子も、父親にとっては存在意義などまるで意味を持たないのだ。

従って、生きてようが死んでようが意味を持たない。

道徳的にも社会的にも体裁的にも、「しゃれこうべ」となんの変わりもないのだ。


 足早に涼介は施設を出た。雪が降っていた。


子供の手をひく母親、歩きながら電話してるスーツ姿の誰か、背中を丸めて通り過ぎる若者。

点滅する信号機の青、記号的な人間、記号的な車、ひとりぼっちのくせに、そうじゃないと言い張る記号的な街、世界。

目に映る全てが涼介を不快にした。認知症の父親に、家族の愚痴しか言わない同僚に、訳も聞かないで睡眠薬を売りつける薬剤師に、誰の意見も聞こうとしない工場の上司に、人の状況も想像できないライン長に、

物言わぬ無機物たちに、どうして自分の周りには話すらまともに聞けないポンコツしかいないのだろう?


自分がどうなろうが何も感じず、一方的に無責任で無神経なことしか言わない感受性ゼロの人間しかいないのだろう?

涼介にはあたりに、人骨が降ってるように見えた。そして人骨が意味もなく積もっていく。





山本が逮捕されたことを知ったのは、次の日のことだった。






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