第6話エーデルワイス
結論から言うと失敗だった。昨日の出来事を振り返れば振り返るほど、現実とは乖離しているように思えたからだ。
そしてその乖離した現実が原因で、自分が半日上の空だったことを同僚に知られるのは理性が許さなかった。
二日酔いで、睡眠不足で、突然の出来事に感情がぐちゃぐちゃのなかで、最後に残った理性がちゃんと許さなかった。
その中でなんとか絞り出した言葉は、当たらずも遠からずな、わかりにくい比喩だった。
「相川」
「なんだよ」
「お前、手ついてるな」
「手?」
「手とお前はずっと一緒にいた。『親の顔より見てるはずの自分の手』だな」
「なんだよ。お前今日、顔怖いぞ」
「いいから聞け。なんでも無い日に何気なく手を見る。いつも見てたはずの手に違和感を覚える。
そもそも手を見た原因はこうだ。目立つところにほくろがある。目立つほくろなのに、このほくろがいつから自分についていたかわからない。
生まれた時からあったほくろか?十年前にはあったか?もしかして昨日できたほくろか?」
「うん。うん。で?何が言いたいんだよ」
「30代からできたほくろは癌を疑えって、聞いたことないか?」
「初めて聞いたよ。そうなの?」
「そのほくろが癌かどうか、怖くならないか?」
「・・・わからねえな。お前それで寝れなかったのか?」
「ちげえよ」
「え?わかんねえよ何が言いてえのか。第一、癌ならもうやってるしな俺」
「は?!」
「別に俺らの年齢ならそこまで珍しくもねえよ。何があったか知らねえけど落ち着けって。ほら。川でも見て深呼吸しろ。肩を大きく回して。まだ1日は長いぞ」
「…… ……処分場」
「はあ?」
「処分場…… ……門限」
相川と山本に言わせると、この瞬間から涼介は変わったという。
具体的に変わった部分は、常に心ここに在らずでミスが増え、それをライン長に怒鳴られている時も目が死んでいたという。
実際、涼介の生活は変わった。
残業は確実に断るようになった。懇願する相手がライン長でも工場長でも定時に帰るようになった。
そして市販の睡眠薬を使用するようになった。
一人の夜が怖いのだ。暗闇が怖い。向かいの工場から異音が聞こえてくるかもしれないと思うと、とても「まとも」ではいられない。
しかし用法通り飲んでも効き目を感じない。仕方がないので用量が2錠のところ3錠飲んで、アルコールで胃に流して、それでなんとか眠れるようになった。
とにかく21時を過ぎたら外を出歩かない。部屋の明かりもつけない。涼介のルールの守り方は徹底していて、機械的だった。
この時期の涼介の目に、同僚の相川は覚えがあった。癌が発覚した時の自分の目に似ている。
『癌との闘病生活が始まる。できることもできなくなる。これで自分の人生は終わった』そう思った瞬間に、相川の目はレンズでできた無機物のようになり、無気力になった。
思い返せばあの頃の自分の病状のことを「うつ状態」と呼ぶのではないかと振り返っていた。それで言うなら、今の涼介はまさに「うつ状態」という言葉が似合う。
そしてその状態が2週間と続くと、相川はいよいよ涼介が心配になった。
あくる日、涼介は電話をかけている。
それは涼介にここの物件を紹介した林田へ宛てた電話だった。なぜ「門限」のことを黙っていたのか、隣の工場はなんなのか、現状、涼介ができそうなことは不動産屋に聞くことだった。
忙しい時間帯なのかなかなか電話が繋がらない。スマートフォンのスピーカーからは、単調な「エーデルワイス」が延々と流れていた。涼介は貧乏ゆすりをしながらタバコに火をつけた。
そして落ち着きを取り戻すために「エーデルワイス」の歌詞を思い出していた。
エーデルワイス、エーデルワイス、優しい花よ、エーデルワイス、エーデルワイス、……遥かアルプスの……
「お電話ありがとうございます。藤田不動産です」
「バビロンハイツの灰谷です。林田さんをお願いできますか?」
「かしこまりました。少々お待ちください」
……
……
エーデルワイス、エーデルワイス、優しい花よ、エーデルワイス、エーデルワイス、……はるかアルプスの峰の、雪のように、エーデルワイス、エーデルワイス、……
……
エーデルワイス、エーデルワイス、優しい花よ、エーデルワイス、エーデルワ……
「灰谷様大変お待たせしております。申し訳ありません林田は今、席を外しておりまして」
「いつ戻りますか?」
「少々お待ちください」
……
……
エーデルワイス、エーデルワイス、優しい花よ、エーデルワイス、エーデルワイス、濡れて咲く花 遥かアルプスの峰の、雪のように、……
エーデルワイス、エーデルワイス、坂本龍馬
音を、たてるな。門限守れ。9時をすぎたなら出るな 明かりを消せ
エーデルワイス エーデルワイス……
……
「大変お待たせしております灰谷様。申し訳ありません。林田ですが、先月から異動になりまして」
「……どこにですか?」
「個人情報ですので申し上げられません。すみませんが。今お住まいの物件で何か問題ですか?」
「……隣の工場なんだけど」
「あ、異音ですか?確か林田から説明があったと存じますが……」
「確かに聞きましたけど、あれはなんの工場なんですか?」
「個人情報ですのでお答えしかねます。申し訳ありません」
「個人情報!? なんの工場かくらい教えてもらってもいいじゃないですか?」
「申し訳ありません」
「気になって寝れないんですよ! 知る権利くらいあるだろう!」
「はい。申し訳ありません」
「(ため息)……どうしても答えられない?」
「ええ。どうしても」
「いいです。林田さんの連絡先を教えてくださ……」
ここで一方的に電話が切られた。信じられない。こんなことがあってたまるか。
あってたまるか、な事態が実際におきた。
第一肝心な確認事項を忘れている。「門限」のことを聞きそびれた。
涼介は一度叩きつけたスマートフォンを拾い上げて、電話をかけ直した。
……
……
5回はリダイアルしたが、一向に繋がらない。
涼介は混乱した。得体の知れない不穏さは、得体が知れないまま、質量を持ち始めた。そしてそれは確実に自分に近づきつつある。
呼吸が浅くなっていき、足元の不快感が高まっていくのを感じる。いわゆるレストレッグス症候群に類似した症状だ。
6回目のリダイアルで、単調なエーデルワイスを聴きながら、繋がらないとわかっていても頭を抱えて考えこむ。
信じられない。こんなことが許されてたまるか。そして涼介はついに座っていることすら困難になり立ち上がり、畳の上を何をするでもなくぐるぐる回り始めた。
なぜこうなる?なぜこんなことが許される?こんなことが許されるとしたら・・・不動産屋が「門限」の理由を隠しているとしたら?
知らないうちに自分が何か罠にかけられようとしているとしたら・・・?
たまらなくなった。
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