第3話 車椅子

 翌朝、涼介は甘ったるい口の中を磨いたら、下着だけ着替えて職場のある武蔵野市の工場へと向かった。

ラインに立ち、流れてくる部品を手に取る。今日は車椅子のフレームを組み立てる工程だった。

大きなアルミ製のフレームを持ち上げ、丁寧に固定していく。車椅子のパーツは、どれも冷たく無機質だった。

ボルトを締め、タイヤを取り付け、シートを張り替える。目の前で次々と組み上がっていく車椅子を見つめた。


 この業務を7時間休まずにこなすにはコツがいる。

それは、一切の邪念を放棄すること。だからと言って思考停止には陥らないことだ。

流れてくる部品を、流れてくる部品の情報としてそのまま受け止め、目の前の状況を全てありのまま受け入れる。

腹が減った自分。喉が渇いた自分。疲れが下半身にきた自分。二日酔いの自分。この頃はトイレが近くなって、オムツを履いている自分。

その全てに、言い訳をせず、自分を責めることなく、まるでどこぞの源流から多摩川か荒川のどちらかに合流して東京湾に至る、血脈のような川の流れのように。

しかし、ある出来事を境にして涼介は介護用品に、それも車椅子に多少、敏感になってしまうようになった。


 父親の施設が見つかるまで、当時の涼介の家で預かってた頃のことだ。

その時期は涼介にとって地獄以外の何者でもなく、脳みその隅っこに置くには目立ちすぎる日々だった。

認知症が進んだ父親は、昼夜問わず出歩こうとしては、怒鳴り声をあげて、父親の怒鳴り声、もしくは警察からの訪問で夜中に起こされることがあった。

2件隣の部屋の前で糞尿を漏らし、苦情を言われて何度も「ごめんなさい」と繰り返しては自分で掃除をしに行った時もあった。

もうこの部屋にはいられないな。と涼介は思っていた。


 

涼介は苦渋の決断の末、寝る前は父親を椅子に座らせて手足を結束バンドとロープで固定するしかなかった。

そうでもしないと安心して眠ることができないのだ。寝る前は毎日、暴れる父親との取っ組み合いになった。


「ごめん。4時間だけだから」そう言って父親を椅子に縛り付ける。


夜中中父親の泣き叫ぶ声が響き、お隣さんとの関係が最悪になった代償に、涼介は4時間の睡眠時間を得ることができた。

 

 一番応えたのは、そのような状況だからしばらく職場の工場を休まなければならないことだった。

涼介は、工場側は快くとは言わなくても、納得はしてくれると思っていた。

しかし、当時のライン長に電話で相談した時、返ってきた言葉が涼介を何より傷つけた。


「馬鹿野郎!! 使えねえなお前!!!」


 涼介は思わず、邪念を振り払った。

邪念を抱くことは、それがいかなる邪念であってもこの作業をこなす上ではミスにつながるからだ。疲弊してる日は特に。二日酔いの日は尚更のこと。

ラインに流れてくるのは、自分の人生とは接点のないものだ。記号的な部品。記号的な無機物。ただの記号。

こんなものに、何の意味があるんだろうか……


 工場はここのところ人件費を抑えて発注を増やす方針だ。そうしないと経営が回らないのだという。

おかげで新入社員は入社と同時に雑な扱いを受けて三ヶ月もしたら辞めていき、ベテランという名の年寄りばかりが残っていく。

涼介でさえ、この工場では若手の方だ。つまり新しい生贄とういう名の新入社員が入ってくるまでは上からは雑な扱いを受け、通常業務の他に事務作業まで押し付けられたりする。

今日もサービス残業を頼まれたばかりだ。どうせ断れないので抵抗せずに受け入れた。


 涼介は流れていく車椅子をぼんやりと見つめた。

組み上げられた車椅子は、次々とラインに乗せられ、工場の奥へと運ばれていく。あの車椅子に座る人々は、どんな人生を送っているのだろうか。

彼らも、父と同じように終わったような人生を憂いながら、それでも生き続けようとしているのだろう。そしてそこには詩的な情緒も、文学的な悲劇もない。諦めも理屈も不理屈もない。

ひたすらに平和な世界。一枚の白いタイルを限界まで引き伸ばした、ひたすらに平和な世界。ただ、そういうことだ。


「ただ、そういうことだ……」


涼介の独り言が機械音に混ざって煙と共に溶けていく。自分の手で作り上げた車椅子が、人々の生活を支えるということは理解している。

それでも、目の前で無機質に流れていく車椅子たちが、どこか虚ろに感じられた。






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