第2話涼介


灰谷哲夫の部屋を出て、ホームの廊下を歩く涼介の足取りはどこか重かった。

父の姿を見送るたびに、心の中でふっと虚しさが広がるのを感じる。なんとも形容し難い虚しさだ。

ホームを出ると、真冬の冷たい風が涼介の頬を撫でた。コートの襟を立て、彼は淡々とした足取りで足立区の街を歩いていく。


 住宅街を抜け、彼のアパートに向かう道は、どこかしらくすんだ色をしていた。街灯の薄い光に照らされる歩道を一歩一歩踏みしめながら、涼介は物思いに耽っていた。

「もう35か。お前も」


 父の言葉が頭の中で踊る。坂本龍馬のことなど、もう何度も聞かされてきた。

本当はお前の名前を龍馬から一文字とって「龍介」にしたかたんだげど、当時の役所は「龍」の字を「りょう」と読ませてくれなかった。だから仕方なく涼介にしたんだ。

何度もきいたよ。と言うことすら虚しく感じるようになり、ただ機械的に聞き流すようになった。

 それまで涼介には、自分の生き方に後ろめたさなど感じたことはなかった。少なくとも、父に対してそう思う理由は何もないと信じていた。

だが、父の呟く言葉の端々に、自分に対する期待や失望が滲んでいるように感じられてならなかった。自分の人生が、父にとっても、母にとっても、何の意味も持たないものだったかのように――。



 涼介の中で唯一の楽しみと呼べるのは、帰り道にスーパーに寄り、ストロング缶と缶ビールを一本づつ買うことだ。

アパートに戻ると、涼介は鬱憤の雲を払い除けながら疲労に身を任せ、畳の床に大の字で寝転んだ。

狭い部屋だが、独り身が大の字になって寝転がるには余りあるスペースだ。徐に仰向けの状態でストロング缶を一本。一気飲みである。

体温が内側から上昇し、比例するように静寂が部屋を包み、外の世界と切り離されたような感覚に襲われる。

しかしこの感覚がどうにも抵抗できない現実やら理不尽やら、どうにも抵抗できない社会に対する漠然とした不安やら、飲み込むのに抵抗を感じる一切を薄い膜で覆って見えなくしてくれる。

この場所に越してきてから、もう半年以上が経ったが、まだ自分の居場所だと感じることはできていなかった。おそらく十年ここにいたとしてもそう感じることはないだのだろう。



 彼はぼんやりと窓の外を眺め、道路を挟んだ対岸の工場に目をやった。

ここで働いてる奴らも、今頃酒を飲んでるかな。と、思ったところで、そういえば通勤時にこの工場の従業員らしき人物とすれちがったことがないどころか、人が出入りしてるところを見たことがないことに気が付く。

確かアパートの契約時、自分を担当した林田という中年男性に「近隣の工場から騒音がする」と言われ、「大丈夫です。あまり家にいないし、自分は工場の音慣れてるんで。うるさくても寝れるんで」と答えたのを覚えている。

しかし実際目の前の工場はこうして静まり返っている。そのギャップに彼は漠然とした違和感を覚えた。

「ヘンなハコ(工場)だな……」

溜息をついた。そして受け入れ難い現実を思い出した。確実に「ヘンなハコ」と口にしてしまってからだ。



仕事と介護に追われる日々の中で、穴のつぶれたネジのように自分の人生に無頓着になっていき、工場のラインで無機質な部品を扱い、休日は父を見舞いに行く。友人と呼べる人間もおらず、恋人の作り方さえ忘れてしまった。

ただ無表情に時間を過ごすだけの毎日。

そしてそんな今日の1日も缶ビールの川に流して自分の脳みその、なるべく目立たないところに置いて目を閉じた。

たかが1日。されど確実に1日、人生の終わりに近づいた。




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