Echoed in the well's of silence
@SBTmoya
第1話哲夫
「もう35か。お前も」
灰谷哲夫が今年41歳になる息子の涼介に向かって言った。いつもの譫言だ。訂正する気もとうに失せた。
自分自身以外の事には何も興味を持たない父親だと思っていたが自分が定年退職し、やがて体を悪くして施設に入居して、やる事がなくなったと思ったら一人息子の人生を憂いだした。
そして職場の休暇にこうやって埼玉県の施設で顔を合わせるたびに同じ譫言を繰り返すのだ。
「坂本龍馬はな、お前の年齢になるまでに成すべきことを成して、もう死んでるんだぞ」
はいそうでしたか。以外の言葉が出てこない。
灰谷涼介は武蔵野市にある介護用品を生産している工場に勤めている。この仕事に落ち着いて10年が経とうとしていた。
独身だが、特に社会に対して後ろめたい事の一切もなく、東京で慎ましく暮らしている。
涼介には、父親が何にそんな不満なのかがわからなかった。せいぜい、まだ孫を抱かせてあげられてはいないくらいだろう。
ついでに、この後父親から言われるであろう言葉も、一言一句正確に言い当てることができる。そろそろ、聞かれる頃だ。
「お前の息子は、小学生にはなったんだっけ?」
息子はいないよ。奥さんもいない。そう返事をしていたのは最初の5回か6回だ。
面倒くさくなって今は、「うん、まあね」と、至極曖昧な言葉を返しているから、施設の介護士さんには妻子がいるものだと思われているだろう。
「お忙しいのに毎週通われて、お父様も喜んでらっしゃいますよ」
と介護士さんが言うので、「他に用事がありませんので」と返した。
お父様が軽度の認知症を患っている可能性があります。そう医者に告げられたのは3年前の年末の事。
母親の3回忌を済ませた直後に近隣の幼稚園児達に向かって父親が30分近く怒鳴り続けた事で発覚した。
一ヶ月の期間父親との二人暮らしを経て、慌てて施設を探し、そこに入れることが決まると次は経済的に厳しくなり、ようやく見つけたのがこの足立区の安いアパートだった。
印象的だったのは、この部屋には門限がある、正確には「あった」、ことだ。
理由が誰もわからないためか不動産屋でも説明を受けなかったのだが、新居にて改めて部屋の契約書を見返してみると「備考、午後9時以降外出禁止」と書いてある。
涼介は慌てて一軒家に住む大家の所へ相談に行ったら、大家でさえこの門限のことを忘れている有様だった。
門限の理由はどうやら前の大家がアパートの一階に住んでたからだとか。
「誰も守ってないし、気にしないでいいよ」と言われた。
このようにして、涼介は武蔵野市の職場と、足立区の家と、埼玉県の施設の三角生活を始めた。
あれから何年経ったろう。母の葬儀の時、父親はまだ「しっかり」していて、涼介に対して業務連絡以外の事は口にしなかった。
当時から食道癌で入退院を繰り返しており、70にして杖がなければ歩けない体になっていた。
自身の全ての動作が俊敏にこなせなくなっても、それでも心は「しっかり」と丈夫に喪主を務めていた。
まるで風船ひとつくくりつけたら、天高く飛んでいってしまいそうな今の姿とは違う。
「しっかり」と、地面に立ち、「しっかり」とした、バリトン・ボイスで喋り、「しっかり」とした、仏頂面にて他人を威嚇できていた。
その父が今や、1日数回介護士に怒鳴り、週一でくる息子に坂本龍馬がどうたらこうたら同じ文言を繰り返すようになった。
どこぞの島を何百年と見守ってる神木があるとして、それも何千年と歳をとって枯れていくんだな。そしてそのように父親も死んでいくんだな。
そんな当たり前のことを当たり前のことのように涼介は想像していた。そして当たり前のこととして受け入れ、なんとか順応していた。
今は自力で立ち歩きできないに留まっているが、そのうち手足も動かなくなる。
達者な口も聞けなくなると病院の得体のしれないチューブに繋がれて動けなくなり、晩年は呼吸も自分ではままならなくなる。
そのような責め苦を受けた末に天に行くことを、ゆっくりと許されていくのだろう。などと、父親の未来図を涼介は描いていた。
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