★ 生クリーム、陰影を添えて
うぅ。野乃花さんに会いたい……。
仕事が忙しすぎて、最近は、野乃花さんともぜんぜん会えてない。
『もう一回だけ頑張ってみる』なんて言ってたけど、うかうかしてる間に、また誰か別の騎士様とかヒーローとかに出会ってたりしないよね?
いや、今度は野乃花さんが守る側なんだっけ……?
どっちにしても、また無邪気に恋の報告をされるのは嫌だ。うぅ、嫌だよ。野乃花さん。
「二ノ宮! 二ノ宮っ!」
「聞こえてます!
チーフに返事をして、クリームの入った大きなボウルにパレットナイフから余分なクリームを落とす。
なんの進展もないまま、季節だけは巡り……。
作業台の上には、真っ白なホールケーキがいくつも並ぶ。これから、さらにクリームを絞っていちごを乗せて、サンタやツリーを飾れば完成だ。
同じようなホールケーキがあともう……もう……数えたくないや……。
クリスマス直前の洋菓子店はまるで戦場。
休日返上で必死に働いて、家に帰ったら泥のように眠るだけ。パティシエになって、もうすぐ十年近くなるけど、この時期のデスマーチにだけは慣れない。
「オーケー。今年もなんとかなりそうだな」
チーフが笑い、まだ開店前だというのに、作業場からため息や力ない笑いがこぼれる。
厨房と売り場の間はガラス張りになっていて、売り場からよく見える。開店したら、気を引き締めないと。
「しばらく、ケーキはいいや……」
「ははは、俺もだ。できるだけ、とっとと終わらせるぞ」
早朝から深夜近くまで
リットル単位の生クリームも、三十キロもあるグラニュー糖や二十キロの粉糖もあっという間にどんどん消えていく。
フル稼働のオーブンのおかげで、作業場は常に甘い香りでいっぱいだ。
仕事は好きでも、こう連日だと癒やしがほしい。
「二ノ宮さん!」
ひたすらケーキを作り続けて、午後。補充に入った接客担当の子から声をかけられる。
パティシエは白のコックコートに焦げ茶のネクタイとエプロンで、売り場担当は帽子の色も焦げ茶になる。
「来てますよ」
視線をあげると、ガラス越しの人混みの中にコート姿の野乃花さん。ひさしぶりに顔がみれるだけで、もうキュンとする。
眼鏡が曇ってしまったのか、外して拭いてる。眼鏡も似合うけど、外しててもやっぱり可愛いなぁ。
「ありがとう!」
ああ、もう。一日分、いや一週間分くらい元気出た、かも!?
「ふふ。本当に好きなんですね」
「……まあね」
気恥ずかしくて口を尖らすと、
察しがよい子なのか、それとも俺がバレバレなだけなのか。あっという間に気持ちがバレてからこうして協力してくれてる。
店が暇なら、ちょっと話に行くくらいできるけど。流石にこの
最後に一目、と野乃花さんのいるクリスマス仕様の売り場に視線をやると、目が合った――気がした直後にくるっとほかの方を向いてしまう。
気が付かなかったかな? それとも俺に興味ない?
野乃花さん、うちのスイーツが好きで来てくれてるんだし仕方ない、よね……?
「よし、頑張る!」
「頑張ってください」
仕事か恋か、どっちに対してかもわからない。とりあえず、もう一回お礼を伝えると、
おかげで、顔も見れたしデスマーチも乗り切れそう。
俺も移動してスコップで砂糖をどっさり、クリームの入った十キロ用のミキシングボウルに加えていく。ある程度まで機械で混ぜて、あとは手混ぜだ。
これくらい簡単に、人の心にも砂糖を加えられたらいいのに。
『たしかに、苦いし、酸っぱいけど……、お砂糖をいっぱい足してもだめかな……?』
『え?』
『野乃花さんがもう嫌だ、って思った分より、ずっと。幸せになって、恋っていいなって思えるように。俺……』
俺がずっとそばで、野乃花さんを幸せにしたい。
恋の苦さなんて忘れて、甘く、甘く、好きって気持ちだけで満たしたい。
据え置きの縦型ミキサーにかけた生クリームは、少し経つと花びらのような模様をのこしてどんどん泡立っていく。
一度泡立てたクリームは元には戻らないし、ほんの少しタイミングを間違えば分離して、もう使い物にならない。
野乃花さん……、まだあの人のこと好きなのかな。
あのあとも一回、
手品が好きだから、教えてくれないかお願いしてみたり、マジックショーとか、手品の用品店とか関連の場所に誘ってみたり。
珍しく目が泳いで、断り方を探していて申し訳なくなる。
機械からホイッパーを外すと、生クリームの角がヘタリと折れた。洋酒を加えて、手混ぜでクリームの硬さを調整していく。
動物園とか、水族館とかに出かけられたら楽しいだろうなぁ。
今の時期だと、イルミネーションとかもいいよね。
野乃花さんが休みの土日は、どちらとも丸々休むのは難しいから、繁忙期が過ぎたらまた半休をとって誘いたいな。
映画は好きじゃなさそうだし……、どこなら一緒に過ごしてくれるだろう。
野乃花さんを幸せにしたい、なんて思うくせに、実際は俺のエゴばかりだ。
野乃花さんの失恋をどうしても喜んでしまう自分がいて。そんなところを見透かされてるのかもしれない。
あの日から、花が咲いたような笑顔に戸惑いが交じるようになった……気がする。
はぁーっと、ため息が出る。ダメだ、仕事に集中しないと。
口金を選んで、絞り袋にクリームを詰めていく。
俺にとっては、何百個も作るケーキの一つでも、誰かにとっては特別なひとつ。
誰かの幸せの一部になれるのが、パティシエの仕事の醍醐味なんだから。
丁寧に絞るクリームが、真っ白いケーキに陰影をつくっていく。
華やかなデコレーションに目がいくけど、こうした下地が丁寧なケーキはやっぱり綺麗だと思う。
特別綺麗に、とか。感性のおもむくままに、とか。パティシエを目指したときは、そういうのに憧れていた。でも、今は……。
安定してどれも同じに完成させていくのが、プロのパティシエの仕事。
誰かの幸せに、寄り添えるように。
どれも同じに絞っていくクリームに想いを込めた。
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