第44話 覚悟はあるか?

グリンヌーク王の言葉に、その場の誰もが固まっていた。


広間はまるで時間が止まったかのように静まり返る。


イスビョンの厳しい表情と重々しい声が、空気をさらに重くしていた。


壁に掛けられた古いタペストリーが、微かな風に揺れる音だけが響いていた。


養父の予想だにしない問いに、さすがのロアールも顔を引きつらせる。


彼の額には冷や汗がにじみ、目は驚きと困惑で見開いていた。


アウスゲイルがイスビョンの真意を訊こうと身を乗り出したが、ショーズヒルドは彼を制する。


彼女の手は微かに震えていたが、その目には冷静さを保とうとする決意が見えた。


ショーズヒルドは動揺しながらも首を左右に振り、アウスゲイルにエイリーナのほうを見るようにうながした。


そこには両腕を組んで、問われたことを真剣に考えるエイリーナの姿があった。


彼女の眉間みけんには深いしわが寄り、その瞳は遠くを見つめている。


エイリーナのくちびるはかすかに動き、ブツブツと独り言をつぶやいているようだった。


「うーん……。もし私が王さまの子どもになったら、ロンディッシュからイスランを買えますか?」


「な、なに!? イスランを買うだと!? エイリーナお前、それは本気で言っているのか!?」


これまでずっと黙っていたロアールは、驚愕きょうがくの表情を浮かべて声を上げた。


彼の反応はもっともだった。


魔法大戦後、ロンディッシュから自国の権利を完全に取り戻した者はいない。


現状イスビョンでさえ、貿易業という利益を餌にして、なんとか政治的に対等な立場を保っている状態なのだ。


それをまだ十代前半ほどの小娘が、国――島をまるごと手に入れたいというのは、夜空の月をつかもうとする行為並みに無謀な話だ。


だがイスビョンは、取り乱したロアールをにらみつけて黙らせ、エイリーナに答える。


彼の目には冷静さと共に、わずかな興味が浮かんでいた。


「不可能だな。グリンヌークには、島をまるごと買えるような金は使う余裕はない。まあ、無理すれば買うこと自体は可能だろうが、そこから起きる問題を考えると、軽々しく手を出せるものではないな」


「そうですか。じゃあ、せっかく王さまに売ろうと思ってた魔法の剣を買ってもらっても、イスランは手に入らないんですね。うーん、残念……」


エイリーナは肩をすくめ、少しだけ笑みを浮かべたが、その目にはまだ希望の光が消えていなかった。


イスビョンはそんな赤毛の少女を見つめた後、両目を深く瞑って表情をゆるませている。


さらに肩まで揺らし始め、そんなイスビョンを見たロアールは、王が何を考えているのかがわからなかった。


赤毛の少女が口にしたことは、どう見ても子どもの戯言たわごとでしかない。


それに対して真摯に答え、事実を述べたイスビョンに、エイリーナは落胆している様子だった。


この結果からすると、彼女に怒りを覚えてもおかしくないが、イスビョンはなぜか嬉しそうだった。


「話は聞いてるぞ、そいつで船に現れた魔導兵器の攻撃も防いだとな。まさか魔鯨まげいもその剣で倒したのか?」


「たしかにエレメンタルの力もあったけど、ショーズヒルドやアウスゲイルがいなかったら、絶対に魔鯨は倒せてなかったですよ」


「ほう、力よりも人か。一応、聞いておくが……」


イスビョンは一瞬表情を緩ませたが、その後すぐに真剣な顔つきに戻り、エイリーナを問い詰め始めた。


彼の目はするどく光り、声には冷たさが加わった。


「お前はそいつが、ロンディッシュから禁じられている魔法由来のものだってことを、わかっていて使っているのだな?」


魔法やそれにともなう事柄に関わるということは、ロンディッシュに逆らうということだ。


それは犯罪者の烙印を押され、世界を敵に回すことになる。


つまり世界最大の武力組織を相手にするということであり、その行為は最悪の場合、エイリーナのしたしい者はもちろん故郷すらも罪の対象にされるかもしれないのだ。


そのことをイスビョンに言われ、彼女の頭の中には、故郷の町が炎に包まれる光景が一瞬よぎった。


だがエイリーナは唇を噛みしめ、イスビョンの目を真っ直ぐに見つめ返す。


「わかっています。でも、私はこの剣を使わなければならなかったんです。そうでもしないと、世界から忘れられていく故郷を、笑顔がいっぱいある場所に変えられないから」


イスビョンはしばらくの間、エイリーナを見つめ続けた後、ゆっくりとうなづいた。


「その覚悟があるならば、道は開けるかもしれんな。だが、覚えておくといい。覚悟だけでは乗り越えられない壁もあると」


エイリーナはイスビョンの言葉に真剣に耳を傾け、静かに頷いた。


彼女の心には決意が満ちていたが、同時にグリンヌーク王の忠告の重みも感じ取っていた。


この人は知っているのだ。


気持ちだけではどうにもならないこともあるという現実を。


部屋の中は静寂に包まれ、窓から差し込む夕陽が彼女たちの影を長く伸ばしていた。


「さて、話はこの辺にしておこう。余ったマカロンは港にいる子どもたちに持っていってやるといい。ここにある分で足りなければ、もっと用意してやる」


「本当ですか!? やったね、ヘリヤ! みんな喜ぶよ!」


エイリーナは人が変わったように笑顔になると、ヘリヤの手を取ってはしゃぎ始めた。


彼女の笑顔は、まるで暗闇に光をもたらす太陽のようだった。


イスビョンはその様子を見守りながら、目の前にいる赤毛の少女を見つめていた。


「ロアール」


「はい、親父」


「お前は残れ。話しておきたいことがある」


イスビョンはロアールにそう言うと、召使いたちを呼び寄せ、マカロンを包むように指示した。


召使いたちは手際よくマカロンを包み、ショーズヒルドがそれを受け取った。


それからエイリーナたちはイスビョンに別れの挨拶をすると、屋敷を出て、子どもたちへのお土産を持って港町へと戻った。


夕暮れの街並みは温かいオレンジ色に染まり、彼女たちを優しく包み込んでいた。


その光景を窓から眺めながら、イスビョンは静かに口角を上げた。


彼の笑みには、どこか影が差していた。


まるで、イスビョンの心の奥底に潜む暗い秘密が、一瞬だけ顔をのぞかせたかのように。

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