第44話 ペンダントと琥珀

 手の中で、何かが光った。


「⋆⋆⋆⋆⋆」


 ……まさか。


 俺は呆然として、目の前で淡い光を放つペンダントを見た。


「⋆⋆⋆⋆⋆ユウ」


 嘘だ。何で、聞こえるんだ?


 ペンダントから何か聞こえる。今までずっと、そんなことはなかったのに。がばっと体を起こした。

 確かにペンダントは光っている。これは何度も向こうで見た光だ。


「⋆⋆⋆⋆⋆⋆、⋆⋆」


 途切れ途切れに聞こえるのは、確かにスフェンの声だ。


 ――聞こえるか、ユウ。


「スフェン? ……スフェンっ!」


 耳ではなく、頭の中に直接スフェンの言葉が飛び込んでくる。淡い光がふっと消えて、ペンダントからはもう、何も聞こえなかった。手にも背にもびっしょりと汗をかいていた。


 今のは何だ?


 ペンダントを見る度にエイランのことを考えていたから、現実との境がおかしくなっているのかもしれない。


 馬鹿だな……。自分で帰るって決めて、ここにいるんじゃないか。


 俺はスフェンのペンダントをヘッドボードの棚に戻した。すぐ隣にある革袋の中には、琥珀のピアスが入っている。でも、帰ってきてからはずっと見ていない。どうしても、ピアスをくれた時のジードを思い出してしまうから。


 異世界に行ってから、俺は毎日、生徒手帳のカレンダーに〇をつけていた。自分の誕生日が来るのはわかっていたけれど、祝う気にもなれない。当日は一人で食事をしてさっさとベッドに入った。浅い眠りの合間に、家族が誕生日を祝ってくれる夢を見て泣いた。翌朝の目覚めは最悪で、ジードが俺の顔を見た途端に叫んだんだ。


『ユウ、どうした? まぶたが腫れてる』

『家族が誕生日を祝ってくれる夢を見て……、よく眠れなかった』

『誕生日? ユウの誕生日は、いつなんだ?』

『もう終わったよ』


 昨日だった、と言うとジードは眉を寄せた。こちらでも、誕生日は大切な日として祝うのだと言う。生を授けてくれた女神トリアーテと父母に感謝を捧げる。そして、心を込めて誕生日の当人を祝う。

 ジードは数日経ってから、誕生祝だと言って革袋を渡してくれた。中には見事な琥珀のピアスが入っていた。


『ユウの瞳の色と似ているだろう?』


 ジードは片方のピアスを俺の手から取って耳に当て、よく似合うと言った。とても優しい笑顔に、胸が詰まった。

 自分のことを気にかけてくれる人がいる。その事実が何よりも嬉しかった。


 ──……ユウ。


 俺の名を呼ぶ声が耳の奥に甦る。いつだって優しいその声が聞きたい。面影を探して、革袋の中から、とうとうピアスを出した。


「えっ?」


 ……琥珀って、こんな色だった?


 確か、もらった時は黄金色を帯びた美しい茶色だったはずだ。それが黄褐色のまるで光のない石になっている。

 震えながら琥珀に触れれば、ひどく冷たい。ジードから受け取った時は、仄かに琥珀に温もりがあった。穏やかで、あたたかい。まるで、彼の心のように。


「俺が傷つけた、から?」


 俺が何も言わずに帰ってきたから? ジードに一言の相談もせずに決めてしまったから?

 ジードの琥珀は、色や温もりを失くしてしまったんだろうか。


「……ぅ、あああああッ!」


 ずっと堪えてきた涙が、幾つも幾つも落ちていく。琥珀の上にも落ちて、まるで石が泣いているようだった。俺はジードの琥珀を握りしめたまま、ベッドで体を丸めて泣いた。




 日々は流れるように過ぎていく。母は俺が帰ってから一週間後には退院して、急速に回復した。俺は高校からまっすぐに帰り、母とゆっくり話すようにしている。


 もうすぐ九月も終わろうとする金曜日。午前の授業が終わってすぐに、花井が俺のクラスにやってきた。


「佐田、ちょっと話があるんだ。一緒にお昼食べてもいい?」

「うん、いいよ」


 昼休みに花井がうちのクラスに来るなんて珍しい。花井と俺はクラスが違うので、昼飯は別だ。天気もいいし、二人で中庭に向かう。今年は残暑が厳しいが、中庭は木陰があって涼しいのだ。


 以前、校舎からこの中庭を見下ろして、俺は自分の恋が破れたのを知った。好きだった先輩は、彼の想う人と抱き合っていたから。その時のショックは今も覚えているけれど、もう痛みはない。月日は流れて、あんなに辛かったことも思い出に変わっていく。


 ベンチが空いていたので、二人で腰かけて弁当を広げた。花井はいつもお手製弁当だ。祖母直伝だという料理の腕は、家政部員ですら一目置いている。今日は小ぶりな稲荷寿司と卵焼きに浅漬けが彩りよく詰められていた。決して食べるものに手を抜かない姿勢はすごい。

 花井は保冷袋から弁当の包みをもう一つ取り出し、俺にずいっと差し出した。


「はい、これ。佐田の分」

「へ?」

「余分に作ったから、食べて」

「えっ、でも、弁当あるけど」


 手にしたビニール袋を見せると、きっと睨まれた。花井は目が大きくて、美少女みたいに可愛い顔をしている。睨まれると結構、迫力がある。


「弁当って、最近ずっとゼリードリンクでしょ!」

「何で知って……」

「佐田の噂なんか、放っておいても耳に入ってくるんだよ!」


 俺はこのところ、ろくにものが食べられなくなっていた。家族の前で何とか食事はできる。それでも量は減った。夏バテだと言えば納得してもらえたが、本当はそれどころじゃなかった。食欲がわかないし、何を食べてもおいしいと思えないのだ。仕方なく、昼はさっと飲み込めるゼリードリンクで済ませていた。


「佐田、気がついてる? 帰ってきてからすごく痩せたよ」

「それは夏バテだって」

「じゃあさ。こっちに帰ってきてから……何か、作った?」


 咄嗟とっさに答えることができなかった。


「佐田はどんな時でも、ずっと何か作ってたよね。色々な国のお菓子を調べたり、本で見つけたものをぼくたちに教えてくれたりしてた。今はどう?」


 花井の瞳は、心配そうに揺れている。俺は何とか声を出した。


「……何、も」

「そう……」


 だって、作りたいと思えないんだ。ここには、どんな材料もある。作ろうと思えば何だって作れるはずなのに。卵だって、牛乳だって、砂糖だって。何の苦労もなく簡単に手に入るのに、どうして。


「料理って楽しいけど、食べてくれる相手がいたら、もっと楽しいよね。ぼく、今日は佐田に食べてほしくて稲荷寿司を作ったんだ。だから、……食べられるだけ、食べて。残していいから」


 俺は、花井に礼を言った。弁当の包みを開けると、弁当箱に一口サイズに仕上げられた稲荷寿司が並んでいる。食欲がない俺のことを考えて、小さく作ってくれたのがわかった。卵焼きは綺麗にくるりと巻かれ、胡瓜と人参の浅漬けは、つやつやしている。

 いただきます、と手を合わせて稲荷寿司を食べた。薄味の油揚げは味が染みて、酢飯はほろりと口の中でほどける。


「……おいしい」

「ほんと?」

「うん。すごく、優しい味がする」

「よかった!」 


 花井が嬉しそうに笑う。俺はじわりと目に浮かぶ涙をこらえて、二つ目の稲荷寿司を食べた。人が心を込めて作ってくれたものは、何でこんなにおいしいんだろう。


 ……優しい味がする。


 俺が作ったものを食べて、そう言ってくれた人がいた。


『これが、ユウが作りたかった味なんだな』


 ぽとん、と涙が落ちた。


「佐田?」

「花井、お、俺。ほんとは、作った菓子を食べてほしい人がいる。でも……」


 俺は彼を傷つけた。そして、もう会えない。

 泣きながら、つかえながら、俺は必死で話した。


 ──とても大事な人がいたんだ、と。


 作りたいものが、何も浮かばない。

 彼に渡せないと思った時から、俺は自分の手で何も生み出せなくなった。

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