第45話 騎士の涙

 放課後、花井が俺の家に来た。俺たちは自室のラグの上に座った。


「なんとかして、佐田はその大事な人に会わなきゃ」


 真剣な花井に、俺は力なく首を左右に振った。エルンの魔術師は片道通行だと言った。もう俺はエイランには行けない。


「今の佐田は死んでるのと同じだよ! 菓子一つ作れないなんて! ぼくたちから料理をとったら、何が残るっていうんだ」

「……花井」


 何も反論できる要素がない。そうだ、スイーツ一つ作れない俺には、もう何もない。


「ぼくさ、この間ずっと好きだった奴に失恋したんだよ! でも、何も後悔してない。やれるだけのことはやったから。だけど、このままじゃ佐田はずっと後悔したままだよ。まだ、終わってもいないのに」 

「……終わってない?」 

「だって、佐田は終わったと思ってないよね? たぶん、相手もだよね? 二人ともずっと、宙ぶらりんのままじゃないか」


 花井の真っ直ぐな瞳が俺を見た。


 ……終わって、ないのか。俺も……ジードも?


「ん? ねえ、それ光ってる」


 花井がヘッドボードの棚を指差した。この半月、何も変わった様子のなかったスフェンのペンダントが光っている。俺は、思わず立ち上がった。

 ペンダントを虹色の光が包んでいる。この光は、帰還術が行われた時に見たのと同じだ。


「⋆⋆⋆⋆⋆⋆ユウ⋆⋆⋆⋆」

「何か聞こえるけど、全然わかんない」

「花井、ごめん。ちょっと黙って」


 ――ユウ、おくる。うけとれ。


 ふっ、と頭の中に言葉が飛び込んだ。


「スフェン?」


 おくる?何を?


 俺は、スフェンのペンダントを手に取った。自分の手の中の光がどんどん強くなる。隣で覗き込んでいた花井も固唾かたずんでいる。ペンダントが虹色の光に包まれて朧気おぼろげな輪郭しかなくなった時、今度は逆に光が洪水のように溢れた。部屋の中全体が光に呑まれて、何も見えなくなる。


 あまりの眩しさに、目を開けていることができない。


「ッ!」

「何これ!」


 目を瞑っていても瞼の裏に刺さるような凄まじい光の放出があった。少しずつそれが収まって、俺たちは、ゆっくりと目を開けた。ゆらゆらと揺れる虹色の光が一つにまとまって、形を作ろうとしている。


「……? 人?」

「うん」


 虹色の光をまといながら、俺たちの前には大柄な一人の人間が立っていた。彼は不思議そうに上を見ている。


 ……ああ、そうだな。向こうは、こっちよりもずっと天井が高い。この部屋は、さぞ狭く感じるだろう。


 眩し気に目を細めていた彼が、視線を下ろした。ようやく焦点があったのか、何度も目を瞬いている。俺を見て、眉間に皺を寄せて唇を引き結んだ。

 俺は、彼から目が離せなかった。まるで体が固まってしまったかのように動けない。


 彼が一歩踏み出し、ゆっくりと手を伸ばしてくる。指先でそっと俺の頬に触れると、細かな震えが伝わってきた。確かめるように何度も何度も頬を撫でる。

 くすんだ金色の髪に碧の瞳。彫りの深い顔立ちは、以前よりもずっと大人びている。


 全体に細くなったから?瞳が鋭くなったから?


 長い睫毛が震えて、引き結ばれていた口が俺の名の形に動く。


「ユ、ウ」


 これは、都合のいい夢じゃないんだろうか。

 ずっと会いたかった。何度も何度も名前を呼んだ。ごめんと叫んでは、何一つ伝えられないことに泣いた。

 逞しい腕が、俺を胸の中に引き寄せる。腕に少しずつ力が込められていく。


「ジー……ド」


 髪に、頬に、頭の上から温かいものが降ってくる。

 騎士の涙を、初めて見た。


「ジード……」


 まぶたに落ちてくる涙も、自分を抱きしめる腕も、伝わってくる胸の音も。ちゃんとここにある。目を瞑って恐る恐る開けても、消えはしない。


 また会えて嬉しい。すごくすごく嬉しい。

 ずっと会いたかった。

 もう会えないと思っていた。


 胸に浮かんだ言葉は全部、どこかに行ってしまった。


「ユウ」


 こんなに……自分の名前を呼ばれるのが嬉しいなんて、思ったことがなかった。 ジードが俺を呼ぶ時の発音は、こっちで呼ばれるのと少し違うんだ。『ユウ』と『悠』は同じじゃない。


「⋆⋆⋆いに⋆⋆た」

「会いに、き……たの?」


 ジードが頷く。これは夢じゃないんだ。


 ジードの発する言葉が途切れ途切れにしかわからない。向こうの世界から離れてしまったから、もう言葉がわからないんだと思った。俺は、こっちの世界の人間だから。自分で選んだのに、それはたまらなく辛いことだった。

 

「⋆⋆⋆⋆ない」

「ないって、何が?」

「⋆⋆じ⋆⋆かん⋆⋆⋆⋆⋆」


 時間。


「時間がない?」


 ジードが頷いた。


「⋆⋆⋆もどら⋆⋆⋆、まっ⋆⋆⋆⋆」


 ああ、そうか。

 どんなものにも属する世界がある。魔術師はそう言っていたから、すぐにジードは戻らなきゃならないんだろう。

 

「会いに……来てくれて、ありがとう」


 ペンダントを脇に置いて、目をごしごしとこすった。ジードの姿をずっと忘れないように目に焼きつけておく。一枚だけ、スマホで写真を撮らせてもらってもいいかな。ずっとそれを大事にするから。

 勉強机に置いたスマホを取ろうとしたら、ぎゅっと手を握られた。ジードは真剣な瞳で俺を見て、左右に首を振る。


「……ジード?」

「ユウ⋆⋆⋆こう」

「えっ?」

「⋆⋆⋆エイラ⋆⋆⋆⋆こう」


 ――ユウ、エイランに行こう。


 ……まさか。


「佐田! その人、佐田と離れたくないんだよ!」

「……花井」

「何言ってんだかわかんないけど、絶対そうだって! 全然、佐田の手を離そうとしないし」


 花井が強く叫んだ時、ガチャと部屋の扉が開く音がした。


「悠? いくらノックしても返事がないから……」


 俺たちが振り向くと、母がこちらを見て目を丸くしている。


「悠、その人は」

「えっと。向こうで、俺がすごく……世話になった人」


 信じてくれるだろうか。家族に異世界の話をしても、父や姉たちは困惑して黙り込むだけだった。母だけは静かに最後まで聞いてくれた。

 母は部屋に入ってすぐに正座した。俺たちも自然にその場に座った。母がジードに向かってお辞儀をすると、ジードも同じように頭を下げる。すぐには誰も話そうとしない。


 母がまるで独り言のように小さな声で言った。


「……悠。お母さんね、悠の話、嘘だと思ってないよ」

「えっ」

「ずっと、違う世界にいたって言ってたでしょう。見たことがあるの、その人」

「見た?」

「そう。毎日毎日、悠の元気な姿を見せてくださいって神様にお願いしてたらね。ある時、ふっと悠の姿が見えたの」


 母は、にこっと笑った。


「きらきらしたものをお鍋で煮てたり、その金髪の人と楽しそうにご飯を食べてた。ああ、あの子、生きてる。元気なんだわって思ったの。でも、すぐに消えちゃった。白昼夢ってやつなのかな、心配しすぎて自分の頭がおかしくなったんだと思ってた」


 母が見たのは、スロゥの皮を煮ているところだ。俺が夢を見たように、母も俺の姿を見ていたのだろうか。


「だから、悠が帰ってきた時にすごく驚いたの。もう、帰ってこないと思ってたから。……でも、帰ってきてからの方が、悠は元気がないよね」

「……母さん」


 母は、ジードをまっすぐに見た。

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