第33話 婚約破棄

 テントの入り口には、ソノワがいなかった。ドゥエと代わりの騎士が立っている。何となく気になって、俺はドゥエに声をかけた。


「ソノワはセンブルクにねぎらいの言葉をかけたいと向かいました。ユウ様、この度はご無事で何よりでした」


 心配してくれたドゥエに礼を言った。ソノワへの不安な気持ちを無理やり打ち消す。


 ……馬鹿だな。ソノワが俺のことを好きじゃなくたって、それとこれとは別じゃないか。ソノワ家とセンブルク家は昔から親しい間柄だったとエリクが言ってた。無事を祝うのは当たり前だ。


 視線を遠くに向けると、陽が沈み始め、一日がゆっくりと終わろうとしていた。魔林はここからは遠い。駐留地から見ると、遥か遠い山並みのように緑の線が真横になって見えているだけだった。


 無性にジードに会いたかった。


 もう話は終わったんだろうか。まだたくさんの人たちに囲まれているだろうか。突然現れた俺とは違って、ジードには、皆に話さなければならないことがたくさんある。

 そういえば、同じようなテントがたくさん並んでいるけれど、どこにジードがいるのかわからない。急に心細い気持ちになりながら、俺は自分が出てきたテントに向かって歩いていく。自然にとぼとぼとした足取りになっていた。


 前方から言い争うような声が聞こえてくる。聞き慣れた声に、はっとした。


「……全く、異世界人には加護があるなんて言うけれど、悪運が強いとしか言いようがない」

「やめろ、ゼフィール。それが魔林から命がけで帰ってきた者に言う言葉か!」

「無事に帰るのは君だけで良かったんだ! そうしたら、君はラフィーナとのことをきっと考え直してくれたはずだ」

「その話は、もうとっくに終わっている」

「ジード!」

「俺はお前を嫌いたくない。……ラフィーナとも伯爵家とも、話はもう済んでいるんだ」

「……ッ」

「俺たちは、大事な幼馴染だ。彼女とも、お前とも」


 ソノワとジードだった。二人はそれきり一言も話さない。

 こちらに近づく影に、俺は慌てて背を向けた。俯いたまま、ソノワが近くを通りすぎていく。


 ラフィーナ、と言う名が頭の中に繰り返し響く。


 思い当たるのは一人の令嬢の姿だ。市場でジードに庇われて、贈り物を受け取っていた少女。そして、兄と一緒に踊っていた美しい姿。


「ユウ?」


 いつの間にか、すぐ近くまでジードが歩いてきていた。眩しいほどの嬉しそうな笑顔が見える。


「よかった。話がしたくて、ユウの帰りを待っていたんだ」


 ……どうしよう。


 ずっと心の中にあった不安が押し寄せてくる。

 ジードが旅立ってしまった後、心の奥に閉じこめていた。好きだと言う気持ちの影で見ないようにしていた、たくさんの不安。


 いつも俺を想っている、とジードは言った。じゃあ、彼女のことは?


「どんな、話」

「何でも。ユウの声が聞きたかった」


 こんなに優しい声を聞いているのに。

 どんどんどんどん、不安がこぼれる。不安で心がいっぱいで、口から溢れてしまいそうになる。


 ジードは、俺のことが本当に好きなの?

 彼女よりも?


 聞けない言葉ばかりが胸の中で降り積もっていくんだ。


「……ユウが、そんな顔をしているのは俺のせいか」


 ジードの碧の瞳が俺を見ている。切なさと心配でいっぱいの瞳だ。そうだ、いつだってジードは心を隠さない。


「……ジード。俺、ずっと聞きたかった。でも、聞けなかった。離れていればいるだけ、勝手に心配になっていくんだ」

「ユウ、それは」

「さっきの話、聞こえたんだ。ソノワの言ってた異世界人は俺だろう? ソノワは俺を嫌ってる。ジードは俺を好きだって言うけど。でも、ラフィーナって」


 ああ、もう支離滅裂だ。何が言いたいのか、ジードにわかるわけがない。喉の奥が詰まって、目の奥が熱い。勝手に涙がこぼれていく。


「……ラフィーナは、ゼフィールの双子の妹だ。俺たちは同じ年に生まれて、物心もつかないうちに婚約が決まった。貴族とはそういうものだ。自分たちの意思は関係ない」


 でも、とジードは言った。自分は彼女に幼馴染か妹以上の気持ちを持てなかった。成長してからは魔獣を相手にしていることの方が多い。王都に戻った時に両親に結婚の話をされても、少しも心に響かなかった。


「ユウに会った時、目が離せなかった。突然現れて、見知らぬ場所で不安だろうにいつも前を向こうとしていた。気がついたら、俺の足はいつも王宮に向かっていた」

「ジード……」


 ジードの指が俺の目の縁を拭う。


「第三騎士団が魔獣征伐に向かう前に、実家に行った。出立の挨拶だけじゃない、ソノワ家との婚約を破棄してほしいと頼んだんだ」

「えっ」

「父は激怒したが、俺は勘当されても構わなかった。兄がいるし、家を継ぐわけじゃない。貴族社会で生きたいわけじゃないから、辺境で一生を終えるつもりだと言って出てきた」 


 変わり者だと言われた祖父が好きだった。祖父は、いつも自分の気持ちを大事に生きろと言っていた。知らぬ間に自分の心を殺すような真似はするなと。


「ラフィーナには、父たちより先に話をしたんだ。すまないが婚約を解消してほしいと。彼女は、最後に一日だけ自分に付き合ってほしいと言った。それが、市場でユウに会った日だ」

「あの日、贈り物をしていたのは……」

「最後に一つだけ、と言われたから」


 ……一日だけ、一つだけ。

 きっと、彼女はたくさんの言葉を飲み込んだのだろう。


「ゼフィールはラフィーナからユウのことを聞いたのかもしれない。彼は妹のことになると見境がないから」

「ジ、ジードは彼女に俺のことを言ったの?」


 ジードは当然のように頷いた。


「婚約破棄の理由を聞かれたから好きな相手がいると言った。ラフィーナのことは妹としか思えないと。ユウが俺を好きだと思ってくれなくても、ユウのことが好きだ。いつ命を失くすかもわからないのに、嘘はつきたくなかった」

「お、俺、ジードと彼女のこと……」

「もしかして、ラフィーナのことを気にしていたのか?」


 俺は何度も頷いた。ずっとずっと気にしていた。

 ジードの手が伸びてきて、俺の体を抱きしめた。すっぽりと体を包み込んでくれる。


 すまない、とジードが言った。


「俺はいつも言葉が足りない。市場でのことをユウに責められた時、衝撃を受けた。あの日のことは思い出したくなくて、ラフィーナとのことも改めて言う気にはなれなかった。……ユウに、前に琥珀のピアスを渡しただろう。あれが自分の気持ちだった。琥珀は長い時をかけて作られる品だ。不変の愛を誓う」


 俺はずっと持っていた。お守り代わりに、スフェンの首飾りと一緒に革袋に入れて首から下げていた。


「ずっと、持ってた」

「ああ、だから魔林の中でユウの気配がわかった。琥珀に宿った魔力を感じたんだ」


 俺の両頬を包んでジードが静かに口づける。


 ジードが好きだ。

 俺の涙に触れ、頬に触れ、優しく口づけてくれるこの男が好きだ。


 ごめん、と言っていいのかわからない。婚約者を失くした彼女に謝れる立場でもない。ただ、俺はもう、この恋を手放すことはできない。ボロボロと泣きながら、ずっとジードの胸の温かさを感じていた。

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