三途の川の氾濫
八柳 心傍
本編
曾祖父の兄が死んだ。
昇り詰める朝陽の、黄金色の光が窓辺から差していた。気持ちのよい風が吹き込む秋の朝だった。
実家暮らしである私と、この父母に看取られながら息を引き取った。大往生だったと思う。彼は家族思いの人だったから、父は涙ながらに「家族はおれが幸せにするから。だから、心配しないでくれ。たっぷり長生きしてから、また会いに行くから」と、彼の息が止まってからも、耳が聞こえるうちはそう言い聞かせていた。
美しい朝陽色の涙を一筋。その時、彼の魂はもうそこにいなかった。
彼の名は「
茂丸様は子供の頃から私の面倒をよく見てくれた。だから、危篤だと報せを受けた時には、無理にでも大学の講義を中断して帰省した。まだ到着した時には、言葉を掛けると、目を開き、呻くような声を返してくれるような状態だった。
それから三日三晩、私は寝ずに彼の面倒を見た。慣れない他人の排泄物に汚れながらオムツを替えた。誤嚥すると肺炎を起こす恐れがあるから食事の介助には特に気を遣った。開きっぱなしの口が乾いてしまわないよう、濡らした細いスポンジで定期的に湿らせてやった。今にしてみれば、痰の吸引にまで知恵が及ばなかった事が、何とも可愛そうだったと思う。
若い頃、茂丸様は作家を志していたらしかった。
当時の所謂、流行りとでも言うべきか。ソンナものに影響を受けたのか知らないが、彼は度々「死にたい、死にたい」と言っていたようだ。私の知る記憶の彼とはまるで違っているので、本当に茂丸様の口から出ていた言葉なのか疑わしかった。しかし、まだ彼の幼い頃には太宰治が生きていたらしいので、古い納屋の隅に、カルモチンなどの睡眠薬があったのは、他ならぬ証左だったのかも知れない。
天国とは、死んでしまいたいほど極楽なのだろうか。
火葬場から、骨壺と遺影を持ち帰った。使っていない和室の仏壇を整えて、線香をあげ、御鈴を鳴らした。
白梅の香る煙がスゥーッと天井へ上がっていくのを眺めていると、無性に煙草が吸いたくなった。付き合いで
煙草が根元まで灰になると、途端に眠たくなって来た。
寝ずに介護をして、火の番までしたせいだろう。
気を失うように畳の上に横たわった。
その夕方、夢を見た。
酷い匂いがして私は意識をハッキリとさせた。頬に尖った砂利の感触がする。張り付いた砂埃や塵を払いながら起き上がると、そこは何処かの河原のようである。
この時の私には、これがこのアタマの中味が見せる夢の世界であるという事が分かっていた。しかし、不自然である。夢とは少なからず本人の記憶をもとに景色を形作られるものであろう。けれども、この荒涼な生気のない景色は何だと言うのか。記憶の中に、コンナ無様で殺風景なものを連想させるものは無い。
しかも、この悪臭。ナント耐え難いことか。まるで生肉を放ったらかしに仕舞って置いたままの壊れた冷蔵庫を十数年ぶりに開いてみた時のような、嗅覚神経がコレを臭いの信号であると信じられずに一瞬躊躇ってしまうほどの異臭である。現実であったなら即座に胃袋の中味を冥々裡に垂れ流していた事だろう。しかし、夢の中であるからそうなる事はない……しかし、しかし、この悪臭の具合がやけに現実みを含んでいる。現実よりも現実らしい……と表現するのはヘンだろうか。
空は、曇天でもないのに灰白色に染まっている。雲すら浮かんでいない晴れ空であるにも関わらずにもだ。かといい、お陽様は浮かんでいない。お月様も。
その時、私の
振り返る。
この砂利の続く、更に遠くの方。その先にくすんだ金色の光が見える。
あの遠い所から、誰かの声がする。
私は立ち上がり、砂利を踏みしめながら声のする方へ歩いて行った。
暫く歩くと、そこには大きな河があった。
一目見ても、それが三途の川であるという事が直ぐに分からされた。このアタマから出ずる夢だから、そうであると知覚出来たわけでは無い。これは、誰が見てもそう分かるものだ。恐らく、仏教を信仰してはいないキリスト教徒、イスラム教徒、ヒンドゥーその他諸々の人種が見たって、そうであると即座に分かる筈だ。
砂利を踏みしめる音は、いつしか水面を踏んで乱す音になっていた。
黒ずんで泡立った不潔な大河がある。
砂利に得体の知れない汚物がこびり付いて、まるで己が清らかな苔であるかのように我がもの然とそこにあった。河の上には大小の汚らわしい蠅が飛び交っている。水面をプツプツと浮かんでは乱す気泡みたようなものが、立ち泳ぎをしている蛆である事に気が附くのに時間は要らなかった。まるで、呑み差したままの酒瓶を、空けたまま放置したかのような有様である。
しかし、然れどもこれは三途の川。流るる川なのだ。
そんなものが、このように腐敗する事があろうか。
そう思われるだろう。
三途の川は、その流れを止めていた。
見渡す限り右から左へ、水面に人間の肉風船が浮いている。いや、プカプカと浮いているというわけではない。畢竟する処、彼らは座礁している。大河の深い深い水底から、沈んで、ズンズンと積み上がったものに引っ掛かって、その姿を露出しているのだ。
悍ましい。背徳、冒涜。これをそう呼ばずして何と呼ぶ。
三途の川が、積み上がった死者の肉体で氾濫している。
その時、私の傍らから声がした。
「あの時は、ありがとうね」
それは茂丸様だった。
亡くなった時のまんまの顔が、活きて、動いて、私に向かっている。
驚目駭心のあまり、私は腰を抜かしてしまった。
「何で……何で……どうして、ここにアナタが……」
茂丸様は暫くの間、私の全身を隈なく見回してから微笑んだ。そうして、尻を濡らしたまま尻餅を突いた私の横に、彼もまた座った。
「良かった。君が死んでしまったと思ったが、違うようだね」
「……ここは、やはりあの世なのですか。何で、どうして……どうして、茂丸様が地獄にいらっしゃるのですか」
そう訊ねると、彼は目を逸らして何か言葉を選ぶような面持ちをした。
「ここは地獄ではない。見ての通り、三途の川を渡る前。此岸なのだ」
アッと言葉を返す間もなく、彼は続けた。
「どうやら極楽浄土という所は失くなってしまったようだ」
「エッ……どういう事ですか」
「神様がね。いなくなってしまったんだよ。居場所を失ったというべきか」
「居場所を失った……?」
「そう。古来より、神とは人には理解できない神秘の間に宿る存在だった。理解できないから、それを神のおわす聖域だとか、御業だとかと信じていたのだ」
茂丸様の話に、私は耳を傾ける。
「だが、哲学というものが生まれてから神の在り方は変わった。理解ができないものを徹底して解き明かし、暴くという知恵の探求が、その神秘の敷地を狭めて行ったのだよ……山の噴火や嵐、雷は神の怒りなどではなく、地球の活動のせいである……墓地に浮かぶ人魂は化学物質の反応である……かつて災いと呼ばれたものは微生物による疫病で……陸、海、空で起こることには慥かな理由があり、その現象に人間は名前を付けた……」
神は居場所を
彼はそう言った。
「神は棲家を失ったのだよ。だから、あの世というものが無くなってしまった。身ぐるみを剥ぐ婆もいない。あすこの河で、まるで子供の石積みのように盛り上がった死者の様子を見ただろう……アレを、地獄に落ちる筈の
「それは……それは何故。どうして天国に行ける人たちも、アンナ……だって、アンナものは地獄の血の池地獄よりオゾマシイ……」
茂丸様は、灰色の空を見上げた。
いつの間にか、彼岸と思しき空から虹色の光が伸び始めていた。
それはまるで橋のように。
「新しい天国だ。神を引き連れた蚕の神様が、新しい天国に連れて行ってくださる」
「新しい天国って何ですか。茂丸様。それはどのような処なのですか」
「繭の中だよ、君。美しい絹の織物で作られた、繭卵の中で、その人の人生にとって最も価値のあった時間を永遠に繰り返すんだ。善人も悪人も関係ない……ただただ、その人が人生で為して来た行いの中で、最も意味のある時間をね……」
虹。空に架かった虹橋から、風に靡かれながら長い長い織物が飛んで来る。蜘蛛の糸と表現するには分厚くて太い、いかにも「これを掴みなさい」というような……神仏の最期の慈悲により賜れる試練ですらない……怪訝に思われるほど都合が良い、安堵と幸福感を放った絹の織物が降りて来る。
イヤな妄想、連想がこのアタマを過ぎった。
蚕の神。そんなものが、あの世を司っている。
オカシイ。不自然だ。違和感がして堪らない。
何故、蚕が、死んだ人間の沙汰をまとめているのだ。
ヒトがいなければ生きていかれない人工の蟲。食べる口を奪われ、空を飛べぬように鉛のごとく重たくされた翅。美しい模様は漂白され、生命に許された生殖という唯一の喜びさえも汚された哀れな蟲。
産んだ仔は、美しく生まれ変わる夢をみたまま、煮え湯に溺れさせられて、繭を剥ぎ取られ、挙句の果てには佃煮か何かにされて食われてしまう。運よく生き残ったと安堵し、希望をもって将来を想像する仔たちは、交尾のための種紙に集められ、さながら刑務所に投獄された罪人のごとく数字で名付けられる。やがて希望は潰え、辱めを受け、やっとの想いで産んだ可愛い子供たちが、目の前で煮え湯へ放り込まれる……。
そんなものが神……?……。
私は、生命という枠組みを超えた途轍もない危機感を覚えた。
今にも、絹の織物に包まれきってしまおうとしている茂丸様が一言。
私の名前を呼んで、こう言った。
「
何かを成すんだ。
何でもいい。意味のある事をしなさい。
でなければ……。
三途の川の氾濫 八柳 心傍 @yatsunagikoyori
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