第7話 フラれた大学生、ちなみにデブ

 改めて部屋の中を見渡すと、何もかもが陰鬱で暗澹としていた。こんな部屋にいたら文才のない人間でも五日で太宰治になってしまうだろう。

「お前なァ、何があったか知らんけど、死んだら宇賀に会えへんねんで?せめて告白してからにしいや。で、フラれたら、そんとき死ね。そやないと―― 」「フラれた」

 うつ伏せのまま、先ほどとは打って変わってキッパリと立花はそう言った。

「え?」と三國。聞こえてはいたが、信じ難かった。

 数秒黙っていたが、爆発するように立花は大声で「フラれたんだよ!思いっきし!バッサリとね!」と叫んでのっそりと立ち上がった。その顔には、乾いた笑顔が貼りついていた。泣かないよう顔に力を入れているときの表情そのまんまであった。

「さーてさてさて、フラれたことだし、さっさと死のうかねェ!」

 立花は机の上のあれやこれやを蹴散らして乗っかり、垂れ下がっている縄の輪に首を通そうとする。

「待て待て!」三國は慌ててそれを止める。「せめて俺のいないときにしてくれ」などと酷いことを言いつつ、どうにか立花を机の上から降ろす。三國はカミソリを拾って縄を片っ端から切っていった。

切り捨てた縄たちをとりあえず部屋の隅に置いて振り返ると、立花は今度、ウイスキーを山賊のようにラッパ飲みしていた。またも慌てて止める。

「お前なァ、フラれたってホンマか?ホンマに告白したのか?」

「したよ!したんだよ!」立花はムキになって叫んだ。既に酒臭い。飲む際にほとんど口の端からこぼれていたせいである。もったいない。

「僕ァね、勇気振り絞って気持ちを伝えたさ!」震える声で彼は言った。一人芝居のように大げさだった。立花は床に両手をついて泣き始めた。巨躯が絶望に震えている。泣き声が三國には鬱陶しかった。

 三國は立花が告白したことをまるで信じていなかった。出会ってから丸五年。立花の基本的なスタンスは、宇賀に惚れてもらって、あっちから告白してくるのを待つという、食虫植物作戦であった。圧倒的なまでの受け身体勢を取り続けてきた立花が、大怪我したくないから肝心なところでは逃げてきたチキン野郎が、何の兆候も計画も相談もなく、いきなり告白。

「( 絶対嘘や。そんな度胸ないやろ) 」むせび泣く立花を見ながら彼は冷静にそう思った。

「お前、なんで告白したん?なんか、いけそうやなって思ったん?」三國は尋ねた。なんにせよ事情がまるでわからない。もしかしたら宇賀にフラれた夢を見た、というオチかもしれないのである。立花の場合それがあり得るから厄介なのだ。

 立花の顔は鼻水と涙と唾液とよくわからない汁でぐっちゃぐちゃ。その顔を上げて首を振った。

「僕ァね、僕ァね、悔しいよ」泣き過ぎていて聞き取るのが困難だった。三國は辛抱強く訊く。「何が?」「あんな、あんな女に・・・あんな女性に」「エエってそんな配慮」「あんなレディに」「それはホンマに要らん配慮やわ」「あんなレイディに」「帰んで、ふざけてんねやったら」「ごめんよ!」立花はふーっと息を吐いて鼻をすすった。ここまで大げさに泣かれると、申し訳ないが気の毒だなと思えなくなってくる。ちょっと笑いそうにすらなってしまう。

 少し落ち着いたのか、立花はさっきよりは聞き取りやすい声になっていた。「あんな女に、自分の青春を捧げてたと思うと、悔しくてたまらないよ!怒りすら湧くよ!」「あんな女って、宇賀のこと?」

 頷く立花。これには三國も少々驚いた。これまで、どんなことがあっても宇賀への想いだけは揺らがなかったのに。

「えらい言いようやなァ」「あいつはね、あいつはね」口が震えてうまく言葉が出ない様子。それでも彼は恨めしそうに、悔しそうに言った。「あの女はね、金のない男なんかなんの価値もないし興味もない、失せろって、僕にそう言ったんだよ」

 最低な女だ、不味いタコでも吐き出すみたいに立花はそう付け足した。

 なお、立花の家はたしかにお金持ちだが、彼の両親は「後に偉人となる者は、須らく苦労すべし」と、最低限も最低限の仕送りしかしていなかった。だから立花自身が金のない男であることは事実である。

 が、三國には、宇賀がそんなことを言うとは思えなかった。腐れ縁とはいえ、三國や立花と未だに親しくしている時点で宇賀もかなりの変人ではあるが、少なくとも二人よりは自立していて、考え方や感性はまともである。

 というか三國は、立花が告白したことすらまだ信じていなかった。どうせまた立花がとんでもない思い違いをしているだけだろう、そう思った。

 なんにせよ立花は死んでいなかったし、やはり宇賀絡みで落ち込んでいただけだったので、三國の中ではもう問題は解決したのだが、立花の勢いは止まらない。鼻水をすすり、しゃくりあげながら恨み節に言葉を吐く。「何よりも僕ァね、あんな女に惚れてた自分の間抜けさが恥ずかしいよ。恥の多い生涯を送ってきたけど、あんな女に惚れてたってことが最大の恥だよ」「もっとあるやろ、恥。だいたいフラれたからって相手悪く言う方が恥やと思うけど」「・・・うるさいうるさいうるさいうるさい!」「うるさいんはお前じゃ!」「女なんか・・・女性なんか・・・」「だから配慮要らんて。俺相手に配慮して何になんねん」

 思い出したように、立花はまた突っ伏して泣きだした。

 三國は、こんなにも憐れな生物を見たことがなかった。フカヒレのためにヒレだけ切り取られて海に捨てられる鮫のようである。

 三國は一旦台所に行った。煙草に火を点けて、壁に寄りかかってため息を吐き、スマホをポケットから出して宇賀に電話をかけた。なかなか出ないので切ろうかと思ったところで、「もしもし」と宇賀。

「もしもし」と三國。しばらく間があって彼女は、「どちら様ですか?」「俺や俺」「・・・あのォ、どちら様ですか?」「なんで俺の番号登録してへんねん。三國や、さっき電話したばっかやろ」「ああ、久しぶりだね」「どんな感覚で生きてんねん、ほんの数十分前やぞ」「ごめんごめん、ちょっと精神と時の部屋みたいな部屋に入ってたから」「精神と時の部屋でエエやろ。なんやねんみたいなものって」「みたいな部屋ね」「どっちでもエエわ!」

 宇賀は自分で言い出しておきながら、さっさと話題を切り替えた。「で、どうだった?ケンは」「いつもより落ち込んどるな。自殺する気らしいわ、まあ口だけやろうけど」「でも心配だからさ、ちゃんと話聞いたりしてあげてね」「心配ならお前が来いや。てか、お前にフラれた言うてんねんけど」「ああ、うん」

 何でもないことのように彼女は認めた。

 まさか本当にフラれたとは思っていなかったので、けっこうな驚きでなかなか言葉が出なかった。事実を受け入れるために、煙をゆっくり吐いた。「ホンマに?あいつに告白するような度胸あるとは思えへんけどな」三國はまだ疑っていた。

 宇賀はそのときの状況を思い出そうとしばらく「うーーーん・・・」と唸った。「告白っていうか、私と彼氏が出かけようとしてるところに、ばったり出くわして、混乱して思わず言っちゃたって感じだったね」

やっぱりなと三國は思った。立花が正面から勇気を振り絞って立ち向かうわけがない。混乱してあれやこれやと口走っている立花の姿がありありと浮かんだ。

「彼氏って、あのマラソン選手の?」三國はおぼろげな記憶を頼りに訊いた。彼女はあっさりと答えた。「いや、あの人とは別れて、今は違う人」「早いな、彼氏できんの。まあエエねんけど」「やっぱり四十九日空けた方がよかった?」「それは人死んだときのやつやろ。恋人と別れたくらいで喪に服さんでエエ。そうやなくて、いやその前に、立花に恋人いんのバレたのって初か?」

 彼女はまた低く唸ってから、「そうだね。だから相当ショックだったみたい」「あいつもアホやなァ」

絶対に叶うはずのない恋をしていた立花に、思わず同情してしまう。同情の余地がないくらい見当違いなアプローチをしていたのだが、まあそれはそれとして。

「そういやあいつが、フラれたときお前から〈金のない野郎に興味ねえよバーカ〉って言われたって嘆いてんねんけど」

 ケンらしいなァ、そう言って彼女は笑った。「まさか信じてるわけじゃないでしょ?」「二信八疑ってとこやな」「割りなよ」「割る必要がないやろ―― で、どうなん?」彼女は控えめなため息を吐いた。わざわざ言うまでもないことを言わすな、というふうに。

「言うわけないし、そんなこと思ってもないし、政治家はいつの世も口だけだし」「安い社会批判はエエって」「数学のノートは青って決まってるし」「決まってへんわ。まあ、わかるけど。―― で、なんて言ったん?」

 宇賀は思い出すのも面倒くさいというのを隠さずに言った。「私が言ったのは、親のお金で大学行って、ろくに勉強もしないでのうのうと暮らして何から何まで親のお金に依存してブクブク肥えてる人間と対等に付き合うのは無理って言ったの」「俺はお前を信じてた」「調子のいい奴め」「あと、今の言葉は俺にも刺さった」「似た者同士だよね」「一緒にすんな。少なくとも俺は太ってへん」「でも痩せたじゃん。不健康になってるのは一緒だよ」

 言い返せず煙を吐く三國。煙に巻ければよかったのだが。などと言ってる場合ではない。

 宇賀はさっさと切り上げようとしていた。

「じゃあケンのこと頼んだよ」「お前もこっち来てくれ。お前来てくれたら一発で問題解決すんねんから」「私、今草津にいるの。デート中」「エエ身分やな、幼馴染死のうとしてんねんで?」「一緒に地獄めぐりでもしてきたら?」「温泉地繋がりでか?やかましいわ!」「・・・何?」「・・・忘れてくれ」

 ノリノリで放った言葉を撤回したいときが人生には多々ある。大抵無理である。「言っとくけど―― 」宇賀が釘を刺すように言う。「ケン死なせたら恨むから」「どいつもこいつも勝手やなァ、俺への負担考えてくれ」「どうせ暇じゃん」「何か都合があるかもしれんやろ」「・・・大学中退した無職に?」「都合があって無職の人もおんねんで?」「三國の場合は面倒なだけでしょ、労働が」「労働が面倒じゃない人間なんかおらんねん。みんな面倒やけど生活のためにしゃあなし働いてはんねん」「私の彼氏は仕事が楽しくてしょうがない、生きがいだって言ってるけど」「そいつとは別れた方がエエな。どうかしてる」

 そこで電話は切られた。電話が切れた音だったのか、宇賀がキレた音だったのか。どっちにしろ大した違いはないが。

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