第6話 太宰に憧れるのは中学生
宇賀からの電話を受け、まず三國は煙草を一本灰にした。それから数分ボーッとして、ようやく立花を訪ねる気になり、アパートを出た。
文句のつけようがない快晴。しかし風にはまだ冬の名残が。
風に吹かれながら住宅街を歩くこと一分弱、三國は早くも出てきたことを後悔していた。無職の男の肌を、風がしつこくつねる。思わずため息が出る。
「( でもまあ考えてみたら、あいつから十日も連絡ないって変やな。何があったんやろ。どうせ宇賀絡みやろうけど。それか、体でも壊してんのか?大学入ってからブクブク太りよったからな。いつ死んでもおかしないくらい太ってんもんなァ。何食ったらあんなに太れんねやろ) 」
三國の考え事は長く続かなかった。なぜなら二人のアパートは瀕死のキリギリスでも往復できるくらいに近いのである。
「( またろくでもないこと考えてんねやろうな) 」アパートの狭い駐車場を横切りながら、今からでも引き返そうかと思う三國。しかしここまで来て引き返すのもなと思い直した。
自分のアパートのオンボロさを棚に上げて、立花の住むアパートのオンボロさに改めて感心しつつ、ドアの前に立ってため息を吐いてからインターホンを押した。
しかし、待てど暮らせど反応がない。
「( 何してんねん) 」三國は早くも苛々していた。もう一度押すも、返事はない。
「( はよ出ろや。何してんねん。死んでんちゃうやろうな) 」
早朝( 彼にとっては) に起こされ、わざわざ赴き、なのに無視。苛々は募るばかり。相手が立花でなければ留守という可能性もあるが、立花が平日のこの時間に家にいないわけがなかった。平日の昼間は宇賀が大学に行っているため、立花からすれば外に出る意味がないのである。彼が昼間外に出るのは夕方くらいであり、それは近くのスーパーでお惣菜や菓子パンに片っ端から値引きシールが張られる時間でもある。完全なる引きこもり。大学生失格。ただ、引きこもりに関しては三國自身も引けを取らないため文句は言えない。
三國はドアをノックして声をかけた。
「おーい、はよ開けろて。寝てんのか?おーい」
静かな住宅街に響くノックの音と、自分の声の場違いさに少し気まずくなる。そして、思い出したように自分の格好を確認した。部屋着として着ている高校時代の緑のジャージ上下。平日の昼間に、上下ジャージの男が安アパートのドアをノックしながら関西弁で喚いている。三國は自分を客観的に見つめ直し、まんまチンピラであることを認めざるを得なかった。
「( 借金取りやと思われたらどないしよ。嫌やなァ、ホンマあいつ何してんねん。チャイムで起きろや) 」
三國はインターホンを押しまくった。押しすぎて戻らなくなっても構うものかと。
すると突然、ドアが勢いよく開いた。外開きのドアが三國の顔面に直撃する。
「何すんねん!」鼻を押さえながら、涙目になって三國は怒鳴った。
鼻を労わりつつ顔を上げると、玄関に立花がぬぼーっと立っていた。地獄にあるブラック企業でサービス残業中の小鬼のように陰気臭い顔をしている。野暮ったい長い髪と脂肪まみれのジャージの巨体が、その陰気さに拍車をかけていた。
「インターホン鳴らしてんねんからまず返事せえよ。急にドア開けんなや」
三國の苛立ち由来の文句も、立花の耳には届いていない様子である。虚ろな目で三國の顔を見つめていた。やがて小さな小さな声で何かを呟くと、ゆっくり後ろを向いて部屋の中に戻っていった。
近年まれに見ぬ落ち込みっぷりに、三國は呆気にとられていた。
三國はこれまでにも立花が落ち込んでいるのを幾度となく目にしてきた。数えていたらキリがないくらいである。父親に六法全書を投げつけられたとき、母親に琴でどつかれたとき、教師に濡れ衣で説教されたとき、服屋で店員に足の短さを笑われたとき、宇賀に遊びの誘いを断られたとき、生理で機嫌の悪い宇賀にそっけなくされたとき、誕生日プレゼントで宇賀にあげた万年筆を一度も使ってもらえずに一年が経ったとき( 今日日万年筆なんて使いようがないのだが) 。とにかく、ありとあらゆることで落ち込むのである。三國なら苛々したり怒鳴り返したりするようなことで、立花の場合は落ち込んでしまうのである。三國のように瞬間的にその場で怒れるというのは、一種の才能なのだ。
それにしても、今回の落ち込みっぷりは尋常でなかった。この世の終わりどころかあの世の終わりという感じ。
何があったのか疑問に思いつつ、狭い台所を抜けてドアを開けて部屋に入った。台所はゴミ袋まみれで通るのもやっとだった。いつもは宇賀のおかげでもう少しきれいなのだが。
「( ホンマに宇賀も会うてへんねんな) 」
立花の部屋も三國のアパート同様、狭く、ものの少ない、でも決してきれいではない部屋であった。はずなのだが。
久しぶりに目の当たりにするその部屋は、自殺見本市の会場になっていた。
「なんやこれ」思わず呟く三國。
天井からは、芸術作品のように何本もの首吊り用の縄が吊り下げられ、部屋の中央にある丸いローテーブルの上には、カミソリやら大量の睡眠薬やら酒瓶やら七輪やらガムテープやら混ぜるなキケンと表記されている漂白剤やらなんやらかんやらが所狭しと置かれていた。左奥にあるテレビはなぜか叩き割られ、「ハンギョドンに花束を」と書かれた紙が貼られていた。こじんまりとした本棚には自殺に関する本や自殺が題材の小説や漫画が詰め込まれていた。カーテンがきっちり閉められているせいで陽光は完全に遮断されている。それに加えて蛍光灯も点いておらず、部屋のあちこちに火の灯ったろうそくが置かれていて、それらの弱々しい光だけが部屋をぼんやりと局地的に照らしていた。しかもあちこちに台所同様、ゴミ袋や袋に入りきらなかったゴミがそのまま捨て置かれていた。既に何人かこの部屋で自殺を遂げたのではないかという感じの陰気さであった。空気は淀み、ゴミの大群のせいで嫌ァな臭いがする。息をするだけで肺が腐っていくような気分だった。
三國が唖然と、「なんやこれ」と同じセリフを吐いた。立花はまたもぶつぶつと何かを呟いたが、何も聞き取れない。
三國はとりあえず換気をしようと、ろうそくを避けて窓際まで行き、カーテンと窓を開けた。気持ちのいい陽光と風が部屋に舞い込んでくる。三國が素早く動いたことで、ほこりがぶわっと舞い、風がそれをかき混ぜて、光がそれを照らした。
立花はテーブルのそばにあぐらをかいてうつむいていた。計算したかのように、あるいは光が嫌がったかのように、陽光は立花に届く寸前でぷっつり途切れていた。
三國は心配半分呆れ半分で、立花の横にひとまず腰を下ろした。カーペットが死の気配をたっぷりと吸い込んで冷えていた。
ぶつぶつと呟く立花。三國はどうにか聞き取ろうと耳を寄せた。
「恥の多い生涯を送ってきました」と立花。声は暗くざらついていた。
「やかましいわ。お前『走れメロス』しか読んだことない言うてたやろ」「・・・昨日『人間失格』読んだ」「影響受けんの早いって。中学生か」「神は死んだ」「ニーチェて・・・いよいよ中学生やないか」「これが一生か、一生がこれか」「やかましいわ。お前樋口一葉なんか読んだことないやろ」「樋口一葉の多い財布を拾いました」「そんな五千円札だらけの財布拾うな」「吾輩は猫である」「それは落ち込んでる奴のセリフちゃうわ」「名前はアッガイ」「・・・」
三國は思いのほか立花に余裕がありそうで、心配したことを、というか来訪自体を後悔していた。
喉が渇いたので三國は冷蔵庫を物色したが、いつものごとく揚げ物やら甘いお菓子やらケーキやらジュースやらがパンパンに詰まっていて、水やコーヒーの類はなかった。
いつ洗ったのか定かでないコップを水ですすぎ、水道水をやかんで沸かして飲んだ。意外と繊細な男なのである。
立花の分も沸かしてコップに注いだが彼は受け取らず、低く呻いてカーペットにうつ伏せになってしまった。とりあえずコップをは机の上のものをどかしてそこに置いた。
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