第5話 チェレスタ II

 荒れているのは想像以上だった。

 あの日、門からあの部屋の外まで行くのに、下がアスファルトで舗装ほそうされている、なんてことは一度も意識しなかった。

 しかし、今日は、そのアスファルトがひび割れ、陥没かんぼつし、陥没しているところに泥水が溜まっていることをいちいち気にしなければいけない。

 大きな木の枝が落ちて、しかも道の上で半分に折れていた。

 アスファルトのひび割れから草が高く伸びて、行く手を遮っていた。

 両側から蔓草が地面をって来て、アスファルトを覆っていた。

 足もとに用心し、落ちていた木を乗り越えて行く。

 あの日は意外に近いと思った部屋までが、遠かった。

 水と枯れ草と枯れていない草に靴を半分ほど水没させて、あの日、立っていたところまで行く。

 出窓のガラスは割れていなかった。

 電気はついていない。

 ソファのセットがいまもあるかどうかはわからない。少なくとも、まんなかの区画に置いてあった食卓はいまはないようだった。

 もちろん、だれの姿も見えない。

 けれども。

 チェレスタの音だけは。

 紛れもなくあのチェレスタの音だけは、聞こえていた。

 あの少女はやはり病気持ちで、あれからすぐに亡くなったのだろうか。

 その霊が、いまもこうやってここでチェレスタの音を……?

 いや。

 あの少女はもっと巧かった!

 あの少女の霊ならば、こんな、初心者が楽器をいじっているような音は鳴らさないだろう。

 ぼくは、あの日の小さい出入り口へと回ってみた。

 たぶん、ここで、ドアが開かなくて終わりだろう、と思う。

 そうではなかった。

 ドアははずれていた。

 もしかすると、過去のある時点で、ほんとうに犯罪者が侵入して、そのときにドアをはずしてしまったのかも知れない。

 ぼくは、傘は入り口に置き、靴のままなかに入った。

 少女の部屋への扉は閉まっていたけれど、ノブを回すまでもなく、軽く引っぱっただけでドアは開いた。

 秋の夕暮れ、雨の日、しかも外は放置されたちのせいで暗い。

 それでも出窓から外の薄明かりが部屋に入ってきていた。

 何もなかった。

 応接セットも、食卓も、椅子もなく、だだっ広い空間が広がっていた。もちろんテレビも電話もない。

 造りつけの本棚には、本は一冊も残っていないようだった。

 床は、その薄明かりにてかてかと光っていた。

 部屋を区切っていた四角い柱には細い蔓草が這い上っていた。

 柱と床のあいだにできたすき間から成長してきたらしい。

 ぼくは、その鈍く光っている床に靴を載せ、体重をかけてみた。

 思った通りだった。

 ぶよん、と沈んだ。

 雨漏りで、腐っていたのだ。

 それだけではなかった。

 この暗いなかでも、目が慣れればわかった。

 木調の壁は。

 少女のオレンジがかったベージュの服が溶け込んで見えた、あのきれいな木調の壁は、黒ずみ、ところどころ木が剥がれて向こう側の建材が見えていた。

 黒ずんでいるのは、木が湿っているだけではなく、たぶん、かびのせいだろう。

 ぼくは、足もとに木片が散らばっているのに気づいた。

 ほかのところの床には何も落ちていないのに、この、勉強のためのスペースの、入り口に近いところにだけ、木片が散らばっているらしい。

 あの日、ソファの上に置いてあった積み木だろうか。

 こん、と、澄んだ音色が響き渡って、ぼくははっとした。

 つづいて、リズムをつけて、きん、きん、こん、と高音と低音が。

 振り向く。

 勉強机は造りつけだったらしく、そのまま残っていた。もちろん机の上の分厚い辞書はない。

 でも、チェレスタは……?

 チェレスタはなくなり、その場所には、昔よく見た「りんご箱」のような木の箱が積んであるだけだ。

 そのとき、そのぼくの思いに抗議するように。

 細い、高い音の和音が響き、続いて中低音が長く鳴り響く。

 あっ、と思った。

 そのりんご箱に近づいてみる。

 下にはあの積み木が散乱しているので、それを足でかき分けながら。

 足で蹴ったりするのは少女に悪いかな、とは思ったが、手で拾っている余裕なんかなかった。

 箱をのぞき込む。

 底には金属の板が並んでいて、鈍い光りを放っているのが見えた。

 この朽ち果てた木ばかりの部屋で、この金属の機械的な並びは異様だ。

 頭に軽い衝撃があり、そこから何かがにじんでくる。

 一瞬、撃たれて、血が……などと想像してしまったが、そんなことはない。ただ髪の毛が湿っているだけだ。

 雨漏り。

 上から落ちてきた雨だれが頭に当たり、髪の毛を濡らしたのだ。

 また、きんっ、と音がして、余韻が響く。

 ぼくはとびのいた。

 チェレスタは鍵盤のついた鉄琴だと、少女は言っていた。

 その金属板の並びが、その鉄琴の部分。

 チェレスタの上の天井は崩れていた。

 そこから雨が降るたびに雨がここに降り注ぎ、チェレスタの木材を腐らせて、チェレスタを崩壊させた。

 もしかすると、天井が落ちたときに、チェレスタを直撃して、どこかを壊したのかも知れない。どういう仕組みかは知らないけど、その直撃でチェレスタの鍵盤が吹き飛び、その鍵盤の「鍵」が散らばっている。

 それがこの周りにある「積み木」の正体。

 チェレスタの本体には、その壊れたところから水が浸入して腐り、かびで黒ずみ、こんなりんご箱のようになったのだろう。

 ごっ、と音がして、建物が震えた。

 突風が吹いたのだろう。

 少し遅れて、天井の崩れたところから雨粒がばたばたばたっと入ってくる。

 チェレスタが、奇妙な和音を奏でた。

 力いっぱい奏でた。

 澄んだ音色なのに、不協和音というのだろう、聴いて体が受けつけない不愉快な音。

 「出て行け!」

 そう警告されたと思った。

 いや。

 思う前に、ぼくはその場からとびのいて、廊下へ出て戸口から外へと転がり出ていた。

 転がったわけではないけれど、床から地面に跳び下りて、惰性だせいで二‐三歩は止まらないほどの勢いだった。

 傘をつかんで、あの門へと足早に急ぐ。

 息は荒くなっていた。

 鼓動が激しく速く打っている音が耳にうるさく響き渡っていた。

 チェレスタの音は、その鼓動の音に遮られて聞こえない。

 たぶん、心理的に、聴かないようにしていたのだろう。

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