第3話 チェレスタ I

 「ああ、これ?」

 その楽器のことをぼくが言ったのが、少女はやっぱり嬉しかったらしい。

 「これ、ピアノじゃなくて、さ」

 少女は勉強机の前から立ち上がり、その「ピアノじゃない」楽器の前の椅子に腰掛けた。

 ふたを開ける。

 「ド」、「ミ」、「ソ」……だろうか?

 鍵盤を押して音を鳴らした。

 ピアノじゃない。

 しいて言えば、子ども用のおもちゃのピアノに似ている。

 でも、そんなのとは較べものにならない、澄んだ、高い音。

 高貴な音色。

 ぼくは、自分の椅子を少女の斜め後ろに持っていって、座ってから言った。

 少女が言ってほしいと思っているはずのことを。

 「たしかに、ピアノじゃないね」

 「チェレスタっていうんだ」

 少女の頬はさっきより赤味が増していた。

 こんどは、右の手と左の手で、和音を、ぽん、と押してみる。

 「ピアノに似てるけど、音が違うでしょ? 弦を叩いたときの震えがない、っていうか」

 「うん」

 こんどは、反応に少し工夫が必要になる。

 「最後まで澄んだ音色だね」

 「鉄琴をね」

と少女は言ってから、

「あ、鉄琴ってわかる?」

とぼくに聞く。

 「えっと」

 知ってはいる。小学校の音楽室にあるのを見たこともある。

 でも、どう説明するのか?

 「あの、コンクリートの建物でしょ?」などとはぐらかすのはなし。

 だから、下手なたとえだけど

「あの、シロフォンの木の板が、鉄になった楽器でしょ」

と言うと、

「うん」

 わりと考えてから言った答えなのに、少女は軽くそう反応しただけだった。

 続けて

「チェレスタは、鉄琴を、鍵盤で鳴らす楽器なんだ」

と説明する。

 「鉄琴を手で叩いて鳴らすのなら、どうしても叩ける音の数が限られるでしょ? でも、鍵盤で鳴らせば、ピアノとまったく同じにはならないけど、ピアノと同じくらいにいろいろな表情を作れるじゃない?」

 「表情」ってことばを使うんだ、と、そのときなぜかぼくは感心した。

 それから少女はいろんな曲を弾いてくれた。

 音楽の成績は平均点以下だったので、ぼくがそのころ知っていた曲の数は限られていたけど、それでも、何曲かはわかったし、何曲かは少女が説明してくれた。

 「きらきら星」とか、小学校でリコーダーを習い始めたころに習った「月夜」という曲とか。

 チェレスタで弾いたチャルメラの旋律は、どうもラーメンには合わないような感じがした。

 そうめんや、スパゲッティでもない。

 「じゃあ、栗のクリームを細く絞り出した、そんな感じ?」

とぼくが言うと、少女は笑いながら

「そうそう」

と言ってくれた。

 いまならモンブランのケーキの上に載っているマロンクリーム、と言えたのだろうけど、当時は「モンブラン」なんてケーキの名も知らなかった。

 「屋根より高い鯉のぼり」は、屋根より高いのは当然だけど、もっと高いところに泳いで行ってしまいそうだった。

 「楽器の音色が変わるだけで、こんなに印象が変わるんだね」

とぼくが言うと、少女は、得意そうに、うん、とうなずいた。

 楽しそうだった。

 それから、少女は、自分が得意だという曲を何曲か弾いてくれた。

 「クシコスの郵便馬車」とか、「トロイメライ」の最初の部分とか、「月の光」という曲の最初の部分とか。

 ちなみに、「クシコスの郵便馬車」とはこの少女が言ってくれたタイトルだけど、いまはそのタイトルでは呼ばないらしい。ではどう呼ぶのか、というと、ぼくは知らない。

 「エリーゼのために」も弾いてくれた。

 なんかオルゴールみたいだった。だから、正直にそう言うと、少女は肩をすくめて見せて

「じゃあ、「乙女の祈り」も?」

と言って、「乙女の祈り」を弾き始めた。

 聴いていたぼくは、突然、寒気さむけに襲われた。

 ピアノで弾く「乙女の祈り」は、たぶん、好きな人と両思いになれますように、という、そういう祈りなのだろうと思う。

 でも、チェレスタで弾いた「乙女の祈り」は、あまりにピュアだった。

 人間が相手で、その人間と両思いになれるように、という祈りだとすると、ピュアすぎた。

 むしろ、さっきの鯉のぼりと同じように、天の高いところで、天国へと響いていく祈りのように聞こえた。

 でも、少女は、そんなぼくの気もちには気づいていないようだ。

 あの赤いところとそうでないところがまだらになった頬で、ぼくをふり返る。

 「どう?」

 どう答えたらいいだろう?

 「とてもピュアな祈り、って感じだね」

と作り笑いして答えるのでせいいっぱいだった。

 少女は、ふうっ、と息を大きくついて、笑った。

 その息のぶん、ぼくの背中の寒気は強くなる。

 ぼくが時計を見たのは、このまま少女のチェレスタを聞くと、何度も何度も同じ寒気を感じてしまいそうだったからだ。

 それは、耐えられない。

 正直、少女といっしょにいたい、できればいつまででも、とは、思った。

 でも、寒気が走るのには耐えられない。

 時計の秒針は、一秒ごとに止まりながら、時を刻んでいた。

 時間は、六時五分。

 いまのようにSNSやスマホで「帰りは何時になる」と連絡を入れられる時代ではない。

 そのころのぼくの家では、ぼくの帰りが六時ごろならば許してもらえても、六時半になるとかなりシビアに怒られる、というのが経験だった。

 「じゃあさ」

 ぼくは言った。

 「ぼく、そろそろ帰らないといけないから」

 そこで少女の反応を見るのが怖くて、すぐに続けて言う。

 「最後に、ぼくがここに来る前に弾いてた曲って、弾いてくれるかな?」

 「ああ、「コンペイトウの踊り」?」

 少女はぼくが帰ることについては何も言わず、その曲名を言った。

 「「コンペイトウの踊り」は最初からチェレスタのために作った曲だから、へんな感じはしないはずだよ」

 そう言って、少女は、その曲を弾き始めた。


 少女はまたあの小さい戸口までぼくを送ってくれた。

 ぼくは

「また来ていい?」

と聞いた。少女はごく当然のように

「うん」

と答えて、軽くうなずいた。

 そこで、ぼくは

「でも、そこの門、いつも閉まってるじゃない?」

と聞いた。すると、少女は、口を結んで、短い間隔でまばたきして

「閉まってるときはだめだけど、開いてるときなら、いつでも」

と言う。

 ぼくは何も言わないことにした。

 もしかすると、ぼくが思っていたよりも、その門が開いている日は多いのかも知れない、とも思った。

 「じゃ、また」

とぼくが言うと、少女も

「じゃあ、またぁ」

とおちゃめに言ってくれた。

 十月も終わりに近いその日。

 六時過ぎに外に出ると、あたりはもう夜だった。

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