第2話 少女の部屋
手招きしているときにはぼくよりずっと小さい女の子だと思っていた。
でも、勝手口なのか通用口なのか、少女がいた部屋の少し向こうの入り口の扉を開けてくれたときに見ると、ぼくと同じぐらいの年ごろではないかと感じた。
「さ、入って入って」
少女は、女としては少し低めの、少しざらざらした声で言った。
ぼくはためらって見せた。
「でも、お父さんやお母さんは?」
無関心そうに少女は答えた。
「いまはいない」
中学生のぼくは、さらに良識を見せてためらって見せる。
「でも、お父さんやお母さんがいらっしゃらないときに、勝手に上がったりしたら」
「いいのいいの」
と少女は言った。
「わたしがお友だちを連れて来たって知ったら、喜ぶと思う」
「男でも?」
ぼくが口ごもりながら聞いたのに対して、少女は少しの間もおかず
「うん男でも」
と答える。とてもはきはきした言いかただった。
だったら、何の問題もない、ということにして、ぼくは家に上がることにした。
次に想像したのは
「まあまあ。ようこそいらっしゃい」
とか言いながら、
そんなことも起こらず、ぼくは、壁側を除く三方向にガラス窓の出窓がついているその少女の部屋に案内された。
部屋の入り口から見て右奥が応接セットのある区画だ。緑がかった色の革を張った大きなソファが、小さいテーブルを三方から囲むように並べてある。
そのソファの一つに積み木か何かが出してあり、散らかってはいないもののごちゃっとまとめてあるのが目を引いた。積み木の色が赤や青や黄色の原色なので、なお目についたのだろう。
手前に四角い柱が二本ある。
その二本の柱の手前、部屋のまんなかはどうやら食事のための場所らしかった。
まんなかに木の食卓があり、食事に使うらしい木の椅子が四脚置いてある。テーブルの上には
入り口のほうにテレビが置いてあり、奥側には壁際に電話と大きな戸棚が置いてある。テレビの上も下も造りつけの戸棚らしかった。
その手前にもう二本の四角い柱がある。
入り口から見てその柱の左側が勉強机や本棚のあるスペースだった。このスペースがいちばん広い。
その勉強スペースは、出窓の下もほとんどが本棚になっていて、そこにいろいろな本が詰め込んであった。
いま思い出してみると、たぶん児童書や絵本が多かったのだろうと思うが、色あせた年代物のクロス装の本もあり、百科事典のようなものも並んでいた。
勉強机の上に置いてあったのは英語の辞書だっただろうか。
そうだと思うのだが、縦、横、分厚さとも、ぼくが持っている辞書の倍ぐらいあった。
出窓の張り出し部分には、花の入っていない花瓶が置いてあったり、ぬいぐるみがまとめて置いてあったりと、整ったこの部屋のなかでは少し雑然としている感じがした。
全体が暖かい色で均一に照らされているような照明は、いまならばLEDがあるので実現するのは難しくはないだろうけど、当時としてははかなり手間をかけて造り込んだものらしい。
天井の白い半透明プラスチック板の上に蛍光灯を仕込み、光が直接に下に当たらないようにシェードの上に白熱電球を配置して、光をやわらかく部屋全体に
「なんかすごくいい部屋だね」
とぼくは言った。
べつに部屋を
「ふふっ」
と少女は笑って、それ以上答えなかった。
隠しごとをする少女のよう、というより、大人っぽいミステリアスさ。
そのときぼくが感じたのは、いま思うと、そういうものだっただろうか?
「そこの椅子に座って」
と少女は勉強スペースのまんなかに置いてあった背もたれのない椅子を指さす。
「ああ」
とぼくは言われたとおりにする。
少女はテレビが置いてあるところの下の戸棚を開けた。そこに小さい冷蔵庫があるらしい。
大きい瓶を取り出す。オレンジジュースらしい。
上の戸棚からガラスのコップ、というより「グラス」を出して、そのジュースを、ぼくのぶんと自分のぶん、それぞれ注いでくれる。
「氷は取りに行くとめんどうくさいから」
と言って、氷は入れずに、少女はそのジュースをぼくに渡してくれた。
自分のぶんも持ってきて、勉強机の前の椅子に座って飲む。
そのころ、「ジュース」というと、色のついた砂糖水に、ときに申しわけ程度に果汁の入ったものが普通だったけど、これは百パーセントのオレンジジュースだったと思う。
「ここに一人で暮らしてるの?」
とぼくが聞くと、少女は、きょとん、として
「この部屋で、ってこと?」
と聞き返した。
ぼくも何を聞いたのか、自分でもあまりはっきりしない。
たぶん、知りたかったのは、きょうだいはいないのか、とか、そんなことだったろうと思う。
ぼくが返事しないでいると
「この部屋だけで一人で暮らせるようになってるよ」
と少女は言った。
「寝室はそこの奥だし、お手洗いはそこだし、ご飯はここで食べられるし」
と、指さして説明する。
応接セットの奥にあるドアの向こうが寝室で、その手前のドアがそのお手洗いらしい。
そこで、ぼくは、当然、聞きたかった。
少女の名。
いま何歳か。
どこの学校に通っている?
それで、こちらも、名まえとか、ここのいちばん近くの公立の中学一年であることを話すつもりだった。
でも、なぜかそれはためらわれた。
少女は顔立ちは幼い。ちょっと顎の張った丸顔で、瞳は黒い。髪は外から見たとおり黒と茶色の中間で、軽くウェーブがかかっていた。
顔立ちは幼いけど、背はぼくより少し高いらしい。もっともぼくは小学校でも中学校でも背の低いほうだった。同じ歳でも女の子でぼくより背が高い生徒は何人もいた。
着ていたのは、やっぱりオレンジがかったベージュのワンピースで、胸のところがちょっと開いていた。
この時代、それぐらいでも、中学一年生男子にはじゅうぶんに刺激的だった。
それはいいのだけど。
少女の頬は、まだらに赤さがにじみ出ている、という感じだった。
それだけなら、健康な頬の赤さなのかも知れない。
でも、肌の地の部分が、おうど色、もしかすると濁ったオレンジ色のようで、不自然だと感じた。
少女はしゃべるのは普通だったが、しゃべっていないときに、急に短く浅い息を繰り返すことがあった。
それと、少女がこの部屋だけで生活が完結するようになっていることと、関係があるのか?
それとも、ただ家がお金持ちだから、ぜいたくをさせてもらっているだけなのだろうか?
ぼくがもういちど勉強机に目を移したとき、そのとまどいは深くなった。
分厚くて難しそうな辞書はある。
ほかにも、机の前には本がいっぱい置いてあるのだが。
教科書は?
小学校の教科書でも、中学校の教科書でもいいけど。
見当たらない。
机の下にお行儀よく並べてあるバッグも、どれも通学鞄らしくない。ランドセルもない。
いまの生徒ならば通学鞄らしくない鞄で通学するなんてざらだけど、そのころは、学校の決めた鞄で通学するのがあたりまえだった。
それがない。
学校に通っていないのか?
それとも、学校に持っていくためのものは、別の場所にまとめてあるのか?
ふと、少女と目が合った。
ぼくが、何も言わずに机をじろじろと眺め回しているのに気づかれたのかも知れない。
少女は軽く眉をひそめた。
ほんとうにひそめたのか、ぼくにそう見えただけかは、いまとなってはわからないけど。
何か、話を
いままであまり気に留めなかったのは、やはり木調の仕上がりが部屋に溶け込んでいたからだっただろうか。
ぼくは、聞いた。
「ピアノ、弾くの?」
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