秋に鳴らす鍵盤

清瀬 六朗

第1話 「お屋敷」の少女

 街の中心から少し離れたところにその「お屋敷」はあった。

 いまは駅のほうが街の中心になってしまったけど、江戸時代の街の中心はむしろこの「お屋敷」のあたりだったらしい。

 ぼくが幼いころにはまだうっすらと江戸時代の街の面影が残っていた。二階に「うだつ」という小さい防火壁がついた古い商家の建物も、商売はやめていたけれども残っていた。また、家の表の柱に、柱ごとに鉄の輪っかがついた建物もあった。昔は宿屋で、その鉄の輪っかに泊まり客の馬をつないでいたそうだ。

 小さい家、間口の狭い家が建ち並ぶ街で、その「お屋敷」だけが大きかった。

 同じ町内のほかの場所なら、家が十軒、いや、二十軒以上は建っている区画が、一軒の家で占められている。

 「お屋敷」は、外は高いコンクリート塀で囲まれていて、塀のなかはちで覆われていた。


 「お屋敷」はいつもひっそりしていた。

 たまに、黒塗りの堂々とした乗用車を含めて、車が次々にこの邸の門から入って行くのを見かけることがあった。

 そのときには、日が暮れてから、その木立ちの向こうにいくつもの色の電球が灯り、そこから音楽や人のざわめきが聞こえてくることもあった。

 その音楽やざわめきが小さくしか聞こえないことが、この「お屋敷」の敷地の大きさを如実に伝えてくれていた。

 でも、それは年に何回かのことだ。

 それ以外の日は、飾り気のない大きな門は鉄の門扉で閉ざされていた。門以外の場所は高いコンクリート塀なので、どこからもなかの様子をうかがうことはできなかった。

 はたしてほんとうに人が住んでいるのだろうか、と思ったことも何度もあった。


 ぼくが生まれ育ったのは、その「お屋敷」の角から歩いて一分もかからない家だった。

 そんな近くに住んでいたのに、ぼくが中学校一年の歳になるまで、家で「お屋敷」について話題に上ることはほとんどなかった。

 家の人からだけでなく、ほかのだれにもその「お屋敷」のことは聞かなかったから、ぼくが「お屋敷」について知っていたことはほんのわずかだった。

 昔、このあたりが小さな街だったころ、街と、そのまわりの村々を支配した名主なぬしの一族の屋敷であること。

 明治になっても、その一族がこのあたりの街づくりを主導したので、その資産家・名望家としての地位は揺るがなかったばかりか、かえって上昇したこと。

 その当主は、江戸のころから、当主になれば必ず「兵衛へえ」と改名するしきたりだったこと。

 いまの当主も、戸籍上の本名はともかく、やはり「古兵衛」を名のっていること。

 家族、とくに母から聞いたのは、そんな話だった。

 大人になってからわざわざ「古兵衛」と名のる主人がいる家なんてめんどうくさそうだ。

 だいたい、そのころは、「学生運動」や「大学闘争」の時代はもう過ぎ去っていたけれど、社会にはなんとなく「金持ちは悪」という雰囲気があった時代だ。少なくともぼくの認識ではそうだ。

 だから、ここの屋敷の主人もそういう「悪」の金持ちの一人なんだろう、と、なんとなく反感を抱いていた。

 でも、一方で、やっぱり、この高い塀と鉄の門扉の向こうに何があるのだろう、ということは気になっていた。


 その歳……。

 ぼくが中学一年生だったころの、秋のある日のことだ。

 その「お屋敷」の門が開いていた。

 学校の帰り、五時ごろだっただろうか。

 空は白色に近い灰色で、まだ明るかったけれど、「お屋敷」のなかは暗かった。

 その鬱蒼うっそうとした木立ちに覆われているせいだろう。

 それだけならば、ぼくは「やっぱりね」と思っただけで通り過ぎただろう。暗い、人気ひとけのない屋敷という印象を裏切られなかっただろうから。

 ところが。

 その木立ちの向こう、遠くに、暖かい色の明るい照明がわずかに見えた。

 街灯などではなく、部屋の明かりらしい。

 それだけではない。

 何か、この世のものとは思えないような澄んだ音色の音楽も聞こえてくる。

 聞こえてくると思った。

 中学一年生だったから、ぼくは無鉄砲だった。

 一瞬ぐらいはためらったけれど、ぼくは意を決してお屋敷へと踏み込んで行った。


 その木立ちはどこまでも続くのかと思っていたが、そんなことはなかった。

 暖かい色の照明がついている部屋の外まで、すぐに行けた。

 考えてみればあたりまえだ。「お屋敷」は大きいといっても街区一個分なのだ。その部屋までは家三軒とか四軒とかの前を通り過ぎるくらいの距離しかなかったはずだから。

 「お屋敷」をずっと外から見ていて、事実以上に大きいと思いこんでいたのだ。

 「ああ」

 息が漏れた。

 その明かりのついた部屋は、お屋敷のいちばん端の部屋だった。

 その部屋だけで、たぶんそのころぼくが住んでいた家の一階部分が全部入るくらいの広さだと思った。

 部屋の外側はすべてガラス窓の出窓になっている。

 外は暗く、なかは明るいので、よく見えた。

 何本か四角い柱があり、そのあいだに、応接セットが置いてあったり、勉強机のような机があったり、本棚が置いてあったりした。

 全体が木調の部屋で、私が見ている側の正面に時計があった。

 いまではあたりまえになったけど、そのころは珍しかったデジタルの針時計で、円い時計のなかで、秒針が一秒ごとに几帳きちょうめんに進んでは止まり、また進んでは止まりを繰り返していた。

 その色がオレンジがかった明るいベージュで、木調の壁の色と一致していたからか。

 しばらくのあいだ、ぼくは気づかなかった。

 そのオレンジがかったベージュの布が揺れ、その上で、黒いような、茶色いような毛のかたまりがふさふさと動いている。

 それが少女の後ろ姿だということに。

 高い、頭に響きそうだが、ふしぎと心地よい音楽が、ふと、止まった。

 少女がこっちを振り向いた。

 あやまたずぼくのほうを振り向いた。

 ぼくは、あっ、と短い声を立てたまま、身動きが取れなくなった。

 なかは明るい。

 だから、少女からはぼくは見えないはず。

 そう思ったが、それは違っていた。

 少女は、ぼくの立っているところにいちばん近い出窓まで来ると、出窓のなかからこっちを見て、手招きした。

 ぼくがぽかんと立ったままでいると、その倍ぐらいの回数、手招きした。

 ぼくが顔を上げて少女のほうを見ると、少女は右手で二回手招きをしたあと、左手を前に出して、その腕をぐるーっと左斜め後ろへと回した。

 そこに入り口があるから、そこに来なさい、ということらしい。

 ぼくは、その少女の左手に操られるように、そちらの方向へと歩いて行った。

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