第8話

 実はあの時――椎名の顔が見えていた。

 小さく開いた口から、白い前歯が覗いている。まん丸な目はより丸く、可愛らしい眼球を主張していた。豆鉄砲を食らったような、というのが的確かもしれない。それから、雨が降る前の曇り空のような表情を最後に彼女は踵を返した。


 椎名三月を描けといわれれば、僕は最初に三日月を三つ描く。やや抽象的ではあるが、両目と口に角度を変えた三日月、あるいは横になって眺める三日月を描く。ピエロのような計算高い笑顔ではなく、とても純粋で可愛らしいものだ。それを僕が描くことはできない。あの日の今にも泣き出してしまいそうな表情が頭から消えてくれないのだ。初めてみた表情だった。一度、笑顔を浮かべてみても、それが徐々に形を変え、哀しい顔が浮かび上がってしまう。


 誤解を解けばいい。だが、なんて言えばいい?

 「あれはゴミをとってもらていただけで、君が思っているようなことではない」か?信じてもらえるだろうか。信じてもらえるほど僕に信用はあるのだろうか。なぜこんなに弱きになっている。椎名との仲はそんな簡単なものじゃないだろ。信じてくれるはずだ。また笑ってくれるはずだ。


 "日常の一部だからなくしたくない"か。

 考えられさせるよ。



  〇



 7:30になり、先輩から電話がかかってくる。

 『下を見たまえ』

 「今行きますよ」


 先輩は紺色の浴衣を着ていた。細い指には巾着袋がぶら下がっている。

 「ぽいっしょ」

 先輩は巾着袋を持ち上げて言った。

 紐と紐の間に帯の緋色がかたどられる。

 夜に混じることのない綺麗な色だ。

 「迎えにいくつもりだったんですけど」

 「サプライズだ」

 「気まぐれですよね」


 僕は先輩と並んで、会場に向う。

 「にしても君、何か言うべきことがあるんじゃないか?」

 先輩は不満そうに言う。今日の先輩はいつもより子どもっぽい。

 「勉強の邪魔してすいません?」

 「違う。ほら」

 と言って、先輩は襟を摘まむ。

 「とても似合ってます」

 顔が赤くなっていないだろうか?

 「当たり障りないなあ」

 「......花火まだですかね」

 「あっ、逃げた」



 会場の大きな公園では沢山の屋台が開かれていた。

 「時間あるし屋台でも回らない?」

 「ええ」

 

 我々は煙と照明によって薄ぼんやりとしたオレンジの屋台通りを歩いていく。大きな公園と言ってもこれだけの人数を想定して作られてはいない。先輩はぐんぐんと前に進んでいく。先輩は僕の手を握り、人混みに飛び込んでいく。色々な人々がそれぞれの言葉で語り、笑っている。ソースの香り、鉄板の上ではねる油、香水や人の香り。


 人混みに道がふさがり、歩を止め、先輩はその隙間を見つけ、また歩き出す。やはり僕はこの人の生き方が好きだ。僕の手は先輩に繋がれ、しかし、目は常に何かを探していた。


 人混みをかき分けているうちに歓声が上がる。後ろを向くと、綺麗な赤色が夜空に放射状に広がっていく。初めの轟音には気づかなかったが、花弁が飛び散る音ははっきりと分かった。

 

 僕は人混みの中で、彼等とは別の方向――先輩をみる。

 先輩は子どものように瞳の中にパチパチと火の粉を映していた。




 小さな光の伝令が夜空に上がる。 

 誰も彼もが待ちわびていた光景だ。

 光は空中で居場所を見つけ、そこで緋色の花を咲かせる。

 黄色、青、次々と花が咲き、散っていく。

 光の花は怒号を残して散っていくのだ。

 それは心臓を打ち、パラパラと頭に抜ける。

 緋色の花が散った。

 ―――彼女の浴衣は大丈夫だろうか。

 僕はふと彼女のことが気になった。

 地べたに座ることを気にしてはないだろうか?楽しんでくれてはいるだろうか?

 彼女の大きな瞳には花火が映っていた。

 鼻筋の影は彼女の頬を伝り、鎖骨の窪みに溜まっていく。

 襟首の後れ毛を花火が薄く染める。


 「......君のことが好きだ」

 先輩は器用な笑顔を作る。それは怒号と混じる事無い透き通った声だ。それから遅れて花火がパラパラと散っていく。

 「僕も......」

 先輩のことが好きです、と言いかけて言葉が詰まる。

 彼女は行き場のなくなった言葉を何も言わずに待っている。夏の冷たい空気を肺に送り、自然に言葉が作られるのを待つ。僕自身の言葉だが、それがどんな形になるのか僕にも分からない。それほどに僕は迷っているのだ。

 「......すいません。好きな人がいます」

 「......そっか、フラれっちゃったな」

 先輩は空気の塊を吐き出しながら笑う。平静に見えたがその塊には緊張が含まれていた。大会でみたすっきりとした笑顔だ。やっぱりこの人のことが好きだ。


 「私より好きな人が出来たんだね」

 先輩は意地悪を言う。

 「ええ」

 「そっか、そりゃあよかった」

 「手を繋いでるとさ、何となく気持ちが分かっちゃうんだよね」と先輩は花火がパラパラと崩れる様子を眺めながら言う。「あの時、私のこと考えてなかったでしょ」

 「......先輩のことは尊敬してます。出来るなら貴方の様な人になりたいです」

 「知ってるよ。そんなこと」


 「あーあ、明日から勉強だ!」

 「いよいよですね」

 「そうだ」と先輩は言う。

 「?」

 僕は声に反応して花火から目を話す。

 と、唇に柔らかい火が灯る。

  

 「ざまーみろ」

 先輩はいたずらっ子のような笑顔を浮かべる。



  〇



 あーあ、フラれた。

 きっと椎名ちゃんだろうな。それなら納得だ。

 でもファーストキスは奪わせてもらったよ。私は後悔したくないんだ。走りたければ走るし、手を握りたければ手を握る。告白だって、断られようがキスだってする。遠慮なんてしない。だってこれは私の人生なのだ。一度しかない人生なのだ。バカだろうは悪女だろうが、良い子を演じるよかましだ。


 後悔はない。私はやりきった。

 あとは泣くだけだ。一人で泣くだけだ。それでお終い。

 

 「あーあ、フラれたんだな私」

 頬が熱い。涙を拭えど拭えど、頬を走る。

 「一人で帰ってよかった」

 我ながら名采配。こんなところ後輩にみられたら幻滅されてしまう。

 誰もいるわけではないが――涙の反射反応なのか――身体をかがめる。

 「違うね」

 私は丸々身体を起こし、走り始める。ただ走る。涙が頬を伝う前に、私は走る。追いつかれてなるものか。完璧な不審者だなあ。人いないしいいか。

 「あとは頑張れよ後輩!!!」


 

 

 

 

 

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