第2話

 「おう椎名......と、お友達か」

 部室に入ると、二つ並べた学習机に少女が二人座っいた。

 半熟たまごみたいに伸びているのが椎名。背過ぎがぴっとしているのがそのお友達。椎名は制服の上にジャージ、その上、体幹は安定せずいつもふらふらとしている。一方で、お友達は背筋同様に制服にも規律がある。まるで幹と枝だ。


 「お邪魔しました」と言って、お友達は席を立ち模範的なお辞儀をする。

 「構わないよ。ゆっくりするといい」

 「いえ、予定があるので」

 「そうか。それでは」

 「はい。失礼します」

 お友達は速度を緩めることなく、決められた足場を踏むように扉に向っていく。

 「唯ちゃんばいばーい」

 椎名の気の抜けた声に反応し、扉の前で手を振る。


 二人きりになり、沈黙が流れる。

 かといって、それが気まずいわけではない。話たいことがあれば各々が適当に話し始めるし、なにより椎名とは沈黙に恐怖するほど浅い仲ではない。お互いの呼吸とページをめくる音が静かな部室に命を吹き込む。


 それぞれが黙って好きな本を読む。

 本の世界が現実に漏れ出す錯覚がある。文字を追う度に、表現に触れる度にその世界の雰囲気が行間から漏れ出し、現実の――部室を満たしていく。物語に足を踏み入れるのではなく、物語が現実の領域を侵食している。そんな気分になる。


 増水した排水溝、と椎名は言っていた。実に的を得ている。彼女は僕の言葉を訳してくれたわけだけども、もしかしたら、彼女もまた同じ感覚を共有しているのかもしれない。


 そう考えると不思議だ。お互い異なる物語を読んでいるのだから、纏う雰囲気は異なるはずだ。これから話す我々は平常の我々ではなく物語に浸かった我々なのだ。つまり、彼女にとって僕は僕ではなく、彼女はにとって僕は僕でない。互いに初対面の人間と語り合うのだ。


 試しに読書をしている椎名を眺めてみる。

 小柄なボブヘアーの少女。夏の初めだというのに制服の上にジャージを重ね着している。集中しているとき、歯ぎしりとまではいかないが下唇を左右に動かす癖がある。今も本と睨めっこしながら癖がでている。

 ――4年前から知っている椎名だ。


 「......なんですか?」

 視線に気付いたのか、椎名は口元を本で書くし、ばつが悪そうにこちらを覗く。

 「いや、何読んでるのかなって」

 「教えませんよ」

 「いいじゃないか」

 「公開は25年後です」

 「機密文書は家で読め」

 家でも読むな。いや読めないだろ。


 「先輩こそ何読んでたんです?」

 「四国に行く奴」

 「あー、その作者好きですよね」

 「なんか読んじゃうんだよね」

 「四国行きたくなりますよね」

 「わかる。何があるわけじゃないけど行きたくなるんだよな」

 「うどんと蜜柑?」

 「眼鏡橋はどこだっけ?」

 「岩手ですかね?」


 椎名はアメリカ機密文書の一文に目を落とし、俯いたりニヤニヤしたりと忙しくコロコロ顔を変える。

 ――何かを企む表情だ。

 「鳥ですよ」

 彼女は窓の外を指さす。しかし、窓は椎名の後ろにあるので外の状況が分かる訳がない。何か試されてるのか?機密文書の入れ知恵でないがなさそうだ。

 

 相変わらず、殺風景な景気だ。木が一本と体育館のクリーム色の背中しか見えない。あまり若い木ではないので、鳥が隠れるほどの葉はない。水曜日であれば景色に色がつくのだが。

 「鳥......何処だ?」

 「ほら、枝に縋ってるじゃないですか」

 断言しよう、枝に鳥はいない。僕の観察力の問題だろうか。

 「鳥の種類を教えてくれ」

 「あー、ウグイス?」

 「景色の一部が鳥になってるとかそういうやつ?葉と葉の隙間が目になってるとか」

 しばらく熟考する。目を細めたり、角度を変えたりするが鳥の像は浮かんでこない。

 

 「あー、すいません。私の気のせいでした」と彼女は言う。「気のせいです。うっかりものだなあ、私」

 椎名はとぼけるが、何故か上機嫌だ。


 彼女は機密文書の雰囲気にやられたのだろう。もちろんそれが本当に機密文書とは思わないし、25年後に開示されるとも思わない。ただし、それがなんであれ、本の正体について推測するのは無粋であろう。

 

 

 

 

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