六の上 集結、反秦連合軍



 英布を幕下に加え、項梁こうりょう軍の威勢はますます盛り上がった。

 それからしばらくしたある日。大将たちがしん討伐の計画を議論していると、季布が進み出て言った。


淮陽わいよう郡の居巣きょそうという街に、范増はんぞうという者がいます。

 もう70歳にもなろうかという老人ですが、その智謀はいにしえの孫子・呉子をも上回るという大賢人です。

 この人を味方に引き入れたなら、天下は半年のうちに平定できるでしょう」


 項梁こうりょうがうなずく。

「わしも以前からその名前は耳にしていた。

 季布よ。すぐに行って、その人物を招いてきてくれ」


 命を受けた季布は、贈り物を用意して居巣きょそうへやってきた。

 そのあたりの住人に范増はんぞうの家の場所を尋ねてみると、

「3里ほど先に旗鼓きこさんという山があります。そこに閑居しておられますよ。あのおかたは、やかましいのが嫌いで、滅多に人と会わないんです」

 との答え。


 季布はすぐに旗鼓きこさんに行き、あちらこちら訪ね歩いた。

 すると、山の中に、幽玄な気配の漂うしばづくりのいおりが見つかった。

 いおりの中からは、琴の音が聞こえてくる。


「間違いない、ここだ」

 季布が近寄り、いおりをのぞいて見ると……


 一人の老翁ろうおうがそこにいた。

 顔はあおく、髪は鶴の羽のように白い。

 腹に甲兵こうへいを隠し、胸に妙算みょうさんを納め、飄然ひょうぜんとして凡ならざるおきなである。


 老翁范増はんぞうは、琴を脇に置いた。

「こんな僻地へきちにわざわざやってくるとは、一体どなたかな」


 季布は、つつしんで贈り物を捧げ、地にひざまずいた。

「それがしは、項梁こうりょうに従う季布という者です。

 しんの政治は無道であり、英雄たちは蜂のごとく湧き起こり、それぞれが太守を殺して、諸侯に呼応し動きだしております。ゆえに、一芸一能の人材はみんな、よい主君に用いられたいと願っているのです。


 まして范増はんぞう先生は、世をおさめ民をすくう経済のはかりごとを胸に抱き、孫子呉子の兵法の真髄を隠し持っておられるというのに、70歳になってもまだよもぎした荒野に住み、草木とともに朽ち果てようとしていらっしゃる。

 これではまるで、太公望たいこうぼうが文王に出会えずにいるかのようだ。惜しくないはずがありましょうか。


 我があるじ項梁こうりょうは、の名将項燕こうえんの息子で、文武をともにそなえており、義によって兵を起こしましたので、四方の勢力が共鳴するように呼応しました。

 その項梁こうりょうが、前々から范増はんぞう先生の徳を慕っておりましたので、それがしに命じて贈り物を持参させたのです。

 先生、どうかこれをお受け取りください。大いなる才能を発揮して、天下を塗炭とたんの苦しみからお救いくださいませ」


 しかし范増はんぞうは、贈り物を受け取ろうとはしなかった。心の中で、

「まずはの天運を算出し、その後で返答しよう」

 と、慎重に考えていたのである。


 これに対して、季布は地にひざまずき、しきりに懇願した。


 范増はんぞうが言う。

「私とて、しんの二世皇帝の残虐暴虐が民を悩ましていることを知って以来、この無道をちゅうする者が現れないことを、ずっと恨めしく思っていたのだ。

 そこへ今、項将軍の命を受け、御辺ごへんが遠い所からやってきて私を招こうとしている。

 これもよい機会であろう。

 まあ、今日のところは帰りなさい。今夜じっくりと意思を固めて、明日になったら贈り物を受け取るつもりだよ」


 だが季布は地にひれ伏し、さらに食い下がる。

「それがし、幸運にも先生にお会いできて、千金の価値を持つ宝玉を手に入れたような気持ちです。もし明日まで待てば、お気持ちが変わってしまうやもしれません。どうか先生、今お受け取りください!」


 とうとう范増はんぞうは根負けした。

 贈り物を受け取って項梁こうりょうの元へ行く約束をし、季布をどうの中へ招き入れて酒を勧め、泊まらせてやった。



   *



 その夜……

 范増はんぞうは、心静かに歩き回りながら、の天運を検討した。


 ところが、どうも良くない。

 これまでの言動や、今の情勢、未来の予測など、細かいところまでよくよく考慮してみると……はまことの天命を得た主君ではないように思える。


 范増はんぞうはつまずき、転びかけて、長々と溜息をついた。

「軽々しく引き受けるのではなかった……

 しかし男たるもの、一度言葉にした約束は、万金を積まれたとしても破ってはならぬ」


 そう思い直して、翌日。

 范増はんぞうは、季布とともにいおりを出て、項梁こうりょうの陣へと向かっていったのだった。



   *



 范増はんぞうが来たと聞くと、項梁こうりょうは、みずから出迎えた。

 范増はんぞうを上座に座らせて言うことには、


「わしは范増はんぞう先生の名を聞いて、日夜思い慕っておりましたが、軍務に忙しくてお会いすることができませんでした。

 昨日、季布をつかわしてお招きしたところ、幸いにも先生はご降臨くださった。どうかこれ以後、わしの及ばぬところを正してくださいませ」


 范増はんぞうは、丁重に再拝した。

「項将軍は、代々を助けてこられた一族です。そして今もまた、義兵を起こして無道をちゅうそうとしておられるのだ。これで天下が傘下に入らぬわけがない。


 私などは取るにたらない年寄りで、一体何の才能があってこれほど手厚く迎えていただいたものやら分からぬほどだが……

 こうなったからには、犬馬けんばの労もいとわず、力を尽くして王業を助け、この御恩に報いましょうぞ」


 これを聞いた項梁こうりょうの喜びようは、並々ならないものだった。


 そして、実際に天下のことを議論させてみると、范増はんぞうはかりごとは、人間技とは思えないほどの鮮やかさであった。

 これまさに鬼神の知恵……

 項梁こうりょう陣営の者たちは、上から下まで皆で感心し、范増はんぞうたっとび敬うようになったのである。



(つづく)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る