四の中 劉邦おじさん、なんか、立つ



 押し切られて結婚してしまった劉邦は、戸惑いながら、ひとまず帰ろうと門外へ出た。

 そこにちょうど、一人の男が訪ねてきた。堂々たる体つきの、威風凛々りんりんたる勇士である。


 勇士は、劉邦に向かって長揖ちょうゆう(頭の前で手を合わせる中国のお辞儀)した。

「おう、劉邦兄貴! ここ数日、御辺ごへんに会おうと思って探しとったんだ。ここで会えて幸運だったわ」

 その声のよく響くことは、まるで雷のようだ。


 劉邦を見送りに来ていた呂文りょぶんは、この勇士を見て、直感した。

「おお! この男は、真に盛んなる世で諸侯になる運命の人だ!」


 そこで、勇士を招き入れて劉邦ともども家に引き返し、

「劉邦をたずねて来たあなたは、どういうお方か?」

 と名を問うた。


 勇士が答えていわく、

「それがし、はい県の樊噲はんかいっちゅう者です。貧乏なもんで、犬の肉を売って暮らしとります。

 ……そういう貴殿こそ、一体どなたです?」


 呂文りょぶんが言う。

「私は単父ぜんほ呂文りょぶんという者だ。

 故郷を離れ、長いことはいの地に住んでいるが、君の名前は常々聞いていたよ。ここでお会いできたのは幸いでしたな」


 呂文りょぶんは、樊噲はんかいにも酒を勧め、問いかけた。

「君は、もう結婚しておられるか?」


 樊噲はんかいは苦笑いして首を振った。

「いや。それがし幼いころから貧乏で、父母も無けりゃ妻子も無し」


 呂文りょぶんが詰め寄る。

「ならちょうどいい。私には二人の娘がいる。姉の方は、さきほど劉邦にめあわせた。

 妹は呂須りょすうという名前だ。その子を君の妻としたいのだが、どうかね?」


 突然の申し出に、樊噲はんかいは驚いた。もちろん再三にわたって断った。だが呂文りょぶんは何度も何度も重ねて結婚を勧めてくる。


 劉邦が苦笑して口を挟んだ。

「呂公は、今日一日で二人の娘を俺たちにくれようとしてる。これはホント、千載せんざいの奇遇ってやつだ。

 まあ金が無いのは俺も同じだけどさ。呂公の人相判断が正しいとしたら、俺らが妻子を養えるように天の助けが降ってくる運命なのかもしれねえぞ。

 なあ樊噲はんかいよう、断らずにいただいちまえ」


「そうかい? まあ、兄貴がそう言うなら……」

 かくして樊噲はんかいも結婚を決断し、祝いのさかずきに心ゆくまで酔いしれたのだった。



   *



 そのころしんでは、各地の州や郡から人夫を呼び集め、驪山りざんふもとに始皇帝の陵墓の建造を進めていた。

 権力者が自身の墳墓を造営した例は無数にあるが、中でもこの始皇帝陵は世界最大級の規模を誇る。着工はしん王即位直後の紀元前247年頃で、彼が崩御した210年になってもまだ完成していなかったということからも、その壮大さがうかがえる。


 これほどの巨大建築であるから、工事にたずさわる人夫の数も並大抵ではない。はい県にも、人夫を派遣するよう命令が来た。

 そして、その人夫を現場まで引率する任務が、他ならぬ劉邦に課せられたのである。


 だが、行った先でおそろしく過酷な労働が待っていることは、もう中国じゅうに知れ渡っている。生きて帰れるかどうかも怪しいのだ。

 当然ながら道中で脱走が相次ぎ、人夫の数がどんどん減っていく。


 劉邦は心に思った。

「こんな勢いで逃げていくんじゃあ、驪山りざんに着くころには一人もいなくなっちまうよ。

 こりゃあ俺も罰せられるなあ。

 だったらいっそ……俺も逃げちゃお!」


 というわけで、ほうむらの西にある沼地に来たところで、劉邦はピタリと足を止め、付き従う者たちを振り返って言った。


「おい、お前ら。お前らは県令の命令で驪山りざんへ向かってるが、向こうへ着けば長いあいだコキ使われることになる。いつ帰れるかも分からない。

 逃げた奴らは生きながらえるだろうが、逃げずに俺についてきてるお前らは、疲れて苦しんで虚しく死んじまう運命だ……

 だから、もういい! お前ら、みんな逃げちまえ! 逃げて人生をまっとうしろ!」


 それを聞いて人々が言う。

しんの法律は厳しいですよ。私らは逃げれば生き残れるでしょうが、代わりにあなたが罪に問われます。それはどうするんです?」


 劉邦は、さっぱりと笑った。

「気にすんな。みんな好きなように逃げろ。俺も今から身を隠すよ」



   *



 劉邦とは、こういう男であった。


 だからこそ、であろう。

 大半の人々は限りなく喜び、劉邦をおがんで礼を述べ、思い思いに去っていったが……

「劉邦さんは、なんだか放っておけない」

 と、深く感じ入る者たちもいた。

 そういうわけで、働き盛りの男十数名が、逃亡者となった劉邦にくっついてきたのである。


 その夜。

 劉邦一行が酒を飲んで眠りに落ちると、行く先の安全を確認するため、一部の者たちがひそかに夜道を駆けて行った。


 翌日。彼らは大慌てで走り帰ってきて報告した。

「劉邦さん、大変だ! この先で、長さ十丈(約18m!)もある大蛇が寝そべって道を塞いでる! 別の道を通りましょうぜ」


 十丈の大蛇とはただごとではない。とんでもない怪物である。

 ところが劉邦は、この報告と進言を、ろくすっぽ聞きもしなかった。

「なぁーにぃー!? 蛇だぁー?

 大の男が我が道を行くんだ! 何が怖いことがある! みんな俺について来ぉい!」


 酔っているのか? 寝ぼけてるのか? 劉邦はいきなり衣のすそをまくりあげて走り出し、くだんの大蛇に駆け寄るや、大上段から剣を振り下ろして蛇を真っ二つに両断してしまった。


 彼に付き従っていた者たちも、これにはビックリ仰天である。

「劉邦さんは、ふだん臆病で、ものの役に立つ人じゃないと思っていたが、本気を出せばこれほど勇敢だったのか。とても凡人の及ぶところじゃない」


 こうして無事に逃げおおせた劉邦一行は、芒蕩山ぼうとうざんという山の沼地に拠点を作って身を落ちつけた。



   *



 さて、この大蛇について、ひとつ奇妙な話が伝わっている。


 劉邦が大蛇を斬った翌日。

 近所の百姓たちが死体を見物に来てみると、死んだ大蛇のそばに見慣れぬ老婆がいる。

 老婆は大蛇の死体にすがりつき、大声で嘆き悲しんでいるようである。


 その次の晩も、また次の晩も、休むことなく老婆は現れ、途切れることなく泣きわめき続けた。

 人々は怪しく思って、老婆にたずねた。

「大蛇を殺して民の害を取り除いたのに、あんたはなぜ泣いているんだ」


 すると老婆が答えて言った。

「この子は、わしと白帝との間に生まれた子だ。大蛇に化けて道へ出てきたところを、赤帝の子に斬られてしまった。

 わしは頼るべき息子を失った……それで泣いているのだ」


 白帝は、西と秋をつかさどる神。

 赤帝は、南と夏をつかさどる神である。


 老婆の話を聞いた人々は、ますます怪しんだ。

「こいつ、妖怪じゃあるまいか?」

 怖れた百姓たちは、老婆を杖で殴ろうとした。


 ところが老婆は、杖が命中するその直前、すぅっ……と姿を消してしまった、というのである。



   *



 こんな神秘的な噂話がたちまちのうちに広がって、

「劉邦という男は、ただものじゃないらしい」

 と、はいの若者たちが続々と劉邦を訪ねてきた。彼らを仲間に加え入れ、劉邦の勢力はみるみる拡大していく。

 ふと気がつけば、配下の兵力は実に数百人。いつのまにやら劉邦は、ちょっとした軍勢の親玉になってしまっていた。



(つづく)

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