四の上 劉邦おじさん、なんか、立つ



 最大の政敵であった太子扶蘇ふそ蒙恬もうてん将軍。この二人がともに死んだ今、もはや誰にはばかる必要もない。

 李斯りしと趙高は、二世皇帝に勧めて数々の殺伐を行わせ、天下の政治を思うがままに操りはじめた。


 そのため遠方の者も近場の者もみな恨み、盗賊が蜂のように湧き起こった。

 山東、山西、河南、河北、呉楚ごそ。各地方で紛争・反乱が相次ぎ、騒ぎの止む暇さえないほどであった。



   *



 そうした不穏な情勢の中、全く無名であった二人の人が、歴史上に突如とつじょ姿を現した。

 一人は陳勝ちんしょうあざなしょう

 もう一人は呉広ごこうという。


 この二人、しんの命令を受け、漁陽(現在の北京ぺきん周辺)まで兵士900人を送り届けている最中だった。

 ところが、大沢だいたくというごうまでやってきたところで、大雨のために足止めされてしまった。


 しんの法律は厳しい。

 もし指定の期限までに到着できなかったら、斬罪に処せられることになる。

 そこで陳渉ちんしょうは、兵士たちに向かってこう語りかけた。


「この大雨のせいで、もう到着の期限には間に合うまい。

 となれば、首をねられるのは間違いない。

 たとえ運良く罪をまぬがれたとしても、いつまで続くか分からない漁陽の防衛任務で、無駄に疲弊して死ぬだけだ。


 壮士たちよ!

 どうせ死ぬのなら、大いに名をげようじゃないか。


 おうこうしょうしょういずくんぞしゅあらんや!


 王、諸侯、将軍、宰相、そんな地位が生まれつき決まっているというのか?

 そんなことはない!

 今、しんの政治は乱れに乱れ、天下はことごとく恨みを抱いている。

 だから俺は、この命を活かそうと思う。義兵と名乗って民を救い、もし失敗したなら気持ちよく討ち死にして、後の世に名を伝えるのだ。

 さあ、みんな! 俺と一緒に立ち上がらないか!」


 兵士たちは、みな一斉に同意した。


 ならば! と祭壇を築き、天神てんじん地祇ちぎまつり、一同で盟約をなして大楚だいそと国号を名乗った。


 ここから陳渉ちんしょう呉広ごこうの快進撃が始まった。

 まず大沢だいたく郷を攻め取り……

 次にざんというむらほふり……

 怒涛の勢いで東方へ進出。ちんの国(現在の河南省)にまで勢力を拡大した。


 その道中で、義兵の噂を聞きつけた同志が続々と参戦し、膨れ上がった反乱軍は実に総勢数万人。

 かくして、しん帝国を揺るがす史上初の農民反乱……『陳勝ちんしょう呉広ごこうの乱』が勃発したのである。



   *



 さらに、陳渉ちんしょうの蜂起に刺激されて、各地で次々に反乱軍が立ち上がる。

 趙国で……

 はい県で……

 呉国で……


 四海縦横天下、つまりはこの世の全てが、紛争と乱とに満たされた。


 一方、国家の存亡にすら関わる大事の時に、しんの二世皇帝は、なんと酒と女に溺れていた。

 昼も夜もなく遊楽にふけり、政務はほったからし。臣下が事態の報告に訪れても、謁見の機会さえもらえない……

 そんな、ていたらくであった。



   *



 さて。

 ここで、数年ほど時をさかのぼる。


 当時、はい県のほうというむらに、一人の男が住んでいた。


 年齢については諸説あるが、おそらくこの時30代なかば。

 仕事は、泗水しすい(現在の泗河しが)のほとりの亭のおさ


 亭というのは、街道沿いへ10里間隔で設置されていた、物資運輸のための宿舎である。周辺の警備なども任務に含まれていたというから、小さな警察署も兼ねているといえようか。

 だから亭長といえば、管理人のような、警察官のような、そういう役割であった。


 彼の名は――劉邦。


 この男がやがてしんの乱を平らげ、を滅ぼし、漢王朝400年のいしずえを築くことになる……はず、なのだが……

 このときはまだ、うだつのあがらない下っぱ役人の一人でしかなかった。



   *



 劉邦の出生には、奇妙な逸話がある。


 ある日の昼、劉邦の母は、大沢だいたくの堤防で休息をとっていた。

 心地よい陽気の中で、彼女はウトウトと微睡まどろみはじめた。


 すると……

 突如、夢の中に神が現れた。

 唐突な神との対面に、彼女は驚き、目を覚ました。


 と、そのとき。


 にわかに天が暗転し、雷電が一筋駆け抜けたかと思うと、蛟龍こうりゅうが頭上に出現した。

 蛟龍こうりゅう、すなわち龍の幼生である。


 この瞬間、彼女は子をはらんだ。

 その赤子こそが劉邦なのだという。


 ひょっとして、劉邦は龍の子なのではないか――?

 それが証拠に、彼の人相は隆準りゅうせつ龍顔りゅうがん隆準りゅうせつとは、鼻柱が高いこと。龍顔りゅうがんとは、眉骨が大きく張り出していることを言う。つまり龍に似た顔立ちである。


 さらに、彼のまたの左には、72個の黒子ほくろがあった。

 72は、一年360日を木・火・土・金・水の五行で割った値……たいへん縁起の良い数である。


 生まれ、顔つき、吉数の黒子ほくろ……あらゆる点において、並の人物ではない、と予感させる吉兆のもとに生まれてきた男であった。



   *



 劉邦は広く人を愛し、貧乏人へのほどこしを好んだ。

 性格は豁達大度かったつたいど。おおらかで、小さなことにはこだわらない。

 そして、ぜんぜん仕事をしなかった。


 家業をほっぽりだして遊び歩くこと多年。ふと気がつけば、立派なおじさんと呼べる歳。

 しかたなく泗上しじょうの亭長として就職したはいいものの……

 はなはだ酒色を好んだので、はい県の人々は、みんな劉邦を軽んじた。


 しかし、単父ぜんほの街の呂文りょぶんという人は、劉邦を見てこう評した。


「みんなは劉邦を軽んじているけれども、私の意見は違う。

 あの為人ひととなりは、並大抵のものではない。

 まだ然るべき時が来ていないだけだ。ひとたび時を得れば、彼はすばらしくとうとい位に登りつめるだろう」


 そしてなんと、娘の呂顔りょがんを劉邦にめあわせようとさえした。


 呂文りょぶんの妻は怒った。

「あの子ははいの県令(県知事のようなもの)にとつがせると、以前に約束したではありませんか。

 今になって、あんないやしい者にめあわせるとは何事ですか!」


 しかし呂文りょぶんは、

「お前の知ったことではない」

 と一蹴し、劉邦を招いて酒を勧めた。


「私が君の人相を見たところ、そのとうとさは言葉にもできない。

 願わくは、私の娘を君の箕箒きしゅう(妻のこと)としたい。どうか『うん』と言ってくれ」


 劉邦は慌てた。

「俺は、この歳になってもまだ不足してることが三つもあるんだ。

 一つには、子供っぽくて学がない。

 二つには、力が弱くて勇気がない。

 三つには、貧しくて自分の暮らしも満たせない。

 こんなていたらくなのに、どうしてあなたの娘をめとることができようか」


 だが呂文りょぶんは一歩も退かない。

「私の気持ちはもう決まっているのだ。君、断ってはいけないよ」

 そしてねんごろに酒を勧め、とうとう劉邦と一家の交わりを結んでしまったのである。



(つづく)

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