三の上 奸臣どもの策謀



 始皇帝は東国を巡狩じゅんしゅして、徐州じょしゅう(現在の江蘇こうそ省)にやってきた。


 道の左右の田には、あわきびがびっしりと植えられている。くわあさの伸びも良い。

 東国はここ数年飢饉ききん続きだったが、幸い、この地方は豊作になりそうである。


 ここで、ある百姓が、一茎に九つも穂があるあわを始皇帝に献上した。

 あわをはじめとするイネ科の植物は、茎が根元から枝分かれして複数の穂をつける。これを分蘖ぶんげつと言うのだが、あわに九つも穂ができることは、とても珍しい。


 始皇帝は、この素朴な献上品を限りなく喜んだ。

「これは縁起が良いぞ。こういうあわが実るのは、めでたい祥瑞しょうずいであると昔から言われているのだ」

 と上機嫌で、百姓に重く恩賞をたまわった。


 ところが……

 そこから東南に進み、はい県という土地に来たところで、異変がおきた。

 天に不気味な雲気が湧き起こり、その隙間から、神々しい光が差し込んできたのである。


 始皇帝は、丞相じょうしょう李斯りしを呼びつけた。

ちんは以前、山に登って東南の方角に雲気が起きるのを見た。この諸国巡察も、あの雲気を深く怪しんで始めたことだ。

 どうやら、雲気の源はこのあたりらしい。近くに必ず怪しい者がいるはずだ。よく捜索せよ。それらしい者がいたら、早く殺して後日の憂いを取り除け」


 李斯りしは申し上げた。

「雲気は現れては消え、時々刻々と形も変わり、一定の姿をしておりません。深くご心配なさる必要はございますまい。

 今もし理由なく人を捜索すれば、百姓が不安がって騒ぎ出し、かえって災いを引き出すことにもなりえます」


 李斯りしの冷静な意見に、始皇帝はひとまず納得し、その場はそれで収まったのだが……



   *



 始皇帝は巡行を続け、今度は会稽かいけいの街(現在の浙江せっこう省)にやってきた。

 会稽かいけいの市場には、始皇帝の行列を一目見ようと、多くの人々が集まっていた。


 と。

 その人混みの中から、突然、年のころ20才あまりの青年が走り出た。

 青年は行列をにらんで剣を抜いた。

「始皇帝は無道だ! 俺が殺してやる!」


 そばにいた大人が、青年を慌てて制止した。

「やめろやめろ!

 大丈夫だいじょうぶ(立派な男)たるもの、万世に名を残す功をたてるものだ。刺客なんぞのマネをしてどうする」


 こうたしなめられて、青年は立ち止まる。

「それもそうか」


 不思議な青年である。いきなり始皇帝に単身斬りかかろうとするほど無謀で血の気が多いわりに、人の言うことには意外に素直。

 良くも悪くも性根がまっすぐなこの青年……


 その名は項羽。

 始皇帝によって滅ぼされた国の大将、項燕の孫にあたる。


 そして、彼を制止した大人は項梁こうりょう。項羽の叔父であった。



   *



 項羽は幼くして父を亡くした。

 親代わりとなったのは、叔父の項梁こうりょうである。

 項梁こうりょうは項羽を我が子のようにかわいがり、さまざまな習い事を経験させてくれた。


 ところが、これがちっとも上手くいかなかった。

 学問を学んでも身につかない。

 剣術も試したが気が乗らない。


 項染こうりょうは項羽を叱りつけた。

「学問もダメ、剣もダメ。こんなていたらくで、お前は将来なにを成しとげようというのだ!」


 すると項羽は悪びれもせず言い返した。

「学問は人の名前が書けるだけ、剣は一人と戦うだけのものだ。そんな小さな武勇に興味はない。

 俺は万の敵と戦う方法を学びたいんだ!」


 なんと生意気な。項梁こうりょうは思わず苦笑した。そして同時に、

「面白い奴……」

 とも思った。


 ひょっとしたら項羽は、とんでもない大物になるやもしれぬ。

 いつか始皇帝を倒すための義兵を興し、項羽を先頭に立てて大暴れさせてやろう。

 そんなふうに、ひそかな計画を立てていたのである。



   *



 だからこそ項梁こうりょうは恐れた。

「さっきの項羽の放言、周りの群衆にも聞かれただろう。いずれ始皇帝の耳にも入る。奴は猜疑心の塊だ。こんな小さな出来事でも、決して許さずとがめるに違いない。

 こんなところで項羽を死なせるわけにはいかぬ」


 そこで項梁こうりょうは、項羽を連れて呉との国境あたりに逃亡した。

 胸に天下取りの志をいだいたまま、潜伏して好機を待つことにしたのである。



   *



 さて、そのころ。

 東郡という土地に、天から隕石が落ちてきた。

 なんとも不思議なことに、隕石には六つの文字が刻まれていたという。


『始皇死而地分』


 始皇死して、地わかれん。

 始皇帝が死んで、国が分裂するだろう……という意味である。


 この話を伝え聞いた始皇帝は、もちろん怒った。

「誰だ! そんな文字を刻んだのは!」


 自然に文字が現れるはずはない。となれば誰かがイタズラでやったに違いない。始皇帝は御史官(官吏かんりの監督を行う役職)に命じて、徹底的に調査させた。

 だが、犯人の行方はようとして知れなかった。付近の住人の誰ひとりとして、そんなことをした人間を見ていないというのだ。


 ここで始皇帝は驚くべき凶行に走った。

 誰の仕業か分からない……ならば全員を罪に問えばよい、とばかりに、隕石落下地点の周辺に住んでいた民衆を、なんと、皆殺しにしてしまったのである。


「これはいかん」

 主のすさまじい暴挙を知った丞相じょうしょう李斯りしは、慎重に言葉を選びながら進言した。


「陛下が諸国を巡狩じゅんしゅなさって数年になります。その間、祥瑞しょうずいや妖怪の話がいろいろ現れましたが、一つとして信じるに足るものはありませんでした。

 これ以上の巡狩じゅんしゅは無用と思われます。続ければかえって厄介な事案を引き起こし、陛下の御心は少しも休まりません。

 今はただ御車をうながしてみやこ咸陽かんように帰り、防衛の備えを整え、群国を慰撫いぶなさいましたら、おのずから天下無事に治まりましょう」


 始皇帝は、ひどく疲れた顔でうなずいた。

「汝の説くことわりは、まことにちんの考えに合っている」

 こうして始皇帝は帰路についた。



   *



 咸陽かんように帰る途中、兗州えんしゅう(現在の山東さんとん省)にさしかかったところで、始皇帝は夢を見た。


 夢の中で、始皇帝は東海の龍神と戦っていた。

 龍神が相手ではかなうはずもない。始皇帝は急いで逃げようとしたが、前にも後ろにも青い波が果てしなく広がっていて、まったく岸が見えない。


 どうすればいいのか、と恐れ悲しんでいると……

 天から赤き龍が舞い降りて、始皇帝を一口に飲み込んでしまった。


 そこで始皇帝は目を覚ました。

 それからである。彼が急な病に苦しみだしたのは。


 意識が朦朧もうろうとし、ひどい倦怠感に襲われる……

 回復するどころか日に日に症状は悪化していき、沙丘という土地に来たところでいよいよ重態に陥った。


 始皇帝は、ひそかに李斯りしを呼び出した。


ちんは先年、東海を埋め立てた。

 東海は龍神の領域だ……今、龍神と戦う夢を見てこの病を得たのだから、これは龍神のたたりに違いない。おそらく快復することはないだろう。

 ちんほうじた後は、太子扶蘇ふそを上郡から呼び戻し、しんの帝位を継がせよ。天下を失ってはならぬ」


 そして始皇帝は伝国の玉璽ぎょくじ李斯りしに預けた。

 玉璽ぎょくじとは、皇帝の決済印のこと。これを持つ者のみが皇帝位につく資格を持つ。すなわち皇帝の地位の象徴なのであった。


 それを李斯りしに預けた……これは始皇帝の覚悟と李斯りしへの信頼を意味するものであった。


けいちんに長年仕えてくれた……今より、大小の事務みなけいに任す。

 太子扶蘇ふそには仁愛の心がある。君主とするに足る男だ。遠方へ追いやってしまったのは誤りだった……すみやかに呼び戻して、玉璽ぎょくじ遺詔いしょう(遺言)を伝えよ。

 けいらで扶蘇ふそを助け、誤りがあれば正してやってくれ。王道を歩めるよう心を尽くしてくれ。

 だが気をつけよ。ちんの遺言、軽々しく人に漏らしてはならぬぞ……」


 そう言い終わったところで――

 始皇帝は、崩御した。

 在位37年、享年50。中華統一とその運営に、ひたすら打ち込んだ人生であった。



   *



 始皇帝の死は、固く秘せられた。

 知っているものは李斯りし宦官かんがんの趙高、始皇帝の次男胡亥こがい、あとは内官五、六人だけである。


 は発せず、轀涼車おんりょうしゃ(皇帝用の寝台付き馬車)の中に寝かせたまま帰った。

 さらには、食事を勧めたり、物事を報告したりと、普段通りにふるまって、まだ生きているかのように見せかけた。


 時は7月。

 暑気に当たって、早くも死体が腐り始める。

 その臭いをまぎらわせようと、後ろの車にたくさんの魚を載せたりもした。


 次の日……

 趙高は、李斯りしと密談を交わした。

「大丈夫たるもの、一日たりとも権力を手放してはいけません。もし権力がなくなれば爵位しゃくい俸禄ほうろくも離れていって、身が危うくなるものです。

 ですからわたくし、遺詔いしょうを書き直して、胡亥こがい様を皇帝にしようと思うのですよ。

 あなたのご意見は、いかが?」


 李斯りし唖然あぜんとした。

「先帝はすでに遺詔いしょうをお書きになったのだ! 人臣の分をわきまえれば、どうしてそれを改竄かいざんできる?

 御辺ごへん、それは亡国の言というものだぞ!」


 趙高が言う。

「あなたの才智と、蒙恬もうてん将軍の武勇。どっちが太子に寵愛ちょうあいされていると思います?」


 李斯りしが言う。

「それは、蒙恬もうてんにはかなわない」


 趙高が言う。

「太子扶蘇ふそは頭脳明晰で決断力があります。

 そして、いつもあなたとはソリが合いませんでした。

 もし扶蘇ふそ様を立てて皇帝にすれば、きっと蒙恬もうてん丞相じょうしょうとし、あなたの官位をいで庶人しょじんに落とし、最後には殺してしまうでしょうねえ。

 これが、おわかりになりませんか?」


 李斯りしは、やや長く思案して……言った。

「……御辺ごへんの言葉は一理ある、ようには思うが……先帝の遺詔いしょうにそむくに忍びない」


 趙高が言う。

遺詔いしょうに従えば身が危うく、遺詔いしょうにそむけば身は安全。

 このふたつの、あなた、どちらを取るのがよいでしょうねえ?」


 李斯りしは……

 李斯りしは、ついに、趙高に同意してしまった……



(つづく)

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