二の下 始皇帝暗殺計画



 一方、

「失敗した!」

 と悟った張良は、足に任せて逃げ出した。


「すまぬ、蒼海公。最後まで私をかばってくれたのだな。

 始皇帝をてたのなら君と一緒に死んでもかまわないが、そんじたからには話が別だ。

 私は生きる。

 泥水を吸ってでも生き延びて、いつか必ずしんを滅ぼす!

 君の死は無駄にしないぞ、蒼海公よ!」


 しかし、これからどうしたものか。

 猜疑さいぎ心の塊である始皇帝は、徹底的に捜査せずにはおくまい。

 張良のところにも、すぐに手が回るはずだ。

 もう家に帰るのも危うい。


 さまざまに考えを巡らせた末、長江下流にある下邳かひの街(現在の江蘇こうそ省)へ逃げることにした。


 下邳かひには、張良の親友が住んでいる。

 その名は項伯。

 項家はしんに滅ぼされた六国の一つ、の大将の家柄である。


 それゆえ項伯は張良に深く同情し、こころよくかくまってくれたのだった。



   *



 下邳かひで暮らし始めて、しばらく経ったある日のこと。


 張良は下邳かひの城外に出た。

 当時の中国の都市は、城壁に囲まれた城塞都市である。

 ずっと壁の中にいるのは、気がふさいでしかたなかったのだろう。


 さて、圯橋いきょうという橋にやってきた張良が、川辺にたたずんでいると……

 黄色い衣を着た老人が、橋を通りかかった。


 と。

 老人は突然はきものを脱ぎ、川の泥の中へ投げ落とした。

 そして張良をにらんで言うには、

「そこの若造! わしのはきものを取ってこい!」


 張良は、ハッとした。

「あの老人、仙人の気と道士の骨格を持っている。ただものではない」


 張良は、急いで川に飛び降り、はきものを拾って老人のところまで運ぶと、ひざまずいて差し出した。


 老人はそのはきものいて数歩あるいた。

 が、またもはきものを泥へ落として、

「取ってこい」

 と言う。


 張良は少しも嫌がらず、また取りに行って、ひざまずいて差し出した。


 結局、これを繰り返すこと三度。

 三度目にして、ようやく老人はにっこりと喜びの笑みを浮かべた。

「坊やに教えをさずけてやろう」


 老人は、橋のそばに生えていた木を指さした。


「五日後の朝、あの木の下へ、わしより早く来て待っておれ。そうしたら、いいものをあげよう。絶対に約束を破るんじゃないぞ」

 そう言い残して、老人は去っていった。



   *



 五日後……

 老人の言葉通り、張良は早朝にやってきた。

 だが、老人はそれより早く木の下に座って待っていた。


「きさま、年長者との約束を破ったな! なんで遅れてきたのだ!

 また五日後、今度はもっと早くこい」


 やむなく、この日は虚しく帰り……

 また五日後。張良は夜の五更ごこう(午前四時前後)に起きて、木の下へやってきた。


 しかし、またしても老人が先に来ている。

 老人が怒った。

「若造め! なんでそんなに怠け者なのだ。

 また五日後だ。今度こそ早くこい」


 さらに五日後。

 どんなに早起きしてもダメだ、と悟った張良は、前日のうちに木のところへ向かった。

 さすがに老人はまだ来ていない。いまからずっとここで待っていればよいのだ。


 待ちはじめて半時(一時間)ほど経った頃、はたして老人がやってきた。


 張良は再拝(二度拝むこと。中国の礼儀作法)して、月光の中で老人を見た。

 老人は皮の冠をかぶり、黄に染めた道士の服を着て、竹の杖をたずさえ、ひょうひょうとしている。

 まさに真の神仙の装いであった。


 張良は地面にひざまずいた。

「どうか、私に教えをお授けください」


 老人が言う。

「お前は年が若いのに力が強く、骨格が清奇だから、いずれ世に出て帝王の師となるだろう。

 幸いにも、今わしと出会うことができた。これは千載せんざいの奇遇である。


 そこで、お前に三巻の秘書を授ける。

 これを読めば、奇謀神算おそらくは孫子や呉子をもしのぎ、功をなした後で身を退く鮮やかさは仲連ちゅうれん范蠡はんれいすら上回る、それほどの力が手に入ろう。


 韓のためにかたきち、真の君主を助けて支え、名を万世に伝え、その輝かしさを太陽や月と争うがよい。


 十年後、お前は必ず世に出ることになる。

 それからさらに三年後、天谷城の東で、お前は一人の国君を葬るだろう。

 そのとき、空き地の中に黄色い石が一つある。それが、このわしなのだよ」


 奇妙な予言を残して、老人は消えてしまった。


 張良は三巻の書を持って家に帰り、日夜、これを読みふけった。

 その書こそ、かつていんを倒ししゅうおこした伝説の軍師、太公望が記した兵書だったのだ。


 読めば読むほど、広い広い知恵の世界へ心が開けていくように思える。

 張良はその理論を学び、自ら工夫を凝らしつつ、項伯の家で静かに再起の時を待った。



   *



 今はまだ、一人の逃亡者でしかないこの張良。

 彼がやがて、その知性と才覚をいかんなく発揮し、中国史上最高の軍師として語り継がれることになるのだが……

 その顛末てんまつについては、後の巻に譲ることとしよう。



(つづく)




■次回予告■


 『始皇しこうして地わかれん』――不吉な呪詛の結実か? はたまた逃れえぬ天命なのか? 中華の歴史に燦然さんぜん輝く巨星のちる時がきた。

 その亡骸なきがらも冷めぬうちから蠢きだすは奸臣かんしんども。たちまち巻き起こる権力闘争、血の粛清。恐るべき混乱の末、始皇の後継者となるのは、果たして――?


 次回「龍虎戦記」第三回

 『奸臣どもの策謀』


 う、ご期待!

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2024年12月2日 18:17
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2024年12月4日 18:17

龍虎戦記 ~項羽vs劉邦~ 外清内ダク @darkcrowshin

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