二の上 始皇帝暗殺計画



 中国中央部……かつてかんという国があったあたりに、一人の男が住んでいた。


 色は白く、細身で小柄。顔はまるで乙女のように美しい。

 いかにも、なよやかな貴公子ふう……

 しかし本当は、その胸に誰より熱い魂を秘めている男。


 張良、あざなは子房。


 彼は、先祖代々かんに仕え、相国しょうこく(宰相)にまで上りつめた名家の生まれである。

 だが、かんの国は始皇帝に滅ぼされてしまった。

 以来、張良は亡き主の仇討かたきうちをなしとげようと思いさだめ、助太刀してくれる豪傑を探し求めていた。


 そう、始皇帝を暗殺しようというのだ。

 成功する可能性は極めて低い。

 仮に成功したとしても、すぐさま警護の兵に拘束される。

 捕まれば、恐るべき拷問の末に殺されるだろうことは、想像にかたくない。


 それでも、主君のかたきへ報いを受けさせずにはいられない。

 張良は、そういう男であった。



   *



 ある日……

 そぞろ歩いていた張良は、浅山というところを通り過ぎた。

 ふと道端みちばたの酒店を見れば、多くの老人が酒を飲みながら話しこんでいる。

 天下の変化、古今の興廃を、さかんに論じているようである。


 その中に趙三公という老人がいた。

「500年前の時代には、天下太平にして人民は皆こころよく楽しんでいた」


 まわりの者が問いかける。

「太平とは、どういうことを言うのだ」


 趙三公が答える。

「広々とした風景。明々とした日差し。

 庶民は腹鼓はらづつみを叩いて、笛の音、歌声、絶えることなし。

 三日に一度風が吹くが、枝を鳴らさず、木を折らず。

 五日に一度雨が降るが、堤防を破らず、穀物をいためず。

 盗賊が生まれないから夜、鍵もかけず。

 歩く人は道をゆずり、落とし物を盗みもしない。

 辺境に戦争の苦労なく。

 朝廷に奸臣かんしんの心配なく。

 野原に蝗害こうがい干魃かんばつ洪水こうずいなく。

 百姓に疲労も苦しみもなく。

 五穀よく実って天下安楽。

 これを太平の時代と言う」


「では、今のしんの政治をどう思う?」

 こう問われて、趙三公は顔をくもらせた。

「今は法律が極めて厳しいから、わしは語りたくない」


「ほかに聞ける人もいない。どうか今の政治を論じてくれ」

 重ねて求められても、趙三公は首を振るだけで答えようとしない。


 これを立ち聞きしていた張良は、自ら進み出て、声を張りあげた。


「あなたがしんの政治を説けないなら、私が説くのを聞くがいい。

 始皇帝は無道である!

 男は畑を耕すことができず、女ははたを織ることができず、親子も夫婦も引き離される。

 北の長城を築き、東の大海を埋め、五嶺を切り拓き、阿房宮あぼうきゅうを建て、書をじゅいきうめにし、人の道にそむく行いをほしいままにして、民は少しも心休まることがない!」


 趙三公は、これを聞いて驚き慌て、急に立って逃げ出した。

 人々が引き止めて、

「どうして逃げるんだ」

 と問うと、趙三公は言う。


「お前たちは命が惜しくないのか。

 『顔を合わせて議論する者があれば、市に引き出して処刑する』と始皇帝が触れを出したでないか。

 長居すれば、その人のせいで捕まるぞ」


 趙三公は飛ぶように逃げていった。

 他の老人たちも怖がって一人残らず逃げだした。


 張良、これを見て大いに笑う。

「愚者は私の機知が分からず、かえって私を恐れる、か」


 そう言い捨てて帰ろうとしたところ、かたわらから一人の男が近づいてきた。

 顔つきの堂々とした、身長一丈(当時の一丈は約180cm)ほどもある壮士である。


 その男が張良の袖を引いて言う。

「貴公、始皇帝を無道と言いましたな。

 天下のために暴秦ぼうしんをこの世から取り除こうとお考えに違いない。

 拙者でよければ手を貸そう。力を尽くして、ともに始皇を殺しましょうぞ」


 張良は周囲に目配せして、ささやく。

「ここで話をするのはまずい。私の家においでなさい」



   *



 連れだって共に帰り、張良は男に名を尋ねた。

 男が答えていわく、

「それがし、うじれい。いつも海辺に住んでいるので、蒼海公と呼ばれておる。

 自慢じゃないが、腕力なら誰にも負けぬ。重さ百斤(20kg以上)の鉄鎚でも振り回してみせます。

 さて、そこもとのことをただ者ではないと見込んで我が名を打ち明けたのだ。そちらの姓名もうかがいたい」


「私は張良、あざなは子房。

 五代にわたり韓に仕えて宰相となった家の出です。

 しかし、韓は始皇帝に滅ぼされてしまった。

 ゆえに千金を積んで協力者を募り、始皇を殺して先君の復讐をなそうと思っていたのだが、今に至るまで良い人と出会えなかった。

 今日、御辺ごへんに巡り会って、日頃の願いが叶いました。

 始皇帝は無道であり、天下の人は皆、歯ぎしりしている。

 もし御辺ごへんがこれを誅殺して、滅ぼされた六国のために復讐をなしとげれば、人民はその徳を称え、名は万代に残るでしょう」


 蒼海公は力強くうなずいた。

「力を尽くすと誓いましょう!」



   *



 計画を実行に移すべく、張良はひそかに始皇帝の動向を探りはじめた。


 しばらくして……

 始皇帝がこの近くを巡狩じゅんしゅするらしい、と判明した。


「好機だ。

 巡狩じゅんしゅの経路からみて、始皇帝の行列は博浪沙はくろうさ(現在の河南かなん省陽武県の南部)を通るだろう。そこを狙うのだ」


 張良と蒼海公は、ともに博浪沙はくろうさへ駆けつけ、高い丘の上から行列の様子をうかがった。


 すると……

 確かに、いる。

 雲霞うんかのごとき車馬の群れ、その先頭を……

 鮮やかな黄羅こうら(黄色の薄絹)の天蓋てんがいを張った、ひときわ絢爛豪華けんらんごうかな車が、威勢を見せつけるかのように進んでいる。


「あれだ、始皇帝の車は!」

 そう見極めた蒼海公は、丘の上から矢のように駆け下り、百斤の鉄槌を勢いまかせに投げつけた。


 それが車に、見事命中!

 車は砕けて木端微塵こっぱみじん


 だが、始皇帝は死んでいなかった。


 始皇帝は並はずれて用心深い男だ。

 人から狙われることがあるかもしれない、と考えて、普段から、従者用の副車そえぐるまに乗るようにしていたのである。

 先頭を行く豪華な車は、いわばおとり

 この罠に、蒼海公はまんまと引っかかってしまったのだ。


 もはや命運は定まった。

 御林ぎょりん(近衛)の武士たちが、たちまち蒼海公を取り囲み、生け捕りにする。


 始皇帝は冷たく命じた。

「誰に頼まれてちんを殺そうとしたのか? 拷問してしゃべらせよ」


 たちまちすさまじい拷問が始まった。蒼海公は苦痛に耐えながら目を怒らせて叫ぶ。

「俺は天下のために無道の者をちゅうせんとしたのだ! どうして人に頼まれることなどあろうか!」


 なんとあっぱれな義人だろうか。

 蒼海公は、命がけで張良をかばおうとしているのだ。


 始皇帝は、宦官かんがん(去勢された官吏)の趙高ちょうこうに命じて、さらに激しく拷問させた。


 すると蒼海公は、拷問に耐えきれなくなることを恐れたのか、自ら車の車軸に体当りして、死んでしまった。


 この顛末てんまつを聞いた始皇帝は、不安に眉を歪めた。

「自殺してまで拷問から逃れたか……つまり、誰かをかばっているということだな。

 ちんを狙う首謀者が他にいるに違いない。徹底的に探せ!」


 蒼海公の心理も、事の真相も、ものの見事に見抜いている。

 これが始皇帝の非凡さ。恐るべき眼力であった。



(つづく)

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