龍虎戦記 ~項羽vs劉邦~

外清内ダク

巻一 項羽と劉邦

一 始皇帝、狂う



「我が徳は、三皇に並び、五帝を超える。

 ゆえに『皇帝』と尊号を立てる。

 今より我をもって『始』として、この位を万世に伝えよう!」


 紀元前221年――

 西の大国しんの王、嬴政えいせいは、他の六国をことごとく滅ぼし、史上始めて中華統一をなしとげた。

 そして自らを『始皇帝』と称し、巨大統一国家の頂点に君臨したのである。


 その政治は、すさまじいものであった。

 かつての六国を全て廃して、天下を36郡に分割。

 反乱を防ぐために兵器を没収、それを融かして12体の像を鋳造し、富を誇示する。

 豪華絢爛なる宮殿を建て、高架の廊をかけわたし、おびただしく工事を行ったかと思えば、後宮を創立して諸国の美女を選び集める……


 日に日にひどくなっていくよこしまな贅沢。

 この世の遊楽という遊楽、極めないものはない、というほどであった。



   *



 あるとき、始皇帝は群臣に向かって言った。

いにしえの聖王は、天下を巡って民の様子をごらんになった。

 ちんも、これにならって巡狩じゅんしゅ(巡り歩いて視察すること)しようと思う。

 汝らの意見はどうか?」


 群臣は、口をそろえて答える。

「昔より、明君めいくんは天下を巡って民の苦労を見るものです。

 九重きゅうちょうの門(宮殿)の奥深くに閉じこもっておられたのでは、どうして天下の利や病を知ることができましょうか。

 陛下のお心は、いにしえの考えによく合ってございます」


 こうして始皇帝の全国巡狩じゅんしゅが始まった。


 その途中……

 隴西ろうせい(現在の中国北西部、甘粛かんしゅく省)を進むおり、始皇帝は山に登った。

 鶏頭山、というその山の高みに登って彼方を望めば、東南の方角に異様な雲がたちこめていて、ぼんやりと五色の光を放っているではないか。


「あの雲はなんだ」

 問う始皇帝に、近臣が答えた。

「あれは本物の雲ではありません。

 気があふれ出て、雲のように見えているもの……すなわち雲気です。

 それも、五色龍ごしきりゅうの形をなす極めてたっとき気。これをしずめることは、陛下ご自身にしかできますまい。

 東南に巡狩じゅんしゅして宝物を捧げる儀式を行いたまえば、雲気は自然に消滅するでしょう」


 始皇帝はこの進言に従い、東南で雲気を鎮める儀式を行ってから、咸陽かんようみやこに帰還した。



   *



 しかし……

 みやこに戻ったあとも、東南の雲気のことが頭から離れない。

 あれは、何かただならぬ未来の予兆なのではないか?

 そんな不安が日に日に膨らんでいく。


 ある日、気晴らしのために、始皇帝は後宮の美人を引き連れて庭園に出かけた。

 季節は春。美女たちの華やかな装いに、花も柳も色を添え、千の紫、万の紅、みな一時の栄華を極めていた。


 始皇帝は、しばらく花の下をぶらついた後、宮殿に登って足を休めた。

 吹き込んでくるぬるい春風が、ここちよく眠気を誘う。

 やがて始皇帝は机に寄りかかり、ウトウトと船をこぎはじめた……



   *



 と、そのとき。


 突如、轟音響いて天地震動し、紅の太陽が始皇帝の眼前に落ちてきた。


「なんだ!?」

 突然のできごとに、うろたえる始皇帝。


 そこへ、東の方角から一人の子供が駆けてきた。

 青い衣を着て、顔は鉄のように固く、目は重瞳ちょうどう――すなわち瞳孔が二つある。異相の少年である。


 青衣の少年は、落ちた太陽を拾い上げ、抱えて走り去ろうとした。


 それを、

「待て!」

 と呼び止める声がある。

 南の方角から、もう一人の少年が駆けつけたのだ。

 こちらの少年は紅の衣を身に着けている。


 紅衣の少年が叫ぶ。

「おまえ! どうして太陽を奪おうとする?

 それは俺のものだ。俺が天帝からめいを承ったのだ。早く返せ!」


 だが青衣の少年は、太陽を抱いて返そうとしない。

 当然、殴り合いのケンカになる。


 勝負は一方的だった。

 青衣の少年は、とにかく強かった。紅衣へ連打を食らわせること72発。めった打ちである。


 しかし紅衣もしぶとい。倒れない。

 我慢に我慢を重ねて耐え忍び、やがて、紅衣の少年は、渾身の力を込めて一発だけ拳を突き出した。


 すると、なんということだろう。

 よほど当たりどころが悪かったのか。この一発を食らったとたん、あれほど強かった青衣の少年が、バッタリ倒れて死んでしまったのである。


 勝った紅衣の少年は、太陽を抱き上げ、南へ走り去ろうとする。


 その背を、

「待てっ」

 と始皇帝が呼び止めた。

「少年よ、しばし止まれ。汝は一体何者だ?」


「俺はいにしえの聖帝、ぎょうしゅんの末裔。

 豊沛ほうはいに生まれ、咸陽かんように入って義をおこし、四百年の基礎を立てる」

 そう言い捨てて、少年は南へ走り去った。


 そのとたん、雲が湧き、霧が起こり、紅の光がひらめいた。すさまじいまぶしさに、始皇帝は思わず目をつむり……



   *



「うっ!?」

 ここで始皇帝は目を覚ました。

 夢。いままで夢を見ていたのだ。


 なんと不吉な夢だろうか。

 太陽は権力の象徴である。それが紅衣の少年に奪われた。ということはつまり……


「我がしんの天下が、いずれ他人のものとなる……そういう暗示なのではないか?」



   *



 思えば、この瞬間だったのだ。

 始皇帝の心が狂い始めたのは。


 度を超えた贅沢で民を苦しめてこそいたものの、始皇帝は決して愚かな君主ではなかった。

 むしろ並外れて合理的。しかもその政策を恐るべき強引さで貫徹する。だからこそ恨みを買いやすい。

 そういうたぐい為政者いせいしゃである。

 でなければ、この広い中国の統一など、とうてい成しとげられなかったろう。


 だが……

 この時期から、始皇帝の言動は明らかに常軌じょうきいっしはじめた。


「家臣たちも、我が息子も、まだまだ頼りない。

 しんの天下を守れるのは、ただひとりちんのみだ。

 ならば……

 不老不死の体を得て、ちんが万世までも天下に君たるべし!」


 狂っている。正気の沙汰ではない。

 だが、一度こうと思い定めれば、どこまでも徹底的にやりとげる……それが始皇帝という男だ。


 始皇帝は、家臣に命じて不老不死の薬を探させた。


 一人の家臣が言うことには、

「東海(現在の東シナ海)には、三つの仙山がございます。

 蓬莱ほうらい方丈ほうじょう瀛州えいしゅうなるこれらの山は、一年中春のごとく穏やかで、一日中晴れわたって寒暑を感じず、干支えとの巡りもありません。

 その地に不老不死の薬があるそうです。これを飲めば寿命できゅうすることはなくなるでしょう」


 始皇帝、

けいは、その仙山を見たのか?」


 家臣が答える。

「いいえ。

 しかし、方士ほうし(神仙を目指す修行者)の徐福じょふくと申す者が、かつて蓬莱ほうらい方丈ほうじょうにたどりつき、仙人たちが鶴に乗って飛び回るのを見たそうです。

 その徐福じょふくが今、私の家におります。し出して、直接お尋ねなさいませ」


 始皇帝は、すぐに徐福じょふくしよせた。

「不老不死の薬を求めるには、どうすればよいのか?」


 徐福じょふくが申しあげるには、

「それは大変に難しゅうございます。

 まず大船を十そうお造りください。

 これに童男と童女それぞれ500人、さらに金銀珠玉や飲食器などの財宝も載せて、わたくしめに授けてくだされば、東海に行って不死の薬を求めてきましょう」


 始皇帝は限りなく喜び、すぐに言われたとおりの準備を整えた。

 徐福じょふくは東海を目指して旅立った。



   *



 だが……

 待てど暮らせど、徐福じょふくは帰ってこない。連絡すらよこさない。


 そこで始皇帝は、

徐福じょふくの様子を見て参れ」

 と言って、盧生ろせいという儒者じゅしゃを派遣した。


 じゅ、という文字は、元々は学者一般を意味していた。

 後に孔子の教えが広まると、もっぱら孔子一門の学者たちを儒家じゅかとか儒者じゅしゃと呼ぶようになった。

 盧生ろせいもその一人である。


 みことのり(皇帝じきじきの命令)を受けた盧生ろせいは、海岸までやってきた。

 だが、海は煙波渺茫えんぱびょうぼう――激しい波で海面にもやが生まれ、海と空の境目も見えないほどけむっている。

 とうてい船など出せる状態ではない。


 盧生ろせいは長嘆して、むなしくうろつきまわった。

「これはまずい……

 何の成果も無しに帰ったら、始皇は私を罪に問うだろう。どうしたものか……」


 そうこうするうち、盧生ろせいは太岳という山脈に足を踏み入れた。


 その頂へ登ってみると、石の上に、奇妙な男が一人いる。

 髪の毛は、よもぎのようにぼうぼうと伸ばしっぱなし。

 顔には、あかがこびりついている。


 盧生ろせいに気づいて、男が立ちあがった。

「こんな山奥にやってくるとは、いったい何者か?」


 盧生ろせいが答える。

「私は始皇帝の命を受け、不老不死の薬を探しているのです」


 男は笑って、

「寿命というのは、あらかじめ天によって定められているのだ。その限度を逃れることは難しい。

 どうして不老不死の薬などが存在しようか」


 これを聞いて、盧生ろせいは顔色を変えた。

 雰囲気といい物言いといい、この男は凡人とは思えない。きっと仙人に違いない。

 そこで「不老不死を! 無理ならせめて長生の道を!」と繰りかえし繰りかえし乞い求めた。


 仙人もとうとう根負けして、そばにある石を押した。

 石の裏には穴が隠されていた。仙人はその穴に手を突っこみ、一冊の書を取り出した。


 題して『天籙秘訣てんろくひけつ』。

「この書を始皇帝にさずけて、つまびらかに見せよ。中に生死存亡の運命が書いてある」


 盧生ろせいは、さらに詳しい説明を求めたが、仙人は無視して石の上に寝転んでしまった。

 固く目を閉じ、それ以上はもう、何も語ろうとはしない。


 しかたなく、盧生ろせいは書を持って咸陽かんようへ帰還した。



   *



 この書『天籙秘訣てんろくひけつ』を、始皇帝はさっそく紐解ひもといた。

 だが、書かれているのは蝌蚪かと(オタマジャクシ)のような形の奇妙な文字ばかりで、まったく読むことができない。


「なんだ、この文字は?」

 始皇帝は首をかしげ、家臣に本を見せた。


 家臣は目を丸くする。

「や! これは蝌蚪文字かともじという古代の文字でございますぞ。

 しかも暗号がちりばめられていて、並の人間には読むことができません」


 そこで始皇帝は、丞相じょうしょう李斯りしに命じて解読を行わせた。


 しばらくして、李斯りしが報告を持ってきた。

「まだ全文の解読には至りませんが、一部は読むことができました。

 その中に、気になる記述が……」

「なんと書いてあったのだ?」


「それが……

 『しんを滅ぼす者はならん』と……」


 始皇帝は激怒した。

「そうか! しんの天下を揺るがすものは、北方の胡族こぞくであったか!

 大将軍蒙恬もうてんよ」

「はっ」

「人夫80万を動員し、中国との間に、万里にわたる長城を築け!

 費用はいくらかかってもかまわん!」


 これが、現代に残る『万里の長城』建設の始まりであった。


 始皇帝は気づいていなかったのだ。

 しんを滅ぼす『』という文字が、北方の胡族こぞくではなくて……

 実は、始皇帝の息子胡亥こがいを指していたのだ、ということに。



   *



 これ以後、始皇帝はそれまで以上に大工事を連発するようになった。


 万里の長城のみならず……

 東は大海を埋め立て……

 西は広大な宮殿、阿房宮あぼうきゅうを建て……

 南は五山を切り拓き、殿閣を造りつらねて……


 これら巨大事業のために莫大な資金がついやされ、その負担はみな民に押しつけられた。

 民の怨嗟えんさは、日を追うごとに積もっていく。


 その不満を押さえつけるために法律をさらに厳格化し、ほしいままに強権をふるった。


 さらには、このあやまちを人々が議論することを恐れ、丞相じょうしょう李斯りしに命じて恐るべき悪行に手を染めた。

 天下の書籍をき捨て、儒者じゅしゃ460人あまりをあなに入れて埋め殺したのだ。


 これぞ歴史に悪名高き焚書坑儒ふんしょこうじゅである。



   *



 始皇帝の長男扶蘇ふそは、父の行状を見かねていさめた。

じゅを学ぶ者は、みな孔子をもって法とします。陛下がお作りになった法で重く罰しても、彼らは納得しますまい。

 こんなことが続けば、天下が安寧を保てなくなります」


 始皇帝は怒り狂った。

 もともと猜疑心さいぎしんの強い人物だったが、最近は、以前にもまして感情の起伏が激しくなっているようだ。

「どうしてちんの意思に逆らうのだ! もはやこの中国に留まることは許さん!」


 こうして、跡継ぎの太子たる扶蘇ふそをさえ、北の辺境へ追いやってしまった。

 名目上は大将軍蒙恬もうてんの軍を監督させる、ということになっていたが、事実上の追放であることは誰の目にも明らかだった。



   *



 始皇帝の猜疑さいぎは、なおも深まっていく。


 かつて見た東南の雲気を、始皇帝はいまだに怪しみ続けていた。

「東南で反乱が起きるのではないだろうか? ちんが目を光らせておかねばならぬ」

 そんな不安に取り憑かれ、またも東国を巡狩じゅんしゅし始めた。


 ここ数年、東の国々は飢饉ききん続きで、人民はひどく苦しんでいた。

 にもかかわらず、始皇帝の車の通るところ、一日に数万もの金銀を費やす。

 途方もない浪費である……その負担は、もちろん百姓にのしかかってくる。


 苛烈な徴税によって暮らしていけなくなった百姓は、つぎつぎに耕地を捨てて逃亡していった。

 彼らの中に、始皇帝を恨まぬものは一人もいなかったという。



(つづく)




■次回予告■


 とどろ怨嗟えんさ蔓延はびこる恐怖。混迷を深めるしん帝国。その暴威を取りのぞくため、一人の男が立ち上がる。

 彼は張良、あざな子房しぼう

 『中国史上最強』の名をほしいままにした伝説的軍師の登場である。


 次回「龍虎戦記」第二回

 『始皇帝暗殺計画』


 う、ご期待!

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