第2話

 灯台下暗しという言葉がある。

 人は遠くのものよりも近くのものの方こそ見落としやすく、中々気が付かないものなのだ。

 ならば、未だ技術革新が目覚ましい現代においてもなお、死の意味を人がはっきりと理解できないのも無理はない。

 死とは生きとし生けるもの達にとって、もっとも身近なものなのだから……。



 ーー男は、キーボードから手を離すと、背もたれ付きの椅子にドッと、深く背中を持たれかけた。

 

 男が今いるのは、清潔で程よい緊張感に包まれたオフィスの一室だ。

 周囲からはカタカタとキーボードとマウスを打つ音が響き、社員達が皆忙しそうに歩き回ったり電話をかけたりしている。時計は15:00を少し回ったところを指している。

 男はそれを見て、鼻から大きくため息をついた。


(ーーはぁ……今日も退屈だ……)


 オフィスの同僚達は、いつもと変わらない姿で皆それぞれの職務を全うしている。

 コピーを取る女性社員……談笑する若手社員二人……今から取引先に行く様子の白髪混じりの営業マン……オフィス中央でふんぞりかえるカエル顔の課長……。男はそれを見て


(みんなどいつもこいつもつまらない。

『私は日々を頑張って生きてます!』って顔して働いてやがる。自分が人生を謳歌してるって思い込んでいる。

 当たり前のものだけで、満足してやがる……なんてつまらないんだ)


 内心で周囲の物、人……何もかも全てに対して心の中で唾を吐いた。


 

 男は昔からとても優秀な人間だった。裕福な家に生まれ、両親から過度な愛情を受けて育った男は、生まれた時からなんでも揃っていたし、自身が望むもので手に入らないものはなかった。

 やがて男は、なんでも与えられる境遇に退屈し始め、成長と共にどんな事にも挑戦した。

 水泳……ピアノ……書道、英会話、ヴァイオリン、サッカー、絵画……。

 自身を満たすものを求め、ひたすら男は邁進した。

 そしてどれをやっても、男は才能を発揮し、優秀な結果を残こせたのだ。

 もちろんそれは恵まれた環境が男をサポートしたからとも言えるだろうが、その結果をもたらせたのは男自身の情熱故でもあった。

 まだこの頃男は、追い求めれば自分が掴みたいものが見つかると信じていたのだ。だからこそ、自分のやる事に一生懸命になっていた。

 しかし、やがて男は気づいた。何をやっても、どんな成果を残しても、何故か満たされる事のない自分自身がいるという事に……。

 そしてその考えに囚われると、言いようのないモヤモヤとした、不安とも絶望とも言い難い思いを抱え込んでしまうのであった。


 何かに真剣に取り組んでいても、その満たされないという思いに触れると、男はすぐさま今まで取り組んでいた事を放り出してしまう様になった。

 結末のわかりきっているものに男は興味を示さなくなっていた。

 

 やがて成長した男は、優秀で周りから羨望される様な人間になったが、心の中にいつもポッカリとした空虚さと全てをくだらないと見捨てる傲慢さを抱える様になった。

 そしてそれは、どんな事をしても、どんな相手と関わっても決して埋まる事のない空洞だった。


 

 ぼんやりと、周りの人間とオフィス家具と文字の羅列を写すPCを、混ぜこぜにしながら眺めていた男は、奥の席に座っていた課長が自分の方に向かって来たのに目を止めた。

 視界をクリアに戻し、目の前まで来た課長をしっかり認識した男は、無機質な表情で課長に応じた。


「課長。どうされました? 追加の仕事ですか」


 品のよく、しかしひどく冷たい音声が男の口から流れ出る。

 それを男自身の言葉と捉えた課長がへりくだるように答えた。


「いやぁ、今日はもう大丈夫だ。君はいつも仕事が早くて助かるよ。他のやつも見習って欲しいもんだ……」


 男はその言葉に酷くあいまいに、はぁと相槌を打った。それを聞いた課長は


「ただ、今度の企画のプレゼンがあるだろ? 実はそれを君に任せたいと思っているんだが……どうかな?」


 課長は探るように男に聞いて来た。 


(……本題はこれか)


 男は、その課長の打診にむべもなく


「私より適任がいますよ。今回は辞退します」


 と答えた。


 男は人生の意味を見失い、そして死者に魅せられたその日から、それ以外の事にあまり興味を示さなくなった。

 仕事も叱責を受けない程度にそこそこにやれればいいと思っており、過度に目立つ真似は嫌っていた。

 しかし男の願望と釣り合わない有能さが、周囲から一定の評価をされており、その為度々この様な面倒事を人から頼まれる。それに男はうんざりしていた。


 なんとか食いさがろとする課長に、男はやんわりと、それでいて決然と与えられそうになった役割を辞退した。

 課長は納得すると、その弛んだ風船の様な身体を揺りながら、自分の席へと帰っていく。


 すると突然、背後から男に話しかけるものがいた。


「相変わらず頼られてるんですね」


 そう言ったのは一人の女性社員だった。

 男は緩慢に女性社員の方を一瞥すると


「いや……別にそんな事はないですよ」


 とそっけなく返した。


「またまた〜いいんですか? 昇進のチャンスなのに。あ、それともこの間の約束の為に予定を空けておいてくれたんですか?」


 と女は言った。そこで初めて女の顔をしっかりと見て、そうしても尚、顔が思い出せなかったので、女の胸についた名札を見て、ようやくそれが誰か認識した。


(あぁ、こいつこの間休憩室でしつこく連絡先を聞いて来た女か)


 その同僚の女は先日男と連絡先を交換しようとしつこく迫って来て、それを男にはぐらかされ続けたが、ならば代わりに一度食事をしようと約束を取り付けて来たのだ。

 

 女は尚もニヤニヤと男に笑いかけてくる。男は内心イラつきながら


「実は暫く私用で忙しくなりそうなんですよ。だからプレゼンも断ったんです」


 と言ったが、女が被せる様に


「え〜……じゃあ、先でもいいから日にちだけ決めちゃいましょうよ! 私はいつでもいいんで」


 と言って来た。男の胸中は苛立ち、女を当たり障りない様にあしらうか、いっそ手ひどく突っぱねるか天秤にかけようとしたところ、女が先程の課長に呼び止められた。女は


「……なんなのよ一体」


 と呟き課長の元へ向かった。


 男は、そのまま女を目線で追い、席についてニヤつきながら話す課長と、目元をひくつかせながら笑顔を浮かべて話す女社員の顔を見ながら、こう考えた。


(……くだらない奴らだ。欲まみれでそのくせそんな自分を誤魔化す様に生きている、気持ちの悪い木偶だ。

 ハッ、まぁそれは俺も同じか……)


 男は課長と女の顔を見ながら、あれらが死体だったらどんなにいいだろうかと考えた。

 あの女のみずみずしい肌が、課長の肥えた身体が死体の様に腐り、萎れ枯れ果てればとても美しいものになる……。男はそう考えた。

 次第に、男は二人の顔に今まで見て来た死者達の顔を当てはめ始めた。

 命の脈動を失くし、肉塊となって次第に移ろいゆく老若男女の姿を二人に当てはめた。

 次第に、男の周囲にはあの死者達の森が広がっていた。それは梢を揺らす風と共に、微かな死臭を男の鼻腔に届けて来た。

 男は思わず、二人の元へ手を伸ばしそうになった。瞬間


 トゥルルルルル


 と、内線の着信音が鳴った。

 我に返った男が辺りを見回すと、森の風景はとうに失せて、いつものつまらない無機質なオフィスの向かいの席で一人の社員が電話をしながら平謝りしているのが見える。

 

 それを見て男は、酷く不満そうなため息をつき、終業の準備を整えた。

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